「テンノオイシキ」の行事を数年前に復活させたAさん。
長らく中断していた行事を復活させたいと思っていた。
一人でするには労力も時間もかかるが、少しずつ戻そうと努力を重ねてきた。
ツナウチ保存会を立ち上げて平成26年に復活したというから、つい最近のことである。
「テンノオイシキ」は牛頭天王を祭る「天王会式」が訛ったと考えられる。
立ちあげた保存会は「牛頭綱打」。
Aさんの他、大字以外の人たちの協力による復活である。
当地に鎮座する神さんは牛頭天王。
牛頭天王宮の燈籠に「寛政四年(1792)十一月吉日 天王宮常夜燈」の刻印がみられる。
牛頭天王宮が鎮座する境内地に堂宇がある。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった堂宇はAさんに確認すれば、やはりの地蔵堂である。
地蔵堂と牛頭天王社の間にあるのは庚申石と先祖供養の奉供養石である。
祠はいつの年代に建てたのか記録はないようだ。
天王社や地蔵堂がある地は千森(ちもり)。
上組、中組、奥組の三つの垣内で守ってきた。
前述した庚申さんの行事がある。
旧暦閏年に行われる行事は「トウゲ」の名がある。
桜井市の山間では「トウゲ」や「トアゲ」、或は「トウアゲ」などの名で呼んでいる旧暦閏年の行事が数多く残っている。
私が知る範囲内に小夫、小夫嵩方、修理枝、瀧倉、芹井、北白木、中白木、脇本、出雲など。
民俗調査された津浦和久氏によれば鹿路、飯盛塚、百市、西之宮、北音羽、今井谷、高田、生田、池之内、東新堂、慈恩寺、倉橋、上之宮、戒重、新屋敷、大西、吉備、阿部、谷、高家などである。(※ 名称が不明な地域は除く)
ちなみに千森のトウゲはだいたいが3月ころ。
花立を作って立てる。
先に葉をつけた杉の木を削って願文を書く塔婆も立てる。
塔婆作りは二つの垣内。
二つの垣内が毎回、交替して作る。
祈願するトウゲ行事を終えたら作った垣内以外の垣内が持ち帰っても構わないようだ。
ただ、持って帰る時間帯は夜中。
人に見られんように持ち帰る。
持ち帰った塔婆は玄関軒下に架けておくそうだ。
それは泥棒除けのまじないになるらしい。
そういうことはかつてあった地蔵講の人に教わったと話す。
地蔵堂は桜井市の市街地、商店街の人たちが寄進して建てたそうだ。
お寺は桜井市桜井の来迎寺(融通念仏宗派)。
仏具を寄進してくれたそうだ。
地蔵堂の昔しは長谷寺真言宗派だった。
今では無住である。
大字笠には融通念仏宗派の妙徳寺がある。
かつては真言宗派の加佐寺があった。
「加佐」はまさに「笠」であるが、今の竹林寺。真言宗派から融通念仏宗派に宗派替えした。
いつの時代に村全体が宗派替えをしたようである。
その竹林寺のご本尊は薬師如来。
4月と9月の8日に薬師祭が行われているようだ。
ちなみに隣村の天理市藤井の行事にオコナイがある。
今では無住寺であるが、笠から僧侶が来られて念仏を唱えられた。
笠の妙徳寺(妙円寺?)の僧侶はランジョーをご存じでなく、突然に始まった太鼓打ちや縁叩きの作法に驚かれていたことを覚えている。
融通念仏宗派には見られない作法に驚かれたのであるが、藤井も笠もかつては真言宗派。
それゆえオコナイと呼ぶ正月初めの初祈祷が行われているのである。
その妙徳寺の僧侶はお盆に参ってくれると云う。
12月、十夜の法要には数珠繰りをしていた。
「なんまいだ なんまいだ」を繰り返しながら数珠を繰っていたという数珠が地蔵堂に残されている。
テンノオイシキの草鞋作りは地蔵堂の縁で作業する。
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滅多に開けることのない地蔵堂を見ていただきたいと扉を開放してくださったAさんのご厚意で本尊の錫杖をもつ石造りの地蔵立像を拝見する。
その場には昭和50年2月吉日、昭和55年3月3日に寄進された二冊の『西國三十三所御詠歌』本がある。
一つには「融心院究法清通釋居士」、「究覚院融法妙通釋定尼」の両名があった。
ここで数珠繰りをしていたと云って見せてくださる。
それほど古くもない地蔵堂什物の木魚箱もある。
前述した地蔵講の所有物であったろう。
本尊奥には奉納融通大会・・・の札とかもあるから現在は融通念仏宗派。
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室内には今ではまったく使うことのない伏鉦があった。
新しい撞木(しゅもく)は「平成8年2月 地蔵堂」とある。
その時代は地蔵講による会式があったと云える道具である。
その伏鉦の裏面を拝見させていただく。
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そこにあった刻印は「和州式上郡笠村地蔵堂什物 宝暦十一年(辛巳 )年三月吉日 京大佛住西村左近宗春作」だった。
宝暦十一年は西暦1761年。
今から256年前である。
所在地、製作年、鉦製作者の三つとも刻印があることで明白な歴史を知るのである。
同寺にはもう一つの伏鉦があったが、こちらには刻印がなかっただけに貴重な史料である。
棚にあった箱に「昭和四年 初夏 櫻井佃田大師講」の文字があった。
地蔵講は地元民であるが、大師講はどこであるのか。
世話方が12人、寄付者は連名64人を記された「佛具購買貴寄附御氏名」額もある。
前述した市内市街地の人たちである。
さまざまな人たちが関係してきた地蔵堂であった。
地蔵堂がある地は旧伊勢街道。
面影は見られないがかつては往来する旅人が一休みする休憩場があったそうだ。
伊勢に向かう旅人は旅の安全を願って庚申さんに手を合わせていた。
その関係もあって千森の垣内の人たちが縄を結って奉っていたらしいこの場を峠越と呼んでいた。
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かつての縄結いは垣内の人がしていた。
藁打ちをしてから縄結いをする。
作った注連縄や供える草鞋は一時保管。
14日のテンノオイシキの日に架けていた。
テンノオイシキに先だって作らなければならないのが稲藁で作る草鞋である。
稲藁は収穫した古代米。
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ずっと拝見していたいが、時間的な都合で一足を編んでいる状況を撮らせてもらって下った。
(H28. 7.10 EOS40D撮影)
長らく中断していた行事を復活させたいと思っていた。
一人でするには労力も時間もかかるが、少しずつ戻そうと努力を重ねてきた。
ツナウチ保存会を立ち上げて平成26年に復活したというから、つい最近のことである。
「テンノオイシキ」は牛頭天王を祭る「天王会式」が訛ったと考えられる。
立ちあげた保存会は「牛頭綱打」。
Aさんの他、大字以外の人たちの協力による復活である。
当地に鎮座する神さんは牛頭天王。
牛頭天王宮の燈籠に「寛政四年(1792)十一月吉日 天王宮常夜燈」の刻印がみられる。
牛頭天王宮が鎮座する境内地に堂宇がある。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった堂宇はAさんに確認すれば、やはりの地蔵堂である。
地蔵堂と牛頭天王社の間にあるのは庚申石と先祖供養の奉供養石である。
祠はいつの年代に建てたのか記録はないようだ。
天王社や地蔵堂がある地は千森(ちもり)。
上組、中組、奥組の三つの垣内で守ってきた。
前述した庚申さんの行事がある。
旧暦閏年に行われる行事は「トウゲ」の名がある。
桜井市の山間では「トウゲ」や「トアゲ」、或は「トウアゲ」などの名で呼んでいる旧暦閏年の行事が数多く残っている。
私が知る範囲内に小夫、小夫嵩方、修理枝、瀧倉、芹井、北白木、中白木、脇本、出雲など。
民俗調査された津浦和久氏によれば鹿路、飯盛塚、百市、西之宮、北音羽、今井谷、高田、生田、池之内、東新堂、慈恩寺、倉橋、上之宮、戒重、新屋敷、大西、吉備、阿部、谷、高家などである。(※ 名称が不明な地域は除く)
ちなみに千森のトウゲはだいたいが3月ころ。
花立を作って立てる。
先に葉をつけた杉の木を削って願文を書く塔婆も立てる。
塔婆作りは二つの垣内。
二つの垣内が毎回、交替して作る。
祈願するトウゲ行事を終えたら作った垣内以外の垣内が持ち帰っても構わないようだ。
ただ、持って帰る時間帯は夜中。
人に見られんように持ち帰る。
持ち帰った塔婆は玄関軒下に架けておくそうだ。
それは泥棒除けのまじないになるらしい。
そういうことはかつてあった地蔵講の人に教わったと話す。
地蔵堂は桜井市の市街地、商店街の人たちが寄進して建てたそうだ。
お寺は桜井市桜井の来迎寺(融通念仏宗派)。
仏具を寄進してくれたそうだ。
地蔵堂の昔しは長谷寺真言宗派だった。
今では無住である。
大字笠には融通念仏宗派の妙徳寺がある。
かつては真言宗派の加佐寺があった。
「加佐」はまさに「笠」であるが、今の竹林寺。真言宗派から融通念仏宗派に宗派替えした。
いつの時代に村全体が宗派替えをしたようである。
その竹林寺のご本尊は薬師如来。
4月と9月の8日に薬師祭が行われているようだ。
ちなみに隣村の天理市藤井の行事にオコナイがある。
今では無住寺であるが、笠から僧侶が来られて念仏を唱えられた。
笠の妙徳寺(妙円寺?)の僧侶はランジョーをご存じでなく、突然に始まった太鼓打ちや縁叩きの作法に驚かれていたことを覚えている。
融通念仏宗派には見られない作法に驚かれたのであるが、藤井も笠もかつては真言宗派。
それゆえオコナイと呼ぶ正月初めの初祈祷が行われているのである。
その妙徳寺の僧侶はお盆に参ってくれると云う。
12月、十夜の法要には数珠繰りをしていた。
「なんまいだ なんまいだ」を繰り返しながら数珠を繰っていたという数珠が地蔵堂に残されている。
テンノオイシキの草鞋作りは地蔵堂の縁で作業する。
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滅多に開けることのない地蔵堂を見ていただきたいと扉を開放してくださったAさんのご厚意で本尊の錫杖をもつ石造りの地蔵立像を拝見する。
その場には昭和50年2月吉日、昭和55年3月3日に寄進された二冊の『西國三十三所御詠歌』本がある。
一つには「融心院究法清通釋居士」、「究覚院融法妙通釋定尼」の両名があった。
ここで数珠繰りをしていたと云って見せてくださる。
それほど古くもない地蔵堂什物の木魚箱もある。
前述した地蔵講の所有物であったろう。
本尊奥には奉納融通大会・・・の札とかもあるから現在は融通念仏宗派。
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室内には今ではまったく使うことのない伏鉦があった。
新しい撞木(しゅもく)は「平成8年2月 地蔵堂」とある。
その時代は地蔵講による会式があったと云える道具である。
その伏鉦の裏面を拝見させていただく。
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そこにあった刻印は「和州式上郡笠村地蔵堂什物 宝暦十一年(辛巳 )年三月吉日 京大佛住西村左近宗春作」だった。
宝暦十一年は西暦1761年。
今から256年前である。
所在地、製作年、鉦製作者の三つとも刻印があることで明白な歴史を知るのである。
同寺にはもう一つの伏鉦があったが、こちらには刻印がなかっただけに貴重な史料である。
棚にあった箱に「昭和四年 初夏 櫻井佃田大師講」の文字があった。
地蔵講は地元民であるが、大師講はどこであるのか。
世話方が12人、寄付者は連名64人を記された「佛具購買貴寄附御氏名」額もある。
前述した市内市街地の人たちである。
さまざまな人たちが関係してきた地蔵堂であった。
地蔵堂がある地は旧伊勢街道。
面影は見られないがかつては往来する旅人が一休みする休憩場があったそうだ。
伊勢に向かう旅人は旅の安全を願って庚申さんに手を合わせていた。
その関係もあって千森の垣内の人たちが縄を結って奉っていたらしいこの場を峠越と呼んでいた。
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かつての縄結いは垣内の人がしていた。
藁打ちをしてから縄結いをする。
作った注連縄や供える草鞋は一時保管。
14日のテンノオイシキの日に架けていた。
テンノオイシキに先だって作らなければならないのが稲藁で作る草鞋である。
稲藁は収穫した古代米。
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ずっと拝見していたいが、時間的な都合で一足を編んでいる状況を撮らせてもらって下った。
(H28. 7.10 EOS40D撮影)