享年87歳のふーちゃんを送る斎場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。
通夜の晩は我が家で一夜を過ごしたおかんも乗せて車を走らせる。
前日に走った道路は記憶に新しい。
難なく駐車場に着く。
葬儀の斎場、祭壇の逆方向にあった写真群。
若いときの姿はまるで女優さん。
婿入りした旦那と並んだ写真もある。
戦災者が移住した市営住宅はすぐに判る。
我が家の住まいは住之江の大和川住宅。
同じく戦災者が移住した市営住宅だ。
横に並べた板壁が象徴的。
玄関口で判った地上げ前の様相は同じだった。
淀川が氾濫しそうになるということで数年後には数十センチも家屋ごと上げた地上げだった。
当時の写真はモノクロだが、子供が生まれ育った何十年後の姿はカラー写真。
これらの写真はDVD化されて葬儀会場に映し出される。
ふーちゃんは親父といとこにあたる。
おおばあさんの子供は男女二人。
兄貴がふーちゃんの親父さんで娘は私の親父の母親だった。
親父には弟も居た。
家に残された写真に親父が出征する時と思われる写真がある。
その写真は三人の他、おおばあさん、祖母、ふーちゃんの父親も写っていた。
場は柏里でもない。
戦災で焼ける前の瓦町の呉服問屋であったろう。
今となっては誰も生きていない戦中時代の写真にふーちゃんはモンペを履いていた。
僧侶はお通夜に法要してくださった三重県伊賀上野の九品寺住職。
住職が云うには比叡山天台宗の分かれの宗の真盛宗(しんせいしゅう)である。
通夜は一人僧侶であったが、葬儀は三人僧侶で営まれる。
焼香は喪主から始まって止め焼香で終える。
関西特有の止め焼香は指名された私が務めた。
棺桶の中のふーちゃんを見送って霊柩車に納める。
それを先頭に喪主が乗ったタクシーに次いで大阪北斎場に向かう。
カーナビゲーションに場を入力する間もなく出発した。
あみだ池筋、中津駅前、城北公園通、天神橋筋を経て長柄西にある市営北斎場に着く。
一同、焼香をして見送る。
骨あげまでの時間帯は葬儀の会食。
ロイヤルシティホール野田へ戻っていただく料理にお品書きがある。
前菜は季節の六品盛り。
お造りは中トロ鮪、イクラ、あおり烏賊、赤海老、あしらえ一式。
前夜の通夜料理もいただいた「季彩菜」(SHIINA)の料理はとても美味い。
特に中トロ鮪は絶品だった。
造り盛りにある透明な糸コンニャクのように見える添え物が気になった。
食感はプチプチ感だ。
初めて口にするこれはなんであろうか。
配膳していた女性職員に尋ねたら料理長に聞くとのこと。
その答えはビードロの名がある海藻だった。
海藻だというが実態はそうではない。
昆布等のぬるぬる成分を摘出する。
ぬるぬるはフコイダンと呼ばれる成分で、水を配合して麺状に形成したものをビードロというようだ。
サラダにも合うというビードロは近くのスーパーで売っているのだろうか。
一度、探してみようと思った。
焼き物はカジキと茄子のバジルソース掛け。
ヤングコーンに刻み野菜を盛りこんでいる。
小鍋は鱧の山椒鍋。玉ねぎ、牛蒡、キャベツとともに煮立てる。
レンゲで出汁つゆを掬って椀に入れる。
煮あがった具材も入れる。
これがまた美味いのである。
出汁が利いているのは判るが何だろうか。
揚げ物は海老の天ぷら、海老の湯葉巻き、鱧の紅梅揚げ、南京。
揚げたてを梅塩に付けて食べるのだが、塩分調整している身体には毒だ。
梅塩を付けなくとも天ぷらそのものが美味しいのである。
特に美味かったのは海老の湯葉巻きと鱧の紅梅揚げだ。
酢の物は〆鯖、白木耳とヒジキ、土佐酢ジュレになた豆の花だ。
木耳そのものには味はない。
酢に漬けていただく。
シャキシャキ感がたまらない木耳の食感である。
蒸し物は雲丹の茶碗蒸しに銀餡掛けだ。
真黄色に染まった茶碗蒸しは初めて見る。
とろとろの食感に雲丹の香りがどっとやってくる。
特別な味に酔いしれる。
飯物は新潟産こしひかりに玉蜀黍(とうもろこし)を混ぜたご飯だ。
甘い玉蜀黍に何故かバター味を感じる。
椀物は木の子つみれに順才、三つ葉を浮かした清汁仕立て汁椀だ。
すまし汁を食べるころはお腹がいっぱいになっていた。
これほどのボリューム感がある骨あげ待ちの料理に胃袋が驚いている。
これまで列席した葬儀食はパック詰め料理だった。
これがフツーだと思っていた。
まるでデイナーのように配膳される料理は初もの体験。
ラストを締めくくるデザートもある。
アシェットデセル、チョコレートケーキ、マンゴーゼリー、黄桃紅茶ジュレに食べごろのメロンであった。
ご飯につきものの香の物の3種盛りもあったが、これもまた塩分調整している身であるゆえ箸をつけるわけにはいかなかった。
そういえば配膳された料理のなかに麺類があった。
おもてなしの一貫として冷やし煮こごり素麺の一品もあった。
これを仕上げと書いてあったが、配膳途中に出てきた。
食べ終わったころの時間帯は骨あげになる。
再び大阪北斎場に向かう。
サイバシで拾う故人の骨。
病に伏したときは骨が黒くなると信じてきたが見つからない。
葬儀屋さんの話しによれば、それは俗説というのである。
病気であっても骨は綺麗な色。
染まっているのは棺桶に入れた花などが焼けた色だという。
そして再び戻ったロイヤルシティホール野田。
これより始まるのは初七日。
住職が弔う念仏は切り上げ法要の追善法要。
冥途に・・向かって供養された。
こうして喪主は四十九日までの毎日に冥福を祈る。
(H27. 9.29 SB932SH撮影)
通夜の晩は我が家で一夜を過ごしたおかんも乗せて車を走らせる。
前日に走った道路は記憶に新しい。
難なく駐車場に着く。
葬儀の斎場、祭壇の逆方向にあった写真群。
若いときの姿はまるで女優さん。
婿入りした旦那と並んだ写真もある。
戦災者が移住した市営住宅はすぐに判る。
我が家の住まいは住之江の大和川住宅。
同じく戦災者が移住した市営住宅だ。
横に並べた板壁が象徴的。
玄関口で判った地上げ前の様相は同じだった。
淀川が氾濫しそうになるということで数年後には数十センチも家屋ごと上げた地上げだった。
当時の写真はモノクロだが、子供が生まれ育った何十年後の姿はカラー写真。
これらの写真はDVD化されて葬儀会場に映し出される。
ふーちゃんは親父といとこにあたる。
おおばあさんの子供は男女二人。
兄貴がふーちゃんの親父さんで娘は私の親父の母親だった。
親父には弟も居た。
家に残された写真に親父が出征する時と思われる写真がある。
その写真は三人の他、おおばあさん、祖母、ふーちゃんの父親も写っていた。
場は柏里でもない。
戦災で焼ける前の瓦町の呉服問屋であったろう。
今となっては誰も生きていない戦中時代の写真にふーちゃんはモンペを履いていた。
僧侶はお通夜に法要してくださった三重県伊賀上野の九品寺住職。
住職が云うには比叡山天台宗の分かれの宗の真盛宗(しんせいしゅう)である。
通夜は一人僧侶であったが、葬儀は三人僧侶で営まれる。
焼香は喪主から始まって止め焼香で終える。
関西特有の止め焼香は指名された私が務めた。
棺桶の中のふーちゃんを見送って霊柩車に納める。
それを先頭に喪主が乗ったタクシーに次いで大阪北斎場に向かう。
カーナビゲーションに場を入力する間もなく出発した。
あみだ池筋、中津駅前、城北公園通、天神橋筋を経て長柄西にある市営北斎場に着く。
一同、焼香をして見送る。
骨あげまでの時間帯は葬儀の会食。
ロイヤルシティホール野田へ戻っていただく料理にお品書きがある。
前菜は季節の六品盛り。
お造りは中トロ鮪、イクラ、あおり烏賊、赤海老、あしらえ一式。
前夜の通夜料理もいただいた「季彩菜」(SHIINA)の料理はとても美味い。
特に中トロ鮪は絶品だった。
造り盛りにある透明な糸コンニャクのように見える添え物が気になった。
食感はプチプチ感だ。
初めて口にするこれはなんであろうか。
配膳していた女性職員に尋ねたら料理長に聞くとのこと。
その答えはビードロの名がある海藻だった。
海藻だというが実態はそうではない。
昆布等のぬるぬる成分を摘出する。
ぬるぬるはフコイダンと呼ばれる成分で、水を配合して麺状に形成したものをビードロというようだ。
サラダにも合うというビードロは近くのスーパーで売っているのだろうか。
一度、探してみようと思った。
焼き物はカジキと茄子のバジルソース掛け。
ヤングコーンに刻み野菜を盛りこんでいる。
小鍋は鱧の山椒鍋。玉ねぎ、牛蒡、キャベツとともに煮立てる。
レンゲで出汁つゆを掬って椀に入れる。
煮あがった具材も入れる。
これがまた美味いのである。
出汁が利いているのは判るが何だろうか。
揚げ物は海老の天ぷら、海老の湯葉巻き、鱧の紅梅揚げ、南京。
揚げたてを梅塩に付けて食べるのだが、塩分調整している身体には毒だ。
梅塩を付けなくとも天ぷらそのものが美味しいのである。
特に美味かったのは海老の湯葉巻きと鱧の紅梅揚げだ。
酢の物は〆鯖、白木耳とヒジキ、土佐酢ジュレになた豆の花だ。
木耳そのものには味はない。
酢に漬けていただく。
シャキシャキ感がたまらない木耳の食感である。
蒸し物は雲丹の茶碗蒸しに銀餡掛けだ。
真黄色に染まった茶碗蒸しは初めて見る。
とろとろの食感に雲丹の香りがどっとやってくる。
特別な味に酔いしれる。
飯物は新潟産こしひかりに玉蜀黍(とうもろこし)を混ぜたご飯だ。
甘い玉蜀黍に何故かバター味を感じる。
椀物は木の子つみれに順才、三つ葉を浮かした清汁仕立て汁椀だ。
すまし汁を食べるころはお腹がいっぱいになっていた。
これほどのボリューム感がある骨あげ待ちの料理に胃袋が驚いている。
これまで列席した葬儀食はパック詰め料理だった。
これがフツーだと思っていた。
まるでデイナーのように配膳される料理は初もの体験。
ラストを締めくくるデザートもある。
アシェットデセル、チョコレートケーキ、マンゴーゼリー、黄桃紅茶ジュレに食べごろのメロンであった。
ご飯につきものの香の物の3種盛りもあったが、これもまた塩分調整している身であるゆえ箸をつけるわけにはいかなかった。
そういえば配膳された料理のなかに麺類があった。
おもてなしの一貫として冷やし煮こごり素麺の一品もあった。
これを仕上げと書いてあったが、配膳途中に出てきた。
食べ終わったころの時間帯は骨あげになる。
再び大阪北斎場に向かう。
サイバシで拾う故人の骨。
病に伏したときは骨が黒くなると信じてきたが見つからない。
葬儀屋さんの話しによれば、それは俗説というのである。
病気であっても骨は綺麗な色。
染まっているのは棺桶に入れた花などが焼けた色だという。
そして再び戻ったロイヤルシティホール野田。
これより始まるのは初七日。
住職が弔う念仏は切り上げ法要の追善法要。
冥途に・・向かって供養された。
こうして喪主は四十九日までの毎日に冥福を祈る。
(H27. 9.29 SB932SH撮影)