笠の山は笠山。
鷲峯山とも称される三笠山の古い名前はミユキ山だった。
ミユキは「御幸」。
御幸山と書いてミユキヤマと呼ぶ。
幸山でもある。
さまざまな名前で呼ばれた神々しい山に鎮座する牛頭天王社。
左手にある社は幸天神宮。
幸山にある天神宮というわけだ。
両社殿に架けた注連縄はコジメ。
いわゆる小注連縄である。
一方、朱塗りの鳥居は太目の注連縄である。
三つの房を垂らした注連縄は今回が初めて見る。
今年の6月12日に訪れたときに見た注連縄はコジメだった。
その形は初めて千森を訪れた平成27年2月15日に拝見したときと同じ状態であった。
それが、である。
見事な房を垂らした注連縄に変身していた。
縄を結ったAさんの話しによれば右が頭。
左は尾。
これが正式な架け方だと話す。
その右手の水平柱に架けてあったのが牛の草鞋。
数は一足半と決まっている。
天王しか着ることのできなかったキヨウカタビラ。
一生に一度しか着ることのない着物の柄に三本足の鳳凰の姿があるという。
絵本にそういうことが書いてあった。
牛頭さんが神のお使いとして出仕するときに着用するとか・・・。
一足半は三本足の鳳凰の姿からきているらしい。
かつての縄結いは垣内の人がしていた。
藁打ちをしてから縄結いをする。
作った注連縄や供える草鞋は一時保管しておく。
架けるのは14日のテンノオイシキの日であった。
綱打保存会を立ち上げて2年目。
途絶えていたイシキの注連縄と草鞋作りを復活させてが、作る日も行事の日も一定しない。
時間もそうだが、都合によって日程を繰り上げる場合もある。
今朝の7時がそうだったいう縄架けに草鞋吊り。
翌日の14日は大雨になりそうだった。
それを避けるために一日早めたというテンノウイシキは会式らしくもなく一人で行っていたそうだ。
神饌御供を供えて拝礼する。
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そして祝詞を奏上していたと云う。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった。
牛頭天王社に注連縄架け。
庚申堂に大草鞋を吊っていた会式は地蔵会式でもなく、7月14日にされていることから県内各地で行われている牛頭さんを祭る行事と同じ日である。
それゆえに「テンノオイシキ」と呼んでいる千森の行事は「牛頭天王の会式」であったに違いない。
10日に縄結いをしていたときにイシキの日を聞いていたが、曖昧な答えだった。
もしかとしてと思って再訪した千森の地。
ご主人に声をかけたら昨日にしたという。
10日に作っていたときは一言もなかった大草鞋が吊ってあった。
長さは50cmで幅は22cmの大草鞋に感動する。
昔の大草鞋の大きさはもっと大きかったと云う。
長さは庚申祠の下につかえるくらいの80cmだったそうだ。
鳥居に架けてあった牛の草鞋は一足半。
前回に拝見したときよりも多少は長さも伸びたような気がする。
牛の草鞋は御所市鴨神大西の申講が行く山の神行事で拝見したことがある。
形はどちらかと云えばまん丸い。
ここ千森で拝見した前回の牛の草鞋も同じように丸型だった。
それと比べてもわかるように大草鞋は実に大きく見える。
庚申さんの祠の左側に吊るしたのは大草鞋だけでなくそれぞれが片足ずつの草鞋もある。
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それぞれがわかりやすいように解いてくれた。
手前にあるのが子供の草鞋。
長さが10cmほどだ。
その奥が男の草鞋。
それには男根がある。
突き出た男根は長さが20cm。
草鞋の長さは20cmの男のシンボルがあったのだ。
これにはご丁寧に陰毛も模している。
材料はシュロ。
チリチリにはなっていないが、それらしく見える。
前回に拝見したときは、まったくと云っていいほど、そういう状態であったことに気がついていなかった。
解いてみて始めて判る相手先は女の草鞋。
ご丁寧に草鞋のど真ん中は穴が開いている。
きちんとした姿で穴を開けたそこに男根が突き刺さっていたのだ。
その女の草鞋も長さが20cm。
子孫繁栄を願う雌雄合体した草鞋であった。
その証拠に子どもの草鞋がある。
よく見れば子どもの草鞋大小は2枚。
兄弟なのか姉妹なのか、聞きそびれた。
前述した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、5月の田植え前に青年たちが作って豊作を祈願していたとある。
テンノオイシキの日でもなく豊作を願う農の風習であったようだ。
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ちなみにこれまで吊るしていた古い注連縄や草鞋は境内で焼却したそうだ。
(H28. 7.13 EOS40D撮影)
鷲峯山とも称される三笠山の古い名前はミユキ山だった。
ミユキは「御幸」。
御幸山と書いてミユキヤマと呼ぶ。
幸山でもある。
さまざまな名前で呼ばれた神々しい山に鎮座する牛頭天王社。
左手にある社は幸天神宮。
幸山にある天神宮というわけだ。
両社殿に架けた注連縄はコジメ。
いわゆる小注連縄である。
一方、朱塗りの鳥居は太目の注連縄である。
三つの房を垂らした注連縄は今回が初めて見る。
今年の6月12日に訪れたときに見た注連縄はコジメだった。
その形は初めて千森を訪れた平成27年2月15日に拝見したときと同じ状態であった。
それが、である。
見事な房を垂らした注連縄に変身していた。
縄を結ったAさんの話しによれば右が頭。
左は尾。
これが正式な架け方だと話す。
その右手の水平柱に架けてあったのが牛の草鞋。
数は一足半と決まっている。
天王しか着ることのできなかったキヨウカタビラ。
一生に一度しか着ることのない着物の柄に三本足の鳳凰の姿があるという。
絵本にそういうことが書いてあった。
牛頭さんが神のお使いとして出仕するときに着用するとか・・・。
一足半は三本足の鳳凰の姿からきているらしい。
かつての縄結いは垣内の人がしていた。
藁打ちをしてから縄結いをする。
作った注連縄や供える草鞋は一時保管しておく。
架けるのは14日のテンノオイシキの日であった。
綱打保存会を立ち上げて2年目。
途絶えていたイシキの注連縄と草鞋作りを復活させてが、作る日も行事の日も一定しない。
時間もそうだが、都合によって日程を繰り上げる場合もある。
今朝の7時がそうだったいう縄架けに草鞋吊り。
翌日の14日は大雨になりそうだった。
それを避けるために一日早めたというテンノウイシキは会式らしくもなく一人で行っていたそうだ。
神饌御供を供えて拝礼する。
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そして祝詞を奏上していたと云う。
昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば石の地蔵尊を祀り、8月24日が会式だと書いてあった。
牛頭天王社に注連縄架け。
庚申堂に大草鞋を吊っていた会式は地蔵会式でもなく、7月14日にされていることから県内各地で行われている牛頭さんを祭る行事と同じ日である。
それゆえに「テンノオイシキ」と呼んでいる千森の行事は「牛頭天王の会式」であったに違いない。
10日に縄結いをしていたときにイシキの日を聞いていたが、曖昧な答えだった。
もしかとしてと思って再訪した千森の地。
ご主人に声をかけたら昨日にしたという。
10日に作っていたときは一言もなかった大草鞋が吊ってあった。
長さは50cmで幅は22cmの大草鞋に感動する。
昔の大草鞋の大きさはもっと大きかったと云う。
長さは庚申祠の下につかえるくらいの80cmだったそうだ。
鳥居に架けてあった牛の草鞋は一足半。
前回に拝見したときよりも多少は長さも伸びたような気がする。
牛の草鞋は御所市鴨神大西の申講が行く山の神行事で拝見したことがある。
形はどちらかと云えばまん丸い。
ここ千森で拝見した前回の牛の草鞋も同じように丸型だった。
それと比べてもわかるように大草鞋は実に大きく見える。
庚申さんの祠の左側に吊るしたのは大草鞋だけでなくそれぞれが片足ずつの草鞋もある。
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それぞれがわかりやすいように解いてくれた。
手前にあるのが子供の草鞋。
長さが10cmほどだ。
その奥が男の草鞋。
それには男根がある。
突き出た男根は長さが20cm。
草鞋の長さは20cmの男のシンボルがあったのだ。
これにはご丁寧に陰毛も模している。
材料はシュロ。
チリチリにはなっていないが、それらしく見える。
前回に拝見したときは、まったくと云っていいほど、そういう状態であったことに気がついていなかった。
解いてみて始めて判る相手先は女の草鞋。
ご丁寧に草鞋のど真ん中は穴が開いている。
きちんとした姿で穴を開けたそこに男根が突き刺さっていたのだ。
その女の草鞋も長さが20cm。
子孫繁栄を願う雌雄合体した草鞋であった。
その証拠に子どもの草鞋がある。
よく見れば子どもの草鞋大小は2枚。
兄弟なのか姉妹なのか、聞きそびれた。
前述した『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、5月の田植え前に青年たちが作って豊作を祈願していたとある。
テンノオイシキの日でもなく豊作を願う農の風習であったようだ。
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ちなみにこれまで吊るしていた古い注連縄や草鞋は境内で焼却したそうだ。
(H28. 7.13 EOS40D撮影)