7月16日は県内各地でゴウシンサン行事がある。
天理市庵治町の在り方を拝見して急いだ田原本町。
これまでにも取材した処に大字の法貴寺がある。
田原本町の大字法貴寺のゴウシンさんは2カ所で行われている。
前回の取材は3年前の平成25年7月16日。
同然ながらの同一日である。
法貴寺の「ゴウシンさん」行事は神事。
斎主される宮司は法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。
幾度となく行事などの取材にいつもお世話になっている。
ゴウシンさんの行事に湯祓いがある。
御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女さんである。
宮司さん、巫女さんは一度に揃って2カ所の行事をすることはできない。
若干の時間を遅らせることによって成り立っている。
始めに行われる場は川西講中のゴウシンさんであるが、先に着いた場は川東惣講大神宮のゴウシンさんだった。
宮司さんと巫女さんが来られる前にしておく祭りの設営。
四方に忌竹を立てて細い竹を架ける。
そこに「宮ノ前 寺内 南垣内 市場講中」の文字がある提灯を掲げる。
垣内は四つ。
提灯も四つあるのは垣内の数である。
古くもなく、新しくもない湯釜も設えて湯を沸かしておく。
ここでは雑木ではなく不要になった構造物の木片をばらして燃やしていた。
川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。
寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。
西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。
そこを境に川西、川東に分かれていたのである。
昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。
田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。
その後、5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。
その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。
かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。
そのような作業を見届けて始めに行われる川西講中のゴウシンさんに向かう。
歩いた距離は遠くでもなく近くでもない200mの距離にある寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔がある。
宮司さんが来られる前に設える。
湯釜も火を焚いて湯を沸かしていた人たちは5人の婦人。
以前に取材したときも婦人だった。
いつもそうなのか判らないが、毎年交替する前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たちが川西講中のゴウシンさんを世話している。
準備が調ったころに出仕された宮司を迎えて神事が行われる。
祓え、祝詞奏上など神事を斎主する宮司。
法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。
身を寄せながら神事に臨まれる。
数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、平成25年と同様にこの年も見られない。
10年前の行事のときは忌竹を設えたそうだ。
どうやら当番をする組によってあり方が違うのかも知れない。
今年は西から東へと繋げるゴウシンさんであるが、いつか思い出せないが、東から西へと移動する場合もあったという。
宮司さんが神事を終えるころにやってくる里の女児巫女。
民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。
始めに幣を振る。
その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。
笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。
次に洗い米を湯釜に投入して、湯釜に塩、酒を注いで清める。
御湯の禊祓いである。
大神宮に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。
参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。
巫女さんが湯祓いをしている最中に宮司さんは川東へ移動する。
追っかけるにはまだ早い。
神事や湯祓いを済ませて後片付け。
釜の湯を捨てて通路を清掃する。
湯釜は蔵に収納する。
それから始まった湯祓いの笹付け。
御幣も笹も束にして大神宮の石塔に括り付ける。
この作業を経て一連のゴウシンさん行事を終えるのである。
川西講中のゴウシンさんを見届けて大急ぎで向かった東の大神宮は、宮司さんによる神事は終わっていた。
今まさに始まろうとしていた御湯作法には間にあったが、里の女児巫女が作法する御湯は川西講中の場合と同じである。
こうして神事を終えたら巫女さんも戻っていった。
ここ川東も後片付けをするが川西がしていたような御湯の御幣と笹はそのままだ。
川東惣講大神宮の石塔に括ることなく解散された。
(H28. 7.16 EOS40D撮影)
天理市庵治町の在り方を拝見して急いだ田原本町。
これまでにも取材した処に大字の法貴寺がある。
田原本町の大字法貴寺のゴウシンさんは2カ所で行われている。
前回の取材は3年前の平成25年7月16日。
同然ながらの同一日である。
法貴寺の「ゴウシンさん」行事は神事。
斎主される宮司は法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。
幾度となく行事などの取材にいつもお世話になっている。
ゴウシンさんの行事に湯祓いがある。
御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女さんである。
宮司さん、巫女さんは一度に揃って2カ所の行事をすることはできない。
若干の時間を遅らせることによって成り立っている。
始めに行われる場は川西講中のゴウシンさんであるが、先に着いた場は川東惣講大神宮のゴウシンさんだった。
宮司さんと巫女さんが来られる前にしておく祭りの設営。
四方に忌竹を立てて細い竹を架ける。
そこに「宮ノ前 寺内 南垣内 市場講中」の文字がある提灯を掲げる。
垣内は四つ。
提灯も四つあるのは垣内の数である。
古くもなく、新しくもない湯釜も設えて湯を沸かしておく。
ここでは雑木ではなく不要になった構造物の木片をばらして燃やしていた。
川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。
寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。
西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。
そこを境に川西、川東に分かれていたのである。
昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。
田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。
その後、5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。
その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。
かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。
そのような作業を見届けて始めに行われる川西講中のゴウシンさんに向かう。
歩いた距離は遠くでもなく近くでもない200mの距離にある寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔がある。
宮司さんが来られる前に設える。
湯釜も火を焚いて湯を沸かしていた人たちは5人の婦人。
以前に取材したときも婦人だった。
いつもそうなのか判らないが、毎年交替する前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たちが川西講中のゴウシンさんを世話している。
準備が調ったころに出仕された宮司を迎えて神事が行われる。
祓え、祝詞奏上など神事を斎主する宮司。
法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。
身を寄せながら神事に臨まれる。
数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、平成25年と同様にこの年も見られない。
10年前の行事のときは忌竹を設えたそうだ。
どうやら当番をする組によってあり方が違うのかも知れない。
今年は西から東へと繋げるゴウシンさんであるが、いつか思い出せないが、東から西へと移動する場合もあったという。
宮司さんが神事を終えるころにやってくる里の女児巫女。
民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。
始めに幣を振る。
その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。
笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。
次に洗い米を湯釜に投入して、湯釜に塩、酒を注いで清める。
御湯の禊祓いである。
大神宮に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。
参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。
巫女さんが湯祓いをしている最中に宮司さんは川東へ移動する。
追っかけるにはまだ早い。
神事や湯祓いを済ませて後片付け。
釜の湯を捨てて通路を清掃する。
湯釜は蔵に収納する。
それから始まった湯祓いの笹付け。
御幣も笹も束にして大神宮の石塔に括り付ける。
この作業を経て一連のゴウシンさん行事を終えるのである。
川西講中のゴウシンさんを見届けて大急ぎで向かった東の大神宮は、宮司さんによる神事は終わっていた。
今まさに始まろうとしていた御湯作法には間にあったが、里の女児巫女が作法する御湯は川西講中の場合と同じである。
こうして神事を終えたら巫女さんも戻っていった。
ここ川東も後片付けをするが川西がしていたような御湯の御幣と笹はそのままだ。
川東惣講大神宮の石塔に括ることなく解散された。
(H28. 7.16 EOS40D撮影)