2年がかり、ようやく目にする京都府相楽郡精華町・菱田に鎮座する春日神社にて行われるハリマトと呼ぶ弓始式。
たまたまヒットしたネット情報にあった気になる民俗行事。
キーワードは「弓始式」。
京都府精華町が掲載していた菱田に鎮座する春日神社の年中行事。
毎年の正月10日にしている、とあった。
実施時間は午前9時のようだが、会場だけでも足を運んでおけば、なんとかなるだろう、と出かけた令和2年の1月10日。
境内の様相から、終わっていた、と判断した。
ただ、終わってはいるが、その行事の祭具では、と推定した残欠があった。
はっきり認識できたのは、正月を迎えた門松に見慣れぬカタチの藁づと。
簾型と思えるしめ縄に、おみくじらしきモノ。
さらには割った竹に、竹籤のような細く加工したモノ。
帰宅してから再度、見直した精華町が掲載した春日神社の「弓始式」。
式典は、午前9時より、とあった。
あらためて出直すことにした菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。
再訪した菱田の春日神社。
いきなり訪れても、代表者へのご挨拶が後になっては、と思って年末大晦日に立ち寄った。
大晦日であれば、神社役員に出逢えるかも・・・。
期待どおりに出逢えるのか、また、正月迎えに砂撒き調査も兼ねて足を運んだ午後2時。
ここ菱田には砂モチとか砂撒き習俗はないようだ。
代わりではないが、門松の真上に設えていたしめ縄に気になる。
中央にシダ、ユズリハ、橙?などが見られる。
しめ縄の房では、と思えた七・五・三の垂れがあった。
並びは七・三・五であるが、基本的な七・五・三の本数を垂らしていた。
しめ縄は、まだまだ青々している、美しい姿だ。
なるほど・・・
令和2年の1月10日にはじめて菱田入りしたその日に見た残欠にあった。
残欠は、このしめ縄の部分であった。
謎は解けたが、ハリマトと呼ぶ弓始式は、直接携わる関係者からお話を伺いたい、と思って尋ねた二人の宮守さん。
午後3時からはじめる、という年越えの大祓え神事の前にしておく御供上げを終えた二人に伺ったが、明快な回答には繋がらなかった。
聞き取りが塩梅できていないから、あらためて、年明けの正月三日にも訪れた菱田の春日神社。
鳥居前の高札に掲示していた社寺総代会のメッセージは、大晦日までは実施の運びとしていたが、コロナ禍対策に新型「コロナウイルス感染拡大防止のため、1月10日(月)のとんどは中止します! 社寺総代会」で、あった。
伺えば、住民に罹患者がでた、という。
罹患者が一人でも発症となれば、リスクがある。
とんど焼き行事に多数の人が集まるのは、まん延防止に繋がらない、と元日に役員たちが協議され、とんど焼きは中止の判断をされた。
やむを得ない決断であるが、10日に予定しているハリマトと呼ぶ弓始式の判断は・・・宮守さんから明快な回答もなく・・
とんど焼きに続く、コロナ禍対策の決断は、社寺総代の回答を求めるしかない。
宮守さんの話によれば「10日辺りに行われる予定の弓始式の実施有無は、そのころにまた判断するが、その日より前に行われる7日の七草粥はしている」・・・と、ありがたく承った七草粥行事の取材に光明が見えた。
そして再び、7日に訪れた菱田の七草粥行事。
その日に、宮守さんが伝えてくれた「ハリマトについては、常に座の代表。つまり、上位者である社寺総代の許可を得ない、と・・・」
「宮守さんたちが勝手な判断で、取材許可を伝えることはない。社寺総代に伺いをたて、許可、承諾を受けるには・・」と、話していたときに来られた代表の社寺総代のYさん。
“ハリマト”を充てる漢字は“張的”。
かつては“貼的”の呼び名時代もあったそうだ。
現在は、本座に真座の両座が年交替に“ハリマト”の道具を作る。
神事のはじめに弓を射るのは二人の宮守さん。
“ハリマト”に、とんど行事を終えて、次の宮守さんに引き継ぐことになる、と話してくれた。
その後に来られた本座の一老・Aさんが、詳しく話してくれた「とうびょう」の件。
充てる漢字は「祷俵」と書いて「とうびょう」と呼ぶそうだ。
稲藁でつくる「とうびょう」。
太さは5cmほど。
5段に括って、一番上を五つ割くカタチにするらしい。
“ハリマト”の儀式は、黒的に矢を射る所作。
奈良ではその多くをケイチンとかの呼び名がある、つまり年の初めに、村の安寧を願い、悪霊を退治、村外に追い出す弓を射る儀式である。
的の”オニ”。
漢字で書く”鬼”の的であったり、二重、三重、五重など、各地の決まり通りに描く円形は黒的。
年初にあたり、いずれも矢を打ち、農事に禍をもたらす悪霊を退散させ、村の安寧、無病息災や五穀豊穣を願う年頭行事である。
弓打ち所作に、特別なことはないように思えたが、気になるのが「とうびょう」である。
「とうびょう」そのものの存在は、実際に拝見するまで、たぶんにわからない祭具であろう。
そもそも「とうびょう」の読みが、これまで調査してきた奈良県内の行事では当てはまるモノがない。
充てる漢字でもわかればいいのだが・・
いずれにしても、その「とうびょう」に括り付けるのは、洗米を包んだオヒネリ。
豊作を願う印しが「とうびょう」。
Aさんは、その「とうびょう」を春に立てる、という。
そう、春といえば苗代つくり。
今も手動式機械でモミオトシをしている、というAさん。
苗代に立てる「とうびょう」の在り方は、水戸口(※一般的には水口)まつり。
奈良県内に見るいわゆる御田祭に祈祷する松苗のような役目か。
話を聞いて、是非とも取材させて欲しい、と願ったら承諾してくださった。
“ハリマト”と呼ぶ弓始式に、苗代に立てる「とうびょう」の取材も承諾してくださったご両人に感謝するばかり、だ。
ここに至る経緯。
長々、書き留めたご縁のつながりに、ようやく拝見する菱田・春日神社の”ハリマト”と呼ぶ弓始式。
この年、令和4年は、コロナ禍に決断したとんど焼きの中止にしたが、”ハリマト”は実施だ。
午前9時、社寺総代から、本座・真座の氏子たちが参集され、9時半より、予め今年当番の本座がつくった矢に黒的を据えていく。
射る弓は、かつては毎年において、その都度、つくってきた弓であるが、現在は市販の弓をあてることにした。
例年に使い廻しの弓を用いて、「ハリマト(※発音に“はりまとう”もあるようだ)」を行う。
神饌所に宮守さんが、予め準備していた「ハリマト」。
確かに二重に黒く描いた円形の的。
手前に並べているのは、これよりはじめられる「ハリマト」に供える神饌・御供。
お神酒に洗い米。
スルメ一枚に塩など。
左側に寄せた一升の蒸しご飯。
一杷の藁をのせた蒸しご飯。
手こねで山のようなカタチに高盛りした。
このカタチは、奈良県の山添村桐山のマツリに拝見した「御白御供/おしらごく」と呼ぶモッソにほぼ同じに見えた。
ただ、藁の本数は多く12本。
その姿は、まるで白うさぎ。
桐山から近い隣村の山添村の室津も同じく蒸し飯のモッソ。
地域が、まったく違えども、ほぼ同型の蒸し飯は、いずれも神さんに奉る神饌・御供の在り方である。
この日の神事ごとに供えていた末社の御供を下げた。
神社境内に据えて「ハリマト」を支える薦俵。
実は、据える位置は常に一定ではなく、その年の恵方に向ける。
そう、一般的にわかる節分の恵方巻き。
縁起がいい、とされるアキの方角や、という人もおられる。
恵方はネットでもわかるし、気象予報士が、テレビで伝える天気予報に教えてくださることもある。
今年は、2022年。
方角は北北西。
実は、恵方の方角は、「東北東」「西南西」「南南東」「北北西」の4方角だけのようだ。
詳しくは、ネットで・・・
その方角通りに据えた「ハリマト」。
大きく、大きな薦俵は2枚。
幅にゆとりを設けた「ハリマト」は、2枚が重なる中央に架けていた。
竿を支える道具は脚立。
精華町が公開している「春日神社の弓始式」の映像を見ればわかるが、当時は3本の竹で組んだウマ(※稲作に収穫した稲干しする道具)に竿を据えていた。
その映像をよくよく見れば、竿は葉付きの竹。
長いままの状態で用いた竿であった。
一方、本座の一老・Aさんが、神饌所でつくりだした里芋のカタチづくり。
里芋は海老芋のように見える。
それはともかく、長めの串に挿していく。
大きく、太めの海老芋を支点に据え、上部に空間を取った間に芋挿し。
このままでは、倒れてしまうので、心棒の海老芋を左右から串挿し。
両サイドに、それぞれ1個ずつ。
見事に立った芋串御供。
奈良県内では、見たことのない芋串構造。
そうとうなバランスが要るらしく、簡単にはつくれないようだ。
このカタチから思い起こした、外洋でもこなせる安定した走行ができる両側アウトリガーに帆かけもあるカヌー。
芋串に丸太の生サバ。
蒸し飯も並べた神饌・御供。
お神酒は一升瓶。
「ハリマト」から、対面の位置に据える。
その横には、弓と矢も立てかけた。
午前9時40分ころ。
「春日神社の弓始式」がはじまる。
浄衣を着衣の宮守さんの姿は、烏烏帽子かぶり。
はじめに宮守さんが行なう神事ごと。
手を合わせ、拝し、それから祝詞を奏上される。
そして祓えの儀。
神饌・御供に、「ハリマト」を祓う。
そして弓と矢をもった真座のIさん。
それぞれ5本の矢を射る。
練習もなく、たぶんにいきなりの神事の神矢。
的になんとか打つことはできても、一重の太い黒的にはかすめるくらいか。
射速もそれほど早くない。
いざ、私が打ったとしても、的から外れるだけだろう。
宮守さんの任期は一年。
重要な役に就くのは、その年しかない。
続いて、矢を射る本座のNさん。
真剣な顔つきで、矢を射る。
ひゅっと飛んだ矢が、的の中心に多く当たれば、その年は豊作である、と言い伝えられている。
弓始式に込められた農作の願い。
矢を射るのも、その年の五穀の豊凶に占う予祝(※よしゅく)行事の「ハリマト」願い。
町が広がり、稲作地は少なくなった、としても豊作の予祝に、いい結果が出れば嬉しいものだ。
ちなみに、菱田に暮らす農家さんは40戸にもなるそうだ。
宮守たちが矢を打った次は、社寺総代ら神社役員に交代する。
矢を射るカタが決まったように打つ社寺総代たち。
射者の様相を見に来られた氏子に交じって歴史、文化を案内、解説しているボランティアガイドらも見守る弓始式。
菱田の五穀の豊凶を占う行事は年明けの正月10日。
今年も、コロナ禍であるが、弓始式は実行に移された。
春日神社の年中行事を支える方たちに「太夫」と呼ばれている人もいる。
ちなみに、菱田にもトーヤ制度があるらしく、充てる漢字は「当夜」。
充てる漢字は、奈良県内に事例のない「当夜」。
地域によって、充てる漢字文化はさまざま、ということだが、後述する、かつて吉川章一氏が執筆した「豊凶を神矢で占う弓始式」によれば、「当屋」であった。
この年は、コロナ禍中だけに、大勢ではなく遠慮しながら拝見している立ち姿の見物人たちは数えるほどだ。
真剣に弓を引く本座の一老・Aさん。
弓の構え方が違うな、と思ったAさんの立ち姿。
相当な体験者であろう。
何度も拍手が起こる「ハリマト」。
ど真ん中はなくとも、的に当たったからこそ拍手が送られる。
神社役員の次は、地域の人たちにもバトンタッチ。
弓を引く女性。
そのカタチが素晴らしい。
周りに見ていた人たちも称賛するカタチが綺麗、と。
たぶんに和弓若しくは洋弓の体験者であろう。
矢の飛び先は、的を撃ち抜いたことだろう。
一通り、終わったらしく、間が開いたのか・・・肩をポンと叩かれた。
振り向けば、そこにおられたAさん。
「カメラもっておくから、弓矢を引いていいから」、と云ってくれた。
まさかの、地域参加を要請されて、弓を引く。
その私の姿をとらえたAさん。
私のイチガンカメラを手にしてシャッターを押していた。
撮った姿をファインダーで見た。
精一杯の演技。
矢は飛んだが、的までは届かなかった。
もう、一矢といわれて、もう一本・・・
私自ら選んだ一枚。
表情が決った一枚は、Aさんがとらえた射者の一枚。
令和4年2月23日からはじまった奈良県立民俗博物館・古民家写真展。
ほぼ11年続けてきた県立民俗博物館の事業。
最後になった第10回目の「私がとらえた大和の民俗」の図録に掲載させてもらった。
知人の写真家さんが、行事取材先で撮影してくれるケースはあっても、行事の取材先の方に撮ってもらうのは、初めての体験。
記念の姿が図録に遺されたこともあって、写真展が終わってからの後日。
訪れた菱田の、A家の苗代水戸口まつり取材の際に、記念の一冊をもらっていただいた。
ところで、見学に来られていたボランテイア活動のお一人が取材中に見せてくださった行事の解説シート。
一枚に、これは、なんと・・・
撮影日は、記載していないが、菱田の弓始式の様相がわかる写真に驚き。
撮影者は「松村茂」氏、とあった写真一枚。
所有していたボランティアの方の話によれば、30年前の弓始式写真である。
この写真は、山城資料館所蔵の図録に見つかったコピー情報であるが、貴重な情報を含んでいる。
写真を見せてくださったNPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長に感謝である。
宮守さんたちが弓を引く姿の後方にあった春日神社のしめ縄。
特徴あるしめ縄は、簾型。
前年の大晦日参拝に訪れたときに拝見したしめ縄とは、まったく異なる様式。
藁を垂らした七・五・三のしめ縄から、考えられる簾型しめ縄。
かつてがそうであれば、しめ縄は簡略化したのでは、と推定していた。
決め手はなく、推論には達しなかったが、私の思考はほぼ当たっていた。
また、弓は手造りではなく、一般の市販品。
本日、使用した弓と同じかどうか不明だが、ずいぶん前に切り替えていたことがわかった。
ただ、矢はわかり難い。
見学者たちに、また氏子にも伝わるよう、解説をはじめたAさん。
30年前まで、つくって配布していたかつての「とうびょう」を、会場に持ち込み、話された。
ずっと、自宅で保管、保存してきた「とうびょう」は、最後の見本に、と持参したが、今年限りになる。
なんでも、この春の苗代つくりの際に、撮影記録用に使用する、と伝えられた。
毎年の5月3日の午前中。ご自宅前でモミオトシをする。
苗箱に落とした籾。
苗代に移した育苗の苗箱。
すべての苗箱を終えた、その際に置く「とうびょう」。
立てるのではなく、水平に置いて、イロバナ立て。
そうして豊作を願う、と話してくれた。
かつては40戸の農家さんに配られていた「とうびょう」。
昨年の秋に収穫した稲藁からつくっていた。
その役目は、二人の宮守さん。
コンバインにかけず、手刈りの稲藁。
稲藁の風合い、色合いを保つため、おそらく陰干しをしていたであろう。
藁屑や埃を払って、飛ばす。
無駄毛のような、シビも取り、綺麗にした藁を数本束ねる。
藁束は5本。さらにまとめて直径が5cmくらいになるようカタチづくり、間隔をとって藁で括る。
その箇所は、要所、要所の5カ所。
ばらけないように括る箇所も決めていた「とうびょう」つくり。
このカタチは、前年の大晦日に拝見したしめ縄と、まったく同じでは、と思った次第。
先端部分は、五ツ割。
その付近に差し込んでいた椿の葉。
常緑の葉であり、なかなか落ちない葉。
豊作を願う印しであったろう。
農家さんであれば、稲藁を軟柔らかくするのに、横槌を用いて藁打ちはできるが、例えば事務職などサラリーマンなら、そんな体験がない。
宮守さんが二人とも農家さんでない場合は、さて、となる。
大昔しは事務職よりもたぶんに農家さんが多かった時代は、対応できていたが・・
時代とともに暮らしや生活文化も変化が起きた。
これまでは、佳しであっても、今の時代にも可能なように、それこそ日本全国の暮らし方同様に、変容するとともに行事のあり方を替えざるを得なかった、のではと思料する。
大方、30年ほど前までは、そのような「とうびょう」を、毎年にわたり、毎回つくっていた農家戸数の40束。
行事に祭具なども大変革してきた菱田の「ハリマト」と呼ぶ弓始式。
これよりはじめる作業は、旧「とうびょう」から変革した稲藁から竹製に・・・
何人もの人たちが、五穀豊穣を願った弓矢打ちを終え、見学者たちが会場から離れてからはじめた解体作業。
悪霊を追い払った「ハリマト」も、役目を終えたら解体される。
丹念につくられた「ハリマト」を裏返して見た。
一定の幅に割った竹。
外枠に4本。
内部の横に6本。
縦にも6本を入れて組んだ。
表に貼った紙は相当数の枚数。
頑丈なつくりで作り込んだ「ハリマト」に矢が突き抜けた痕跡が何か所もあった。
解体は、結わえて括っていた紐切り。
ばりばり剥がして解体した竹組み。
その竹は、新「とうびょう」の芯棒に使用する。
骨組の竹を再利用してつくる竹箆製の「とうびょう」。
節目を入れて、等間隔に切断。
縦の切断は、カマを入れ、先端だけを割く。
一方、神饌所に上がった宮守さん。
剥がした的を、挟みで切りはじめた宮守の真座のIさん。
ビリビリ破るのではなく、白と黒色部分が半々程度になるよう、より分け。
的の黒い部分に神饌・御供した洗い米を包んだオヒネリ。
五穀豊穣の印は、先を割った竹箆に挟んで仕上げる。
現在は少なくなったが、その昔は40本。
黒い的にオヒネリした洗い米は、五穀豊穣の願いに通じる。
藁で作っていた旧「とうびょう」よりも、簡便なカタチになっても、願いは通じる、ということだ。
今年の竹箆製の「とうびょう」の本数は26本。
本来なら、春の苗代の水口に立て、イロバナを添えて健全な育苗を願う新「とうびょう」であるが、苗代をしなくとも、野菜畑に立てたいという希望者も多い、という。
下げた神饌・御供した生さば、海老芋串は、これより直会によばれるのだが、今年もコロナ禍では、集まりは密を避け、会食も中断した。
「ハリマト」と呼ぶ弓始式を終えて、本来なら下げた御供の鯖は七輪で起こした炭火で焼いて食べる焼きサバに調理。
また芋串も同様に炭火焼き調理。
蒸米とともに箸を使わず手づかみで口にする直会であるが、2年続きの中止を決断された。
ちなみに、NPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長が、見せてくださった「春日神社の弓始式」。
その記事に記載していた参考;『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」;吉川章一氏、とあった。
執筆に数年後。ネット調べに『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」がみつかった。
精華町HPに『精華町の史跡と民俗』デジタル版公開した、とある。
「昭和58年より、平成10年度までの13年間。精華町史編纂事業において、『精華町史』史料篇および本文篇にさきがけて発行した参考資料版の一冊です。町民の方たちから原稿を募集し、昭和63年3月に初版本を刊行。平成8年4月に増刷した第三版をもとに、デジタル版を構成しました」。
その記録は、町民が暮らしの記憶を辿った「精華町の史跡や年中行事、大正・昭和の暮らしや民俗について、祖先からの伝承や自らの体験を交えて、町民みずから書き残した貴重な記録」、とあった。
後世に伝える素晴らしい事業、だと思う。
但し書きに「執筆者による文章そのものが、貴重な歴史的な証言・記録となっているが、明らかな誤字などを修正するだけに留めています。行事の内容などについては、現在では休止・変更され、現状とは異なる場合もあります。閲覧にあたってはこの点にご留意」と、あるが、当時、吉川章一氏が執筆された報告は実に詳しい。
当時の在り方が目に浮かぶように蘇る。
掲載している写真に和服姿の男性もおられる。
これこそ民俗誌。
貴重な映像も含めて、後世に伝えるべき事項が多い。
「とうびょう」を充てていた漢字は「祷俵」。
実は、執筆者の吉川章一氏は、充てる漢字に疑問をもっていた。
が、後ろに続く「古来五穀の容器として、藁製の俵が一般的だった。五穀の豊穣を祷る思いを、その俵に込め”とうびょう”と名付け、稲藁を用いて五穀を表現する形をつくったもの」、といわれる。
確かに藁を編んでつくった米俵がそのことに匹敵するのだが・・・一部、竹製の飯籠や飯櫃などもある。
農耕地であれば、間違いなく稲藁はあるが、稲作が困難な山間、山岳地など山仕事が主な土地での材は、カヤとかシュロである。
保管・保存食料は、米だけでなく五穀に根菜、芋・・
地理的、物理的な生活環境の違いによって暮らしの在り方は異なるが、全国圧倒的に稲作が多いのも確か、である。
吉川章一氏が、疑問をもっていたのはこのようなことでは、と思ったが、もっと違った視点で思考されていたのかもしれない。
ちなみに、京都を主に年中行事を撮影、ブログに公開している沙都氏の報告に、翌年の令和5年に行われた菱田の弓始式を掲載している。
式典を終え、竹箆の新「とうびょう」をこしらえた。
今年も連続した直会も中止した菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。
一段落の時間帯にほっと一息された。
本日の斎行になにかとお世話になり、この場を借りて厚く御礼申し上げる。
こうして、氏子たちも参拝される菱田の春日神社。
三日前の七日に行われた七草粥行事取材のおりに伺った春日神社の社殿も美しく輝いていた。
平成30年2月発行の『精華町文化財宝典』に掲載された菱田の春日神社。
ふるさとデジタルアーカイブ「せいか舎」に、詳しく公開しており、斗栱(ときょう)のあいだにある蟇股(かえるまた)は、この時代の基準的な作例として紹介しているが、鬼瓦の意匠に着目した。
奈良県内外に見たこともある社殿の鬼瓦意匠に三つ並びの宝珠(※おそらく如意宝珠を表現する三弁宝珠)が見られる。
カタチから、ごーさんこと牛玉宝印を思い起こす三弁宝珠である。
撮っていた立ち位置。
社殿横に建てられた奈良・大和の春日大社の御間形(おあいがた)石灯籠と同型の灯籠がある。
しかも、である。
南北朝・吉野時代の古式ゆかしいことから、旧重要美術品に指定されている。
このことから、菱田は鎌倉時代から室町時代に栄えた、と伺えるそうだ。
(R4. 1.10 EOS7D/SB805SH 撮影)
たまたまヒットしたネット情報にあった気になる民俗行事。
キーワードは「弓始式」。
京都府精華町が掲載していた菱田に鎮座する春日神社の年中行事。
毎年の正月10日にしている、とあった。
実施時間は午前9時のようだが、会場だけでも足を運んでおけば、なんとかなるだろう、と出かけた令和2年の1月10日。
境内の様相から、終わっていた、と判断した。
ただ、終わってはいるが、その行事の祭具では、と推定した残欠があった。
はっきり認識できたのは、正月を迎えた門松に見慣れぬカタチの藁づと。
簾型と思えるしめ縄に、おみくじらしきモノ。
さらには割った竹に、竹籤のような細く加工したモノ。
帰宅してから再度、見直した精華町が掲載した春日神社の「弓始式」。
式典は、午前9時より、とあった。
あらためて出直すことにした菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。
再訪した菱田の春日神社。
いきなり訪れても、代表者へのご挨拶が後になっては、と思って年末大晦日に立ち寄った。
大晦日であれば、神社役員に出逢えるかも・・・。
期待どおりに出逢えるのか、また、正月迎えに砂撒き調査も兼ねて足を運んだ午後2時。
ここ菱田には砂モチとか砂撒き習俗はないようだ。
代わりではないが、門松の真上に設えていたしめ縄に気になる。
中央にシダ、ユズリハ、橙?などが見られる。
しめ縄の房では、と思えた七・五・三の垂れがあった。
並びは七・三・五であるが、基本的な七・五・三の本数を垂らしていた。
しめ縄は、まだまだ青々している、美しい姿だ。
なるほど・・・
令和2年の1月10日にはじめて菱田入りしたその日に見た残欠にあった。
残欠は、このしめ縄の部分であった。
謎は解けたが、ハリマトと呼ぶ弓始式は、直接携わる関係者からお話を伺いたい、と思って尋ねた二人の宮守さん。
午後3時からはじめる、という年越えの大祓え神事の前にしておく御供上げを終えた二人に伺ったが、明快な回答には繋がらなかった。
聞き取りが塩梅できていないから、あらためて、年明けの正月三日にも訪れた菱田の春日神社。
鳥居前の高札に掲示していた社寺総代会のメッセージは、大晦日までは実施の運びとしていたが、コロナ禍対策に新型「コロナウイルス感染拡大防止のため、1月10日(月)のとんどは中止します! 社寺総代会」で、あった。
伺えば、住民に罹患者がでた、という。
罹患者が一人でも発症となれば、リスクがある。
とんど焼き行事に多数の人が集まるのは、まん延防止に繋がらない、と元日に役員たちが協議され、とんど焼きは中止の判断をされた。
やむを得ない決断であるが、10日に予定しているハリマトと呼ぶ弓始式の判断は・・・宮守さんから明快な回答もなく・・
とんど焼きに続く、コロナ禍対策の決断は、社寺総代の回答を求めるしかない。
宮守さんの話によれば「10日辺りに行われる予定の弓始式の実施有無は、そのころにまた判断するが、その日より前に行われる7日の七草粥はしている」・・・と、ありがたく承った七草粥行事の取材に光明が見えた。
そして再び、7日に訪れた菱田の七草粥行事。
その日に、宮守さんが伝えてくれた「ハリマトについては、常に座の代表。つまり、上位者である社寺総代の許可を得ない、と・・・」
「宮守さんたちが勝手な判断で、取材許可を伝えることはない。社寺総代に伺いをたて、許可、承諾を受けるには・・」と、話していたときに来られた代表の社寺総代のYさん。
“ハリマト”を充てる漢字は“張的”。
かつては“貼的”の呼び名時代もあったそうだ。
現在は、本座に真座の両座が年交替に“ハリマト”の道具を作る。
神事のはじめに弓を射るのは二人の宮守さん。
“ハリマト”に、とんど行事を終えて、次の宮守さんに引き継ぐことになる、と話してくれた。
その後に来られた本座の一老・Aさんが、詳しく話してくれた「とうびょう」の件。
充てる漢字は「祷俵」と書いて「とうびょう」と呼ぶそうだ。
稲藁でつくる「とうびょう」。
太さは5cmほど。
5段に括って、一番上を五つ割くカタチにするらしい。
“ハリマト”の儀式は、黒的に矢を射る所作。
奈良ではその多くをケイチンとかの呼び名がある、つまり年の初めに、村の安寧を願い、悪霊を退治、村外に追い出す弓を射る儀式である。
的の”オニ”。
漢字で書く”鬼”の的であったり、二重、三重、五重など、各地の決まり通りに描く円形は黒的。
年初にあたり、いずれも矢を打ち、農事に禍をもたらす悪霊を退散させ、村の安寧、無病息災や五穀豊穣を願う年頭行事である。
弓打ち所作に、特別なことはないように思えたが、気になるのが「とうびょう」である。
「とうびょう」そのものの存在は、実際に拝見するまで、たぶんにわからない祭具であろう。
そもそも「とうびょう」の読みが、これまで調査してきた奈良県内の行事では当てはまるモノがない。
充てる漢字でもわかればいいのだが・・
いずれにしても、その「とうびょう」に括り付けるのは、洗米を包んだオヒネリ。
豊作を願う印しが「とうびょう」。
Aさんは、その「とうびょう」を春に立てる、という。
そう、春といえば苗代つくり。
今も手動式機械でモミオトシをしている、というAさん。
苗代に立てる「とうびょう」の在り方は、水戸口(※一般的には水口)まつり。
奈良県内に見るいわゆる御田祭に祈祷する松苗のような役目か。
話を聞いて、是非とも取材させて欲しい、と願ったら承諾してくださった。
“ハリマト”と呼ぶ弓始式に、苗代に立てる「とうびょう」の取材も承諾してくださったご両人に感謝するばかり、だ。
ここに至る経緯。
長々、書き留めたご縁のつながりに、ようやく拝見する菱田・春日神社の”ハリマト”と呼ぶ弓始式。
この年、令和4年は、コロナ禍に決断したとんど焼きの中止にしたが、”ハリマト”は実施だ。
午前9時、社寺総代から、本座・真座の氏子たちが参集され、9時半より、予め今年当番の本座がつくった矢に黒的を据えていく。
射る弓は、かつては毎年において、その都度、つくってきた弓であるが、現在は市販の弓をあてることにした。
例年に使い廻しの弓を用いて、「ハリマト(※発音に“はりまとう”もあるようだ)」を行う。
神饌所に宮守さんが、予め準備していた「ハリマト」。
確かに二重に黒く描いた円形の的。
手前に並べているのは、これよりはじめられる「ハリマト」に供える神饌・御供。
お神酒に洗い米。
スルメ一枚に塩など。
左側に寄せた一升の蒸しご飯。
一杷の藁をのせた蒸しご飯。
手こねで山のようなカタチに高盛りした。
このカタチは、奈良県の山添村桐山のマツリに拝見した「御白御供/おしらごく」と呼ぶモッソにほぼ同じに見えた。
ただ、藁の本数は多く12本。
その姿は、まるで白うさぎ。
桐山から近い隣村の山添村の室津も同じく蒸し飯のモッソ。
地域が、まったく違えども、ほぼ同型の蒸し飯は、いずれも神さんに奉る神饌・御供の在り方である。
この日の神事ごとに供えていた末社の御供を下げた。
神社境内に据えて「ハリマト」を支える薦俵。
実は、据える位置は常に一定ではなく、その年の恵方に向ける。
そう、一般的にわかる節分の恵方巻き。
縁起がいい、とされるアキの方角や、という人もおられる。
恵方はネットでもわかるし、気象予報士が、テレビで伝える天気予報に教えてくださることもある。
今年は、2022年。
方角は北北西。
実は、恵方の方角は、「東北東」「西南西」「南南東」「北北西」の4方角だけのようだ。
詳しくは、ネットで・・・
その方角通りに据えた「ハリマト」。
大きく、大きな薦俵は2枚。
幅にゆとりを設けた「ハリマト」は、2枚が重なる中央に架けていた。
竿を支える道具は脚立。
精華町が公開している「春日神社の弓始式」の映像を見ればわかるが、当時は3本の竹で組んだウマ(※稲作に収穫した稲干しする道具)に竿を据えていた。
その映像をよくよく見れば、竿は葉付きの竹。
長いままの状態で用いた竿であった。
一方、本座の一老・Aさんが、神饌所でつくりだした里芋のカタチづくり。
里芋は海老芋のように見える。
それはともかく、長めの串に挿していく。
大きく、太めの海老芋を支点に据え、上部に空間を取った間に芋挿し。
このままでは、倒れてしまうので、心棒の海老芋を左右から串挿し。
両サイドに、それぞれ1個ずつ。
見事に立った芋串御供。
奈良県内では、見たことのない芋串構造。
そうとうなバランスが要るらしく、簡単にはつくれないようだ。
このカタチから思い起こした、外洋でもこなせる安定した走行ができる両側アウトリガーに帆かけもあるカヌー。
芋串に丸太の生サバ。
蒸し飯も並べた神饌・御供。
お神酒は一升瓶。
「ハリマト」から、対面の位置に据える。
その横には、弓と矢も立てかけた。
午前9時40分ころ。
「春日神社の弓始式」がはじまる。
浄衣を着衣の宮守さんの姿は、烏烏帽子かぶり。
はじめに宮守さんが行なう神事ごと。
手を合わせ、拝し、それから祝詞を奏上される。
そして祓えの儀。
神饌・御供に、「ハリマト」を祓う。
そして弓と矢をもった真座のIさん。
それぞれ5本の矢を射る。
練習もなく、たぶんにいきなりの神事の神矢。
的になんとか打つことはできても、一重の太い黒的にはかすめるくらいか。
射速もそれほど早くない。
いざ、私が打ったとしても、的から外れるだけだろう。
宮守さんの任期は一年。
重要な役に就くのは、その年しかない。
続いて、矢を射る本座のNさん。
真剣な顔つきで、矢を射る。
ひゅっと飛んだ矢が、的の中心に多く当たれば、その年は豊作である、と言い伝えられている。
弓始式に込められた農作の願い。
矢を射るのも、その年の五穀の豊凶に占う予祝(※よしゅく)行事の「ハリマト」願い。
町が広がり、稲作地は少なくなった、としても豊作の予祝に、いい結果が出れば嬉しいものだ。
ちなみに、菱田に暮らす農家さんは40戸にもなるそうだ。
宮守たちが矢を打った次は、社寺総代ら神社役員に交代する。
矢を射るカタが決まったように打つ社寺総代たち。
射者の様相を見に来られた氏子に交じって歴史、文化を案内、解説しているボランティアガイドらも見守る弓始式。
菱田の五穀の豊凶を占う行事は年明けの正月10日。
今年も、コロナ禍であるが、弓始式は実行に移された。
春日神社の年中行事を支える方たちに「太夫」と呼ばれている人もいる。
ちなみに、菱田にもトーヤ制度があるらしく、充てる漢字は「当夜」。
充てる漢字は、奈良県内に事例のない「当夜」。
地域によって、充てる漢字文化はさまざま、ということだが、後述する、かつて吉川章一氏が執筆した「豊凶を神矢で占う弓始式」によれば、「当屋」であった。
この年は、コロナ禍中だけに、大勢ではなく遠慮しながら拝見している立ち姿の見物人たちは数えるほどだ。
真剣に弓を引く本座の一老・Aさん。
弓の構え方が違うな、と思ったAさんの立ち姿。
相当な体験者であろう。
何度も拍手が起こる「ハリマト」。
ど真ん中はなくとも、的に当たったからこそ拍手が送られる。
神社役員の次は、地域の人たちにもバトンタッチ。
弓を引く女性。
そのカタチが素晴らしい。
周りに見ていた人たちも称賛するカタチが綺麗、と。
たぶんに和弓若しくは洋弓の体験者であろう。
矢の飛び先は、的を撃ち抜いたことだろう。
一通り、終わったらしく、間が開いたのか・・・肩をポンと叩かれた。
振り向けば、そこにおられたAさん。
「カメラもっておくから、弓矢を引いていいから」、と云ってくれた。
まさかの、地域参加を要請されて、弓を引く。
その私の姿をとらえたAさん。
私のイチガンカメラを手にしてシャッターを押していた。
撮った姿をファインダーで見た。
精一杯の演技。
矢は飛んだが、的までは届かなかった。
もう、一矢といわれて、もう一本・・・
私自ら選んだ一枚。
表情が決った一枚は、Aさんがとらえた射者の一枚。
令和4年2月23日からはじまった奈良県立民俗博物館・古民家写真展。
ほぼ11年続けてきた県立民俗博物館の事業。
最後になった第10回目の「私がとらえた大和の民俗」の図録に掲載させてもらった。
知人の写真家さんが、行事取材先で撮影してくれるケースはあっても、行事の取材先の方に撮ってもらうのは、初めての体験。
記念の姿が図録に遺されたこともあって、写真展が終わってからの後日。
訪れた菱田の、A家の苗代水戸口まつり取材の際に、記念の一冊をもらっていただいた。
ところで、見学に来られていたボランテイア活動のお一人が取材中に見せてくださった行事の解説シート。
一枚に、これは、なんと・・・
撮影日は、記載していないが、菱田の弓始式の様相がわかる写真に驚き。
撮影者は「松村茂」氏、とあった写真一枚。
所有していたボランティアの方の話によれば、30年前の弓始式写真である。
この写真は、山城資料館所蔵の図録に見つかったコピー情報であるが、貴重な情報を含んでいる。
写真を見せてくださったNPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長に感謝である。
宮守さんたちが弓を引く姿の後方にあった春日神社のしめ縄。
特徴あるしめ縄は、簾型。
前年の大晦日参拝に訪れたときに拝見したしめ縄とは、まったく異なる様式。
藁を垂らした七・五・三のしめ縄から、考えられる簾型しめ縄。
かつてがそうであれば、しめ縄は簡略化したのでは、と推定していた。
決め手はなく、推論には達しなかったが、私の思考はほぼ当たっていた。
また、弓は手造りではなく、一般の市販品。
本日、使用した弓と同じかどうか不明だが、ずいぶん前に切り替えていたことがわかった。
ただ、矢はわかり難い。
見学者たちに、また氏子にも伝わるよう、解説をはじめたAさん。
30年前まで、つくって配布していたかつての「とうびょう」を、会場に持ち込み、話された。
ずっと、自宅で保管、保存してきた「とうびょう」は、最後の見本に、と持参したが、今年限りになる。
なんでも、この春の苗代つくりの際に、撮影記録用に使用する、と伝えられた。
毎年の5月3日の午前中。ご自宅前でモミオトシをする。
苗箱に落とした籾。
苗代に移した育苗の苗箱。
すべての苗箱を終えた、その際に置く「とうびょう」。
立てるのではなく、水平に置いて、イロバナ立て。
そうして豊作を願う、と話してくれた。
かつては40戸の農家さんに配られていた「とうびょう」。
昨年の秋に収穫した稲藁からつくっていた。
その役目は、二人の宮守さん。
コンバインにかけず、手刈りの稲藁。
稲藁の風合い、色合いを保つため、おそらく陰干しをしていたであろう。
藁屑や埃を払って、飛ばす。
無駄毛のような、シビも取り、綺麗にした藁を数本束ねる。
藁束は5本。さらにまとめて直径が5cmくらいになるようカタチづくり、間隔をとって藁で括る。
その箇所は、要所、要所の5カ所。
ばらけないように括る箇所も決めていた「とうびょう」つくり。
このカタチは、前年の大晦日に拝見したしめ縄と、まったく同じでは、と思った次第。
先端部分は、五ツ割。
その付近に差し込んでいた椿の葉。
常緑の葉であり、なかなか落ちない葉。
豊作を願う印しであったろう。
農家さんであれば、稲藁を軟柔らかくするのに、横槌を用いて藁打ちはできるが、例えば事務職などサラリーマンなら、そんな体験がない。
宮守さんが二人とも農家さんでない場合は、さて、となる。
大昔しは事務職よりもたぶんに農家さんが多かった時代は、対応できていたが・・
時代とともに暮らしや生活文化も変化が起きた。
これまでは、佳しであっても、今の時代にも可能なように、それこそ日本全国の暮らし方同様に、変容するとともに行事のあり方を替えざるを得なかった、のではと思料する。
大方、30年ほど前までは、そのような「とうびょう」を、毎年にわたり、毎回つくっていた農家戸数の40束。
行事に祭具なども大変革してきた菱田の「ハリマト」と呼ぶ弓始式。
これよりはじめる作業は、旧「とうびょう」から変革した稲藁から竹製に・・・
何人もの人たちが、五穀豊穣を願った弓矢打ちを終え、見学者たちが会場から離れてからはじめた解体作業。
悪霊を追い払った「ハリマト」も、役目を終えたら解体される。
丹念につくられた「ハリマト」を裏返して見た。
一定の幅に割った竹。
外枠に4本。
内部の横に6本。
縦にも6本を入れて組んだ。
表に貼った紙は相当数の枚数。
頑丈なつくりで作り込んだ「ハリマト」に矢が突き抜けた痕跡が何か所もあった。
解体は、結わえて括っていた紐切り。
ばりばり剥がして解体した竹組み。
その竹は、新「とうびょう」の芯棒に使用する。
骨組の竹を再利用してつくる竹箆製の「とうびょう」。
節目を入れて、等間隔に切断。
縦の切断は、カマを入れ、先端だけを割く。
一方、神饌所に上がった宮守さん。
剥がした的を、挟みで切りはじめた宮守の真座のIさん。
ビリビリ破るのではなく、白と黒色部分が半々程度になるよう、より分け。
的の黒い部分に神饌・御供した洗い米を包んだオヒネリ。
五穀豊穣の印は、先を割った竹箆に挟んで仕上げる。
現在は少なくなったが、その昔は40本。
黒い的にオヒネリした洗い米は、五穀豊穣の願いに通じる。
藁で作っていた旧「とうびょう」よりも、簡便なカタチになっても、願いは通じる、ということだ。
今年の竹箆製の「とうびょう」の本数は26本。
本来なら、春の苗代の水口に立て、イロバナを添えて健全な育苗を願う新「とうびょう」であるが、苗代をしなくとも、野菜畑に立てたいという希望者も多い、という。
下げた神饌・御供した生さば、海老芋串は、これより直会によばれるのだが、今年もコロナ禍では、集まりは密を避け、会食も中断した。
「ハリマト」と呼ぶ弓始式を終えて、本来なら下げた御供の鯖は七輪で起こした炭火で焼いて食べる焼きサバに調理。
また芋串も同様に炭火焼き調理。
蒸米とともに箸を使わず手づかみで口にする直会であるが、2年続きの中止を決断された。
ちなみに、NPO法人精華町ふるさと案内人の会、S理事長が、見せてくださった「春日神社の弓始式」。
その記事に記載していた参考;『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」;吉川章一氏、とあった。
執筆に数年後。ネット調べに『精華町の史跡と民俗』の「豊凶を神矢で占う弓始式」がみつかった。
精華町HPに『精華町の史跡と民俗』デジタル版公開した、とある。
「昭和58年より、平成10年度までの13年間。精華町史編纂事業において、『精華町史』史料篇および本文篇にさきがけて発行した参考資料版の一冊です。町民の方たちから原稿を募集し、昭和63年3月に初版本を刊行。平成8年4月に増刷した第三版をもとに、デジタル版を構成しました」。
その記録は、町民が暮らしの記憶を辿った「精華町の史跡や年中行事、大正・昭和の暮らしや民俗について、祖先からの伝承や自らの体験を交えて、町民みずから書き残した貴重な記録」、とあった。
後世に伝える素晴らしい事業、だと思う。
但し書きに「執筆者による文章そのものが、貴重な歴史的な証言・記録となっているが、明らかな誤字などを修正するだけに留めています。行事の内容などについては、現在では休止・変更され、現状とは異なる場合もあります。閲覧にあたってはこの点にご留意」と、あるが、当時、吉川章一氏が執筆された報告は実に詳しい。
当時の在り方が目に浮かぶように蘇る。
掲載している写真に和服姿の男性もおられる。
これこそ民俗誌。
貴重な映像も含めて、後世に伝えるべき事項が多い。
「とうびょう」を充てていた漢字は「祷俵」。
実は、執筆者の吉川章一氏は、充てる漢字に疑問をもっていた。
が、後ろに続く「古来五穀の容器として、藁製の俵が一般的だった。五穀の豊穣を祷る思いを、その俵に込め”とうびょう”と名付け、稲藁を用いて五穀を表現する形をつくったもの」、といわれる。
確かに藁を編んでつくった米俵がそのことに匹敵するのだが・・・一部、竹製の飯籠や飯櫃などもある。
農耕地であれば、間違いなく稲藁はあるが、稲作が困難な山間、山岳地など山仕事が主な土地での材は、カヤとかシュロである。
保管・保存食料は、米だけでなく五穀に根菜、芋・・
地理的、物理的な生活環境の違いによって暮らしの在り方は異なるが、全国圧倒的に稲作が多いのも確か、である。
吉川章一氏が、疑問をもっていたのはこのようなことでは、と思ったが、もっと違った視点で思考されていたのかもしれない。
ちなみに、京都を主に年中行事を撮影、ブログに公開している沙都氏の報告に、翌年の令和5年に行われた菱田の弓始式を掲載している。
式典を終え、竹箆の新「とうびょう」をこしらえた。
今年も連続した直会も中止した菱田のハリマトと呼ぶ弓始式。
一段落の時間帯にほっと一息された。
本日の斎行になにかとお世話になり、この場を借りて厚く御礼申し上げる。
こうして、氏子たちも参拝される菱田の春日神社。
三日前の七日に行われた七草粥行事取材のおりに伺った春日神社の社殿も美しく輝いていた。
平成30年2月発行の『精華町文化財宝典』に掲載された菱田の春日神社。
ふるさとデジタルアーカイブ「せいか舎」に、詳しく公開しており、斗栱(ときょう)のあいだにある蟇股(かえるまた)は、この時代の基準的な作例として紹介しているが、鬼瓦の意匠に着目した。
奈良県内外に見たこともある社殿の鬼瓦意匠に三つ並びの宝珠(※おそらく如意宝珠を表現する三弁宝珠)が見られる。
カタチから、ごーさんこと牛玉宝印を思い起こす三弁宝珠である。
撮っていた立ち位置。
社殿横に建てられた奈良・大和の春日大社の御間形(おあいがた)石灯籠と同型の灯籠がある。
しかも、である。
南北朝・吉野時代の古式ゆかしいことから、旧重要美術品に指定されている。
このことから、菱田は鎌倉時代から室町時代に栄えた、と伺えるそうだ。
(R4. 1.10 EOS7D/SB805SH 撮影)