お土産に、東京成城石井特選銘菓の「春のおこし」をいただいた平日だけのモーニング喫茶きまぐれやから、施設「おおいわ結いの里」に移動する。
距離にして200メートルくらい。
まだ、駐車場は未整備だが、先週まで開催していた奈良県障害者大芸術祭・ブライベート美術館、「おおいわ結いの里」のときにあった仮設駐車場に車を動かした。
ここ大岩の雪に埋もれるおおいわの里に停車した場が仮設駐車場。
看板はなくなったが歩いていく道。
農小屋に冷たさを象徴する”つらら(氷柱)”があった。
雪はほぼほぼ溶けたが、つららはピーンと張ったままだ。
玄関横に置いてあった木桶。
来客を迎える花活けに使っていた木桶に墨書がある。
判読した墨書は「下市樽吉作」の担ぎ桶。
年代記銘に「昭和弐拾壱年九月三日新調」。
「上(の)喜多所有」と、ある。
帰宅してから調べたネットくぐり調査。
おそくら高取町製薬会社の喜多製薬ではないだろうか。
民俗用具資料としても貴重な道具であるが、実際はどのように使用されていたのか、今では尋ねるすべもない。
さて、「おおいわ結いの里」の受付、施設管理されている管理人のNさんにも、二人の写真家を紹介しておこう。
ともに民俗を調査、撮影している写真家。
目につくもの多く、話題の拡がりになかなか前に行かない。
Nさんが受付していた、そこにも民俗の用具があった。
これまでの体験では見たこともない箱。
よく見れば、置き薬・配置薬の薬箱。
意匠図案は間違いなく名古屋城であろう。
名古屋製剤社製配置人まるはち商會、とあった木箱の薬箱の現在は、「おおいわ結いの里」の受付に利用している。
入室料にいただく受付金銭箱。
用途はずいぶん変わったもんだ。
別途にあった紙。
これもまた名古屋製剤社製配置人まるはち商會が、訪問するお家が、希望される配置薬の種別を指定する要望注文票である。
顧客と配置人が交わす注文書であるが、若い人には、さて何のことやら、であろう。
大広間にあがった二人。
履き心地を確かめたくなって試着した。
カラフルな色柄にお好みを選んだ室内履きの足半(あしなか)。
思う存分に足が動くようだ。
世の女性の大半が欲しくなる足半(あしなか)。
管理人のNさんがつくって、世間に拡げる会の催しも計画している、という。
蒙古襲来の鎌倉時代。
草鞋の機能に草履のカタチ。
草履にかかとの部分のないカタチが足半(あしなか)。
関東武士によってつくられ、普及した足半は、飛脚に農民まで利用していた、とある。
織田信長は、合戦に向かうとき腰にぶら下げ、手柄を立てた者に・・。
ちなみに東京・上野に建つ西郷どんの銅像に足半(あしなか)が見られるようだ。
履き心地に満足いった二人は、即時購入された。
(R3. 2.17 EOS7D/SB805SH撮影)
距離にして200メートルくらい。
まだ、駐車場は未整備だが、先週まで開催していた奈良県障害者大芸術祭・ブライベート美術館、「おおいわ結いの里」のときにあった仮設駐車場に車を動かした。
ここ大岩の雪に埋もれるおおいわの里に停車した場が仮設駐車場。
看板はなくなったが歩いていく道。
農小屋に冷たさを象徴する”つらら(氷柱)”があった。
雪はほぼほぼ溶けたが、つららはピーンと張ったままだ。
玄関横に置いてあった木桶。
来客を迎える花活けに使っていた木桶に墨書がある。
判読した墨書は「下市樽吉作」の担ぎ桶。
年代記銘に「昭和弐拾壱年九月三日新調」。
「上(の)喜多所有」と、ある。
帰宅してから調べたネットくぐり調査。
おそくら高取町製薬会社の喜多製薬ではないだろうか。
民俗用具資料としても貴重な道具であるが、実際はどのように使用されていたのか、今では尋ねるすべもない。
さて、「おおいわ結いの里」の受付、施設管理されている管理人のNさんにも、二人の写真家を紹介しておこう。
ともに民俗を調査、撮影している写真家。
目につくもの多く、話題の拡がりになかなか前に行かない。
Nさんが受付していた、そこにも民俗の用具があった。
これまでの体験では見たこともない箱。
よく見れば、置き薬・配置薬の薬箱。
意匠図案は間違いなく名古屋城であろう。
名古屋製剤社製配置人まるはち商會、とあった木箱の薬箱の現在は、「おおいわ結いの里」の受付に利用している。
入室料にいただく受付金銭箱。
用途はずいぶん変わったもんだ。
別途にあった紙。
これもまた名古屋製剤社製配置人まるはち商會が、訪問するお家が、希望される配置薬の種別を指定する要望注文票である。
顧客と配置人が交わす注文書であるが、若い人には、さて何のことやら、であろう。
大広間にあがった二人。
履き心地を確かめたくなって試着した。
カラフルな色柄にお好みを選んだ室内履きの足半(あしなか)。
思う存分に足が動くようだ。
世の女性の大半が欲しくなる足半(あしなか)。
管理人のNさんがつくって、世間に拡げる会の催しも計画している、という。
蒙古襲来の鎌倉時代。
草鞋の機能に草履のカタチ。
草履にかかとの部分のないカタチが足半(あしなか)。
関東武士によってつくられ、普及した足半は、飛脚に農民まで利用していた、とある。
織田信長は、合戦に向かうとき腰にぶら下げ、手柄を立てた者に・・。
ちなみに東京・上野に建つ西郷どんの銅像に足半(あしなか)が見られるようだ。
履き心地に満足いった二人は、即時購入された。
(R3. 2.17 EOS7D/SB805SH撮影)