7月14日と云えば祇園さん。
県内各地で行われている夏祭りの祇園祭であるが、すべての神社ではない。
特定の神社で行われていることに気づく。
7日から14日の間のいずれかで祇園祭が行われている地域はたくさん見つかる。
大和郡山市では矢田町の八坂神社、椎木町の杵築神社、横田町の和爾下神社、池之内町の八幡神社。
奈良市は大保町の八坂神社。
桜井市は三輪の素盞嗚神社、初瀬の素盞雄神社。
天理市は苣原の須賀神社、武蔵町の素盞嗚神社、海知町の倭恩智神社。
田原本町は矢部の杵都岐神社に津島神社にある。
他にもたくさんの地域でされていると思われるが、いずれもかつては牛頭天王の名で呼ばれていた神社である。
全国規模でいえば祇園社を勧請している神社は3050社もあるらしい。
帯解地域にある山町の下山八坂神社がある。
これまで数多くの年中行事を取材させていただいた。
平成20年4月3日、翌年の平成21年4月3日は神武祭。
平成21年10月9日は宵宮当家祭。平成18年10月8日、3年後の平成21年10月11日は当家祭。
平成18年12月28日は正月を迎える簾型の注連縄作りや門松飾りを拝見した。
手で捻ったシンコモチが登場する神武祭は産経新聞の奈良版に記事を掲載した。
また、モッソや女児が担ぐゴクカツギやトーニン、トーニン、ワッハッハーイを唱和するお渡りがある当家祭は京都の出版社の淡交社から発刊した『奈良大和路の年中行事』で紹介した。
神社祭祀を務めているのは一老から六老までの六人衆。
かつて行事取材にお世話になった六人衆は死去される、或は退かれたことによって様変わりしていた。
久しぶりの平成26年7月、平成27年2月にお会いしたTさんは山の辺の道「奈良道」を守る会の理事職。
ひょんなことから会が催す写真展に頼まれ参加することになった。
そのころは六老から二老に繰り上がっていた。
これまでの六人衆は和服であったが、平成25年に改正されて礼服に移り、当家祭の御供搗きも中断することになったと聞いている。
平成25年の8月14日は池田町で行われるタイマツ行事の取材をしていた。
その場でお会いしたTさんは六老になったと話していた。
それから5年後にお会いしたTさんは一老に昇格していた。
月日が経つのは早い。
六人衆の移り変わり年代も早い。
こうした六人衆の経緯もあった下山八坂神社。
かつては牛頭天皇社と呼ばれていた神社である。
到着した時間は午前10時過ぎ。
人の声はするが神社本殿前ではなく参籠所だった。
雨がいつ降るやもしれないからと判断されて例年より時間を繰り上げて早めに斎行したので、たった今、終わったばかりだという。
六人衆が斎行する祇園祭は普段着姿。
村神主の一老が斎主となり、三巻の般若心経を唱えていたという。
ご挨拶もそこそこに残存状態を撮らせてもらう。
祇園祭のお供えの特徴は三本のシロウリである。
昭和60年からはシロウリになったが、それまでは5本のシロナスビを供えていたという。
その祇園祭は、かつて牛供養の呼び名があった行事。
昭和28年4月に発刊、昭和56年7月に再販された添上郡帯解町郷土研究会編の『帯解町郷土誌』がある。
それによれば「六人衆によって、神饌物として洗米、鯛、白瓜、昆布、するめ、茄子、お神酒が供えられ祇園御霊祭が行われる。また、この日は牛供養も行われた」とあることから、その供養に般若心経であったのだろうか。
昭和28年の時代に生きてきた若人。
仮に二十歳代としても今年で80歳越え。
覚えている人は居るのだろうか。
斎行が終わるころになれば村役の人たちが参集してきた。
この日は直会も兼ねた村行事の打合せ。
10月第二土曜、第二日曜に行っている当家祭と特定日の9日が祭礼である公式祭の名がある秋例祭の調整である。
今年は9日が第二日曜日。
祭りの日が重なってしまう。
さて、どうするか・・である。
悩ましき課題に意見を求められるが回答は難しい。
(H28. 7.14 EOS40D撮影)
県内各地で行われている夏祭りの祇園祭であるが、すべての神社ではない。
特定の神社で行われていることに気づく。
7日から14日の間のいずれかで祇園祭が行われている地域はたくさん見つかる。
大和郡山市では矢田町の八坂神社、椎木町の杵築神社、横田町の和爾下神社、池之内町の八幡神社。
奈良市は大保町の八坂神社。
桜井市は三輪の素盞嗚神社、初瀬の素盞雄神社。
天理市は苣原の須賀神社、武蔵町の素盞嗚神社、海知町の倭恩智神社。
田原本町は矢部の杵都岐神社に津島神社にある。
他にもたくさんの地域でされていると思われるが、いずれもかつては牛頭天王の名で呼ばれていた神社である。
全国規模でいえば祇園社を勧請している神社は3050社もあるらしい。
帯解地域にある山町の下山八坂神社がある。
これまで数多くの年中行事を取材させていただいた。
平成20年4月3日、翌年の平成21年4月3日は神武祭。
平成21年10月9日は宵宮当家祭。平成18年10月8日、3年後の平成21年10月11日は当家祭。
平成18年12月28日は正月を迎える簾型の注連縄作りや門松飾りを拝見した。
手で捻ったシンコモチが登場する神武祭は産経新聞の奈良版に記事を掲載した。
また、モッソや女児が担ぐゴクカツギやトーニン、トーニン、ワッハッハーイを唱和するお渡りがある当家祭は京都の出版社の淡交社から発刊した『奈良大和路の年中行事』で紹介した。
神社祭祀を務めているのは一老から六老までの六人衆。
かつて行事取材にお世話になった六人衆は死去される、或は退かれたことによって様変わりしていた。
久しぶりの平成26年7月、平成27年2月にお会いしたTさんは山の辺の道「奈良道」を守る会の理事職。
ひょんなことから会が催す写真展に頼まれ参加することになった。
そのころは六老から二老に繰り上がっていた。
これまでの六人衆は和服であったが、平成25年に改正されて礼服に移り、当家祭の御供搗きも中断することになったと聞いている。
平成25年の8月14日は池田町で行われるタイマツ行事の取材をしていた。
その場でお会いしたTさんは六老になったと話していた。
それから5年後にお会いしたTさんは一老に昇格していた。
月日が経つのは早い。
六人衆の移り変わり年代も早い。
こうした六人衆の経緯もあった下山八坂神社。
かつては牛頭天皇社と呼ばれていた神社である。
到着した時間は午前10時過ぎ。
人の声はするが神社本殿前ではなく参籠所だった。
雨がいつ降るやもしれないからと判断されて例年より時間を繰り上げて早めに斎行したので、たった今、終わったばかりだという。
六人衆が斎行する祇園祭は普段着姿。
村神主の一老が斎主となり、三巻の般若心経を唱えていたという。
ご挨拶もそこそこに残存状態を撮らせてもらう。
祇園祭のお供えの特徴は三本のシロウリである。
昭和60年からはシロウリになったが、それまでは5本のシロナスビを供えていたという。
その祇園祭は、かつて牛供養の呼び名があった行事。
昭和28年4月に発刊、昭和56年7月に再販された添上郡帯解町郷土研究会編の『帯解町郷土誌』がある。
それによれば「六人衆によって、神饌物として洗米、鯛、白瓜、昆布、するめ、茄子、お神酒が供えられ祇園御霊祭が行われる。また、この日は牛供養も行われた」とあることから、その供養に般若心経であったのだろうか。
昭和28年の時代に生きてきた若人。
仮に二十歳代としても今年で80歳越え。
覚えている人は居るのだろうか。
斎行が終わるころになれば村役の人たちが参集してきた。
この日は直会も兼ねた村行事の打合せ。
10月第二土曜、第二日曜に行っている当家祭と特定日の9日が祭礼である公式祭の名がある秋例祭の調整である。
今年は9日が第二日曜日。
祭りの日が重なってしまう。
さて、どうするか・・である。
悩ましき課題に意見を求められるが回答は難しい。
(H28. 7.14 EOS40D撮影)