マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下平田の歴史を語る建造物を探訪

2017年02月22日 08時33分35秒 | 民俗あれこれ(民家集落編)
カンピョウ栽培している男性が指をさした先にある建物は「みかん蔵」である。

「みかん蔵」とはなんぞえ、である。

屋根の上に突きだすようにある構造がある。

なんとなく煙出しのような構造のように思えたそれは風通し。

蔵の内部は五つの部屋に細分化されている。

それぞれの室内にある煙出し、ではなく、風通し。

赤い屋根は赤い瓦で葺いている。

傷みはそれほどでもなく美観である「みかん蔵」は個人所有。

もう一カ所のみかん蔵は今でも現役。

I家が所有するみかん蔵は12月に収穫して5月ころまで収納、管理しているそうだ。

このみかん蔵の外観を拝見して、ここだったのかと思いだした。

この年の10月29日から県立民俗博物館で展示される「私がとらえた大和の民俗 ―住―」のひとつの事例として紹介される。

とらえたのはカメラマンのSさん。

蔵の内部の作業風景など三枚組で紹介されるのだ。

予め聞いていたので理解しやすかったのが嬉しい。

それはともかく下平田の歴史を残す史跡もある。

それらも拝見しておけば耳無地蔵尊の背景もわかるかも知れないと思って足を伸ばす。

この日は暑い夏のカンカン照り。

歩いているだけで汗が流れ落ちる。

なんど拭っても汗はとまらないが、次を目指す。

この日の夕方に始まる地蔵まつりの主会場は耳無地蔵尊が建つ処である。

お供えをするのは耳無地蔵尊の右隣にある不動明王である。

地蔵まつりの祭場はもう一つある。

耳無地蔵尊より高取川沿いに向かって南にいけばあるという榎木龍神を探してみた。

熱気が道路から湧き上がってくるように感じるこの日は夏真っ盛り。

歩くのも疲れる。



それほど遠くないところであるが、すぐ近くでもない処に「榎龍神」の文字を書いた提灯を立てていた。

石や樹木で囲まれた地にこれもまた「榎龍神」の文字がある石碑である。

ここは車の往来が激しい国道169号線。

昔はもっと狭かったと話す道路は随分前のようだ。

榎龍神のかつての地はここではなかったという。



そのときの話しぶりでは拡張工事だったのかよくわからないが、高取川の川縁にあった榎を切ったら祟りがあると云われて、現在の信号がある処にあった榎龍神はここへ移したという。

その信号がある地を右折れすれば川を跨ぐ橋がある。

橋の名は「豊年橋」。

道路拡張に伴って高取川も移動した。

拡張することによって西へ移動したのであろう。

豊年橋を渡ってさらに西に行けば大字の越(えつ)にでるが、その手前に建っていた道標に灯籠。



それに大きな石板がある。

道標は「えかう山えち」と読むのだろうか。

刻印文字はわからないが、建之年代がわかる。

「寛政八年丙辰(1796)九月橋成」である。

灯籠は天照大神宮。

「文化元年甲子(1804)十一月」に建之された。

榎龍神石碑にもっとも関係するのが左隣に建つ大きな石碑である。

それには「昭和三十二年十月建之 ほうねん橋の碑」とある。

その石碑の右下に「寛政八年丙辰(1796)」の年号が見られる。

何がいいたいか、である。

実はこの日に提灯を立てていた「榎龍神」の石碑は寛政八年に高取川に架かっていた石橋だったのだ。

この日に再確認にした昭和29年から始まった道路拡張工事にともなう流路変更工事。

橋も新しくなって「豊年橋」が現在の端であるが、かつての橋は石橋の「ほうねん橋」である。

その石橋を半分に割って一つは榎龍神に。

もう一片が昭和34年に架け替え記念に石碑として残されたのである。

豊年橋を渡って西に向かえば越に出る。

旧阪合村になるその方角を示す道標に「阪合村」の刻印があることも付記しておく。

榎龍神さんにある榎の木はご神木。

今は小枝になったがこれでもれっきとした枝分かれの榎木。

不動寺は78年前に建てたことを示す石碑にあった発起人は24人。

ずらりと並ぶ発起人名である。

(H28. 7.23 EOS40D撮影)