下地(しもじ)のハデを撮らせてもらって再出発。
道沿い、清流滝川上流を遡っていけば裏地に着く。
時季が外れたのか、今年もしているだろうと、期待していたハデ場に稲架けは見られなかった。
平成28年9月15日。
橋の向こうに裏地に初めて拝見したハデに、まさか、ここにこれほど素晴らしい景観を見るとは思っても見なかった。
かれこれ45年前。
上流にある笹の滝を拝見したくやってきたのが初めてだった。
「日本の滝 100選」に選ばれている笹の滝。
その後も訪れた滝川。
目的を替えて再三訪れ、おおかた40年間も。
時季は夏場だった。
平成28年になって初めて訪れる季節を替えた。
そのとき初めて知った滝川・裏地のハデ。
その美しさに心から感動した。
手前のハデは8段。
その向こうにもある。
さらにはもう一段上がった高台にもあった稲架け。
取材が目的に来たなら聞き取りをするのだが、目的外行動は不可の団体活動。
それからもずっと継続しているのだろう、と思っていたが、今年は・・・・ない。
稲田に刈り取った痕跡すらない。と、いうことは・・・
鉄橋を渡った向こうの地。
ほんの少し走ったところにもハデがあった。
これもまた平成28年9月15日に撮影した映像である。
車道から一段下がった地に拡がる稲作地。
刈り取った稲は、赤いトタン屋根が目立つハデに架けていた。
それから2年後の平成30年9月8日、9日にも見た裏地のハデは、変わりなかったが・・・
ここは6段構造。
横に広げた構造物。
水平に据えた竿は5間幅。
撮影に難しいハデであるが・・・・赤い屋根が下に・・。
今年は、構造物を解体したかのような状態だった。
外した屋根は積み重ね。
6段あった竿もすべてを取っ払っていたが、支柱だけは温存しているように思えた。
手前の稲田も耕作した様子は見られない。
おそらく昨年、或はその前・・に耕作放棄されたのだろう。
滝川の民俗取材にお世話になった在住のKさん。
「田んぼをしているお家は、どこにでもありました。小さい頃から見慣れている景観に、どこでもこうしていると思っていましたが、解体したところも・・」
暮らし、文化は時代の流れとともに変化するもの。決して普遍的ではなく・・・。
当地に限らず盆地、平たん部でも同じような状況にきている。
生まれも育ちも大阪市内。
今では大和郡山市内に居住している私であるが・・。
新幹線開通、東京オリンピックに万国博とともに水田も、肥えたんごも、どぶ川もみな消えた暮らしの原点。
農耕牛も見てきた世代。
その時代を覚えているのは記憶の映像ばかり。
今は、とにかくできうる限りの映像記録と聞き取り話者が伝える記憶の文字化。
それくらいしかできないが、少しでもお役にたてるように・・、と思っている。
多段型稲架けの構造物を据えて真っ黄色に実った稲を刈る情景を描いた作品がある。
作者は安野光雅。
今年、94歳に亡くなった作者が描いた作品は数多くある。
画風に憧れる人は多い。
いとこのねーちゃんもその一人だ。
平成23年からはじまった月一回の作品連載。
産経新聞日曜版に掲載される作品にいつも感動していた。
令和3年12月12日日曜に掲載された作品タイトルは「京丹後の稲刈り」。
稲刈りする人多数。
楮物に梯子をかけて足場に就いた人は、一人。
刈った稲をまだ架ける様子は見られない。
稲刈り情景につばを飲み込む人は多いが、多段型稲架け構造物に目を落とす人は、体験者くらいか。
気になったのは作者の安野光雅氏の作品コメントはこうあった。
「わたしも戦後アルバイトで稲刈りをやったので、知ってはいたが、そのしぐさを記憶だけでは描けないので、スタッフの人に刈るところを演じてもらった。その様子は、わたしのアルバイト時代も今も、少しも違わないことがわかった。昔のわたしは若かったから、2株を左手に持って一気に刈った。刈ると。それをイナハゼ(※稲架け)に掛けて干す。京丹後とでは、このイナハゼ(※稲架け)が違っていた。はしごを掛けて高いところにもつるす。そういえば農繁期という言葉があった。いまもある、ネコの手も借りたいほどに忙しい、秋が実るのである」。
稲刈りの仕草はスタッフにしてもらって描いた、とある。
が、構造物に梯子。
そこに居る男性も描いたが、動きはない。
刈った稲束を手渡す人も周りにいない。
稲刈りは順当に進んでいるようなのに、稲架けに稲束がみられない。
空白の竿だけがわかる4段の竿。
写真を撮ったわけでなく、見てきたかのような描写としか感じえない。
せめて1段目、2段目に少しでも稲を架けておれば、作業の大変さがわかるのだが・・・
そのことはともかく安野光雅氏は、稲架けを「イナハゼ」と呼んでいた。
稲のハゼ。
つまり十津川村でも呼ばれている「ハゼ」場の稲架けである。
安野光雅氏が実際に、稲刈りをされた地域はどこなんだろうか。
違いがあった、とコメントにあるから、描写モデルになった京丹後の人たちに「イナハゼ」のことを教えてもらったのかな・・・・。
ちなみに、京丹後地域は京都の北部。
丹後半島の大部分を占める地域。
峰山町、大宮町、網野町、丹後町、弥栄やさか町、久美浜町が合併した京丹後市辺りを京丹後と呼ぶようだ。
(H28. 9.15 EOS40D 撮影)
( R3. 9.21 SB805SH 撮影)
道沿い、清流滝川上流を遡っていけば裏地に着く。
時季が外れたのか、今年もしているだろうと、期待していたハデ場に稲架けは見られなかった。
平成28年9月15日。
橋の向こうに裏地に初めて拝見したハデに、まさか、ここにこれほど素晴らしい景観を見るとは思っても見なかった。
かれこれ45年前。
上流にある笹の滝を拝見したくやってきたのが初めてだった。
「日本の滝 100選」に選ばれている笹の滝。
その後も訪れた滝川。
目的を替えて再三訪れ、おおかた40年間も。
時季は夏場だった。
平成28年になって初めて訪れる季節を替えた。
そのとき初めて知った滝川・裏地のハデ。
その美しさに心から感動した。
手前のハデは8段。
その向こうにもある。
さらにはもう一段上がった高台にもあった稲架け。
取材が目的に来たなら聞き取りをするのだが、目的外行動は不可の団体活動。
それからもずっと継続しているのだろう、と思っていたが、今年は・・・・ない。
稲田に刈り取った痕跡すらない。と、いうことは・・・
鉄橋を渡った向こうの地。
ほんの少し走ったところにもハデがあった。
これもまた平成28年9月15日に撮影した映像である。
車道から一段下がった地に拡がる稲作地。
刈り取った稲は、赤いトタン屋根が目立つハデに架けていた。
それから2年後の平成30年9月8日、9日にも見た裏地のハデは、変わりなかったが・・・
ここは6段構造。
横に広げた構造物。
水平に据えた竿は5間幅。
撮影に難しいハデであるが・・・・赤い屋根が下に・・。
今年は、構造物を解体したかのような状態だった。
外した屋根は積み重ね。
6段あった竿もすべてを取っ払っていたが、支柱だけは温存しているように思えた。
手前の稲田も耕作した様子は見られない。
おそらく昨年、或はその前・・に耕作放棄されたのだろう。
滝川の民俗取材にお世話になった在住のKさん。
「田んぼをしているお家は、どこにでもありました。小さい頃から見慣れている景観に、どこでもこうしていると思っていましたが、解体したところも・・」
暮らし、文化は時代の流れとともに変化するもの。決して普遍的ではなく・・・。
当地に限らず盆地、平たん部でも同じような状況にきている。
生まれも育ちも大阪市内。
今では大和郡山市内に居住している私であるが・・。
新幹線開通、東京オリンピックに万国博とともに水田も、肥えたんごも、どぶ川もみな消えた暮らしの原点。
農耕牛も見てきた世代。
その時代を覚えているのは記憶の映像ばかり。
今は、とにかくできうる限りの映像記録と聞き取り話者が伝える記憶の文字化。
それくらいしかできないが、少しでもお役にたてるように・・、と思っている。
多段型稲架けの構造物を据えて真っ黄色に実った稲を刈る情景を描いた作品がある。
作者は安野光雅。
今年、94歳に亡くなった作者が描いた作品は数多くある。
画風に憧れる人は多い。
いとこのねーちゃんもその一人だ。
平成23年からはじまった月一回の作品連載。
産経新聞日曜版に掲載される作品にいつも感動していた。
令和3年12月12日日曜に掲載された作品タイトルは「京丹後の稲刈り」。
稲刈りする人多数。
楮物に梯子をかけて足場に就いた人は、一人。
刈った稲をまだ架ける様子は見られない。
稲刈り情景につばを飲み込む人は多いが、多段型稲架け構造物に目を落とす人は、体験者くらいか。
気になったのは作者の安野光雅氏の作品コメントはこうあった。
「わたしも戦後アルバイトで稲刈りをやったので、知ってはいたが、そのしぐさを記憶だけでは描けないので、スタッフの人に刈るところを演じてもらった。その様子は、わたしのアルバイト時代も今も、少しも違わないことがわかった。昔のわたしは若かったから、2株を左手に持って一気に刈った。刈ると。それをイナハゼ(※稲架け)に掛けて干す。京丹後とでは、このイナハゼ(※稲架け)が違っていた。はしごを掛けて高いところにもつるす。そういえば農繁期という言葉があった。いまもある、ネコの手も借りたいほどに忙しい、秋が実るのである」。
稲刈りの仕草はスタッフにしてもらって描いた、とある。
が、構造物に梯子。
そこに居る男性も描いたが、動きはない。
刈った稲束を手渡す人も周りにいない。
稲刈りは順当に進んでいるようなのに、稲架けに稲束がみられない。
空白の竿だけがわかる4段の竿。
写真を撮ったわけでなく、見てきたかのような描写としか感じえない。
せめて1段目、2段目に少しでも稲を架けておれば、作業の大変さがわかるのだが・・・
そのことはともかく安野光雅氏は、稲架けを「イナハゼ」と呼んでいた。
稲のハゼ。
つまり十津川村でも呼ばれている「ハゼ」場の稲架けである。
安野光雅氏が実際に、稲刈りをされた地域はどこなんだろうか。
違いがあった、とコメントにあるから、描写モデルになった京丹後の人たちに「イナハゼ」のことを教えてもらったのかな・・・・。
ちなみに、京丹後地域は京都の北部。
丹後半島の大部分を占める地域。
峰山町、大宮町、網野町、丹後町、弥栄やさか町、久美浜町が合併した京丹後市辺りを京丹後と呼ぶようだ。
(H28. 9.15 EOS40D 撮影)
( R3. 9.21 SB805SH 撮影)