マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

続、西川の大踊り

2008年09月13日 07時29分33秒 | 十津川村へ
西川の踊り場には櫓はなく、中央に長い笹竹を立てて提灯を張り巡らし、唄い手の場を設けている。

一般的な盆踊りは中央から円を描きぐるぐると回る形式だが、西川の特徴は方形の一団となったまの踊り子の列が踊るにつれて場所を移動していく独特のもの。

今夜の踊り演目は伊勢音頭、木曽節、ホイホイ、五条や橋本、今の川掘り、せんよう橋、有田節、さのさくずし、サノーサノサイ、筏節、追分、笠踊り、トントンドッコイショ、ナントナント、ヤットヤー、串本節、帽子片手に、ヨイショコラコラ、月は無情、関の五本松、宮津節、磯節、高い山から、ヤッチョン踊り、東京音頭に餅つき踊りと重要文化財の大踊りのよりこ、いりは、かけいりの三種でおよそ30曲にもなる。

そろそろ始めようかと伊勢音頭から踊られた。

踊り子のほとんどは浴衣姿で、艶やかに扇を手にもって舞う踊りは唄い手(囃子)と呼吸が合って一体化となった。

途中には手舞いの踊りもあるが、煌びやかな扇の舞いには目を奪われてしまう。

扇を笠に持ち替えてくるりと返しながら踊る笠踊りも見物だ。

太鼓はドン、ドン、ドンと単調な調子で打たれるが、よく聞いていると多少リズミカルな打ち方も見られた。

(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)

西川の大踊り

2008年09月12日 07時45分42秒 | 十津川村へ
夏の夜、十津川村の各地区で行われる盆踊り。

なかでも武蔵、小原、西川の三地区では房を付けたバチに太鼓、色彩が綺麗な扇に笹竹に取り付けた切子燈籠を手にした踊り子ら。

近世に流行った風流踊りが伝承されている一連の踊りは「大踊り」と呼ばれるもので国指定の重要無形民俗文化財。

かってはお寺のお堂で踊られていたが現在は学校の校庭になっている。

13日が小原、14日は武蔵、15日には村南西部の西川で行われる。

今夜は15日、陽が落ちるころ西川中学校の校庭に設えた踊りの場に集まってくる。

永井、重里の方ら中心に結成された大踊り保存会は約20名。

八月の一日から毎夜にわたってナラシの練習をしてきた。時間の割り振りは後継者育成を考えて子どもの練習を主体にしているそうだ。

西川では、昭和36年ころは160人もの子どもらがおったという中学生は現在27人。

小学生の30人を加えても当時の人数にはとうてい満たない。

当時はスクールバスもなかった時代。

通学できない90人ほどは寮生活だった。

家族と離れた寂しさから寮を抜け出し子もおったといい、そのときは山まで探しにいったと懐古される踊り子さん。

(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)

惣谷山の神さん

2008年09月11日 06時58分01秒 | 五條市へ
五條市に併合された旧大塔村の惣谷。

宇井から舟の川を遡っていくと山林が広がる山々に囲まれた急峻な土地に家々が建っている。

集落から急坂を登り詰めたところにも一軒のお家。

その後方をさらに登ったところに平成10年に遷座された山の神さんが祀られている。

霜月の七日、毎年11月7日は山の神の祭りが行われる。

2年前までは12月に行われていたが、気候も厳しく年寄りばかりなったので一ヶ月早めたそうだ。

朝10時ころに集まり、宮役さんが塩サバ、スルメにモチと季節の果物を山の神さんに供えて山仕事の無事を祈る。

昔は午後から親方の家に集まり、ごっつおが出てよばれたという。

めいめいは折りを手に持っていったそうだ。

三段重ねのモチ、お酒一升、塩サバに仕出し屋から頼んだ膳が出て振る舞われたという。

親方は山を買って売る素材屋の山師。

山仕事には、材を切り出す職人、運搬、製材などグループ分業作業でもあり共同作業で成り立っているとおっしゃる。

山の神さんのお祭り、休日が確保できれば是非訪れたいものだ。

(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)

池田町広大寺池タイマツ行事

2008年09月10日 07時35分22秒 | 奈良市へ
昭和28年発行の帯解町郷土誌では「池田のタイマツ」行事と紹介されています。

そのタイマツに付随して行われていたのが太鼓踊り。

昭和9年に復興したあと昭和15年に途絶えています。

太鼓踊りは雨乞い踊りでその昔柴屋町の奥の院こと龍象寺の天井に描かれている龍の絵が関係しているという。

夜な夜な抜け出した龍は広大寺池水を飲みにいってたそうな。

知った和尚は出ていかんように金網を張った。(※ 釘を挿したとか鱗を三枚塗りつぶした説もある)

ところがその祟りか死人がでたので供養のためにタイマツ行事をはじめたとされる。

あるいは池には龍が住んでいて村人を殺したので松明をたいて龍にヤイトをすえたとか、タイマツの煙で雨雲がついてくるので雨乞いしたとも。

土地ではタイマツ行事は池の水難者の供養、雨乞い、五穀豊穣、悪疫退散祈願の意味合いがあるそうで。

9年に発刊された太鼓踊りの歌本には「勇踊之歌 大字池田」(いわゆるなもで踊り)と書かれているそうで、近隣の山村町のヒデ踊(シデとも)歌を参考にした可能性があるという。

タイマツ行事の際に講の方がカセットで流していた(と思われる)のはその太鼓踊りの歌ではなくお念仏だったと後に知人から教わった。

(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)