マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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柏木町素盞嗚神社門松飾り

2014年05月10日 08時23分39秒 | 大和郡山市へ
秋のヨイミヤ・マツリを取材した大和郡山市柏木町の当家。

年末には氏神さんの素盞嗚神社に門松を立てる。

だいたいが28日であるが、当家の都合で決まる門松立ては多少前後する。

当家は農家。栽培した野菜は小泉町の「産直市場よってって」や天理市の市場に出荷している。

年末は特に忙しい。

品切れしてはならんと云って走り回るそうだ。

忙しい合間に準備しておいた松、竹、梅。青竹は割って斜めに切断していた。

本来なら門松の土台も作っておきたいが、時間の確保はできなかった。

今年は黒いポリバケツ。

申し訳なさそうに話す。

倒れないように砂で固める。

松は右がメン松で左はオン松だ。

南天の木と葉ボタンを添えて飾った。

注連縄は手で結って作った。

紙垂れを取り付けて拝殿に掲げる。

両頭の狛犬にも注連縄掛けをされて戻っていった。

拝見したかったのは砂モチである。

境内の砂は知らず知らずのうちに参拝者が靴底につけていく。

大晦日に足すと思っていた砂モチの風習。

それはヨイミヤに行われた御湯の斎場。

そのときに砂を盛っているのだと話す。

(H25.12.29 EOS40D撮影)

上之郷のカンジョウナワ

2014年05月09日 08時53分07秒 | 桜井市へ
12月、さらに1月(若しくは2月)、年に2度も掛けられるカンジョウナワ地域は東山間上之郷辺りに集中する。

天理市では藤井町、上仁興・下仁興、苣原町。

桜井市では修理枝、三谷、小夫だ。

垂れ房の飾りは松葉・杉葉・樫・樒・ヤブニッキとさまざま。

なぜに2度であるのか。考えられるのは神仏混合。

今では一度になった他地域もあるが、これらはかつて僧侶と社守がそれぞれに行っていたと想定される地域である。

(H25.12.28 EOS40D撮影)

藤井上垣内のカラスノモチ

2014年05月08日 08時01分27秒 | 天理市へ
一週間前に立ち寄った天理市藤井町。

東山間にある地域は福住を中心によく雪が積もる。

この年の12月は特に多かった。

前日に降り積もった雪は気温が低くなかなか溶けない。

旧家の井戸に積もった雪が冷たいようだ。

雪はその後も降った。

降り積もれば急坂な山道は危険状態。

スタッドレスタイヤであっても登ることが難しい。

下りであればもっと怖いと思っていた前夜。

朝、起きてみれば快晴だった。

天気予報はわずかに外れたと思ってお日さんに感謝する。

藤井町の民家で行われている「カラスノモチ」を知ったのは平成23年1月のことだった。

宮本六人衆の一人であるN家の前庭の木にあったカラスノモチである。

年末の12月30日は家のモチを搗く。

残りモチを小さくちぎって木の枝の先に挿す。

モチは12個。

を四角い升に入れて庭に出る。

「カラコ カラコ モチやるわ ザクロ三つと替えことしょ」と囃しながら枝にくっつけるというものだ。

カラスノモチは、かつて集落に大勢の子供がいた時代は各戸で行われていたと云う。

今ではこうしたカラスノモチをしているのは上垣内のN家だけのようである。

貴重な風習を知ってお願いしていたカラスノモチの在り方の取材である。

この日も昨日に降った雪が積もっていた藤井町。

野原に白い雪がある。

「あんたが来るのを待っていたよ」と話す奥さん。

午前中は正月のモチを搗いていた。

残りのモチを細かくちぎって五合枡に入れる。

五合枡は一升枡の半分。

ますます繁盛する願いで五合枡に入れていると話す。



カラスノモチを枝にくっつけるのはお孫さん。

小さいころからお爺さんに頼まれていつもしていると話す。

N家は平成22年10月に行われた三十八神社の祭り当家。

宵宮お渡りの際に出仕されたお孫さんは数え年が18歳。

トーニンを勤めた彼は21歳。

成人に達していたが、今でも子供扱い。

カラスノモチをくっつける役目をしている。

くっつける際に発声する「カラコ カラコ モチやるわ 12のモチと ザクロ三つ替えことしょ」の囃し詞。



「こうやってするんだ」とお爺ちゃんが孫に伝えるカラスノモチの作法である。

どういう意味があるのか、おまじないであるのか、判らないカラスノモチの囃し詞である。

例年であれば、くっつけるカラスノモチは12個であるが、旧暦閏年となれば13個。

旧暦であれば「大」の月がふた二月ある一年の月数である。

平成24年の12月に取材した奈良市中誓多林のテンノウサンのカラスドンノモチもそうしているが、「ザクロ三つ」の台詞は見られない。

いずれにしても旧暦13という数値は江戸時代から継承されている家の風習に違いない。

平成24年の4月、旧都祁村の小山戸で聞き取ったカラスノモチにも台詞があった。

小山戸では木の枝でなく、クワの上にモチを12個入れて、クリの木かカキの木の下に置いたと云っていた。

その際に唱えた囃し詞は「カラスコイ モチヤルゾ ジャクロミッツト カイコトショ」である。

「ジャクロ」はザクロ。

ここでも三つ交換する囃し詞である。

昭和63年に天理市楢町が発刊された『楢町史』によれば、カラスノモチは13個。

囃し詞は「カラスこい、カラスこい」とゴンゲンさまの遣いのカラスにモチをやっていたと書いてあった。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、正月のモチ搗きを終えて、そのモチをカラスに撒くと書いてあった。

一つのモチを割いて枡に入れる。

そのモチを山や畑の木に挿す。

飛んできたカラスにはモチを放り投げることもするカラスノモチは平年なら12個で、閏年であれば13個にする。

その際には「カラスこい モチやるわ 一つのモチを 十二に割って おまえにゃ一つ おれには二つ ザクロ三つとかいことしょ 宙でとったら皆やるわ」と唄を歌うと書いてあった。

大字は桜井市の吉隠(よなばり)或いは宇陀市榛原の角柄(つのがら)辺りであろうか。

場所は違えども、いずれもザクロ三つと交換する詞である。

ザクロ三つの謎は解けなかったが、N家で正月のモチをよばれることになった。



モチはネコモチの形にしたドヤモチだ。

ドヤモチは二番口にでる「アオ」のお米。

臼挽きしたあとで選別をする。

下に落ちた青い米はクズ米にした。

山間で陽の当たらないひ弱な米だったと話す米を「コゴメ」と呼んでいた。

モチ米と「アオ」を混ぜて搗いたのを「ドヤモチ」と呼ぶ。

切ったドヤモチを焼く。



水に浸けてキナコと砂糖を塗していただく。

甘みがあってホロ苦さをもつドヤモチは美味しいと感じるのだが、かーさんももうひとつだと云う。

大阪府南河内郡滝谷不動で生まれた私のおふくろは87歳。

私が子供のころに度々遊んでいた母家は萱葺き家の旧家だった。

おふくろが子供のときのことだと話す正月のモチ搗き。

正月直前の日だったというから30日であろう。

モチは鏡餅、小餅にコゴメを入れたボロモチ。

藤井町で聞いたドヤモチの呼び名を滝谷不動ではボロモチだった。

コモチには干しエビ、ゴマ、クロマメを入れて蒸したモチ米。

それを杵で搗いていた。

子供だったので丸めては食べていた。

特に好きだったというのがボロモチだったと話すおふくろ。

遺伝子は継いでいた。

おふくろが思い出した昔話は続く。

稲の穂を付けた藁で編んだ紐に括りつけて干した。

それはカキモチだ。

「早よやらな」と云われて柔らかいうちに包丁で切ったモチを絡めた。

モチ搗きが終われば残ったモチを千切ってヤナギの木の枝にくっつけた。

子供がするモチつけはいっぱいつけた。

その様相は白いモチが花のような感じだったことを思い出した。

話しの情景はおそらくオコナイ行事にあるモチバナ。

床の間に飾ったモチバナは正月明けに焼いて食べたそうだ。

そんな話を聞くのは始めてだ。

おふくろも云った。

「始めて話したんだ」と云うおふくろは87歳。

もっと多くのことを知りたいと思った実家の母家の風習。

モチバナが滝谷不動においてもあったことを知るのである。

そのボロモチではなく藤井井で貰ったボロモチを食べたおふくろ。

塩味が利いて何もつけないほうが美味しいと云った。

N家のモチ作り。

かつてはイノコのクルミモチもしていた。

アオマメをすり潰したクルミ。

正月13日に鬼打ち行事をされる三十八神社のお供えにあった。

箸の高さぐらいに組んだ井桁組みの牛蒡。

上からすり潰したアオマメかけていたお供えは随分前に途絶えたようだ。

6月30日はハガタメのモチ、7月1日はハッゲッショのモチを食べていた。

ドロイモを擦って砂糖と炭酸を入れた。

ユウ(ユズ)の葉はアオマメとともにホウラクで煎った。

ユウの香りがするキナコも作っていた。

彼岸のときには団子を作る。

昔はカラスキで粉をはっていた。

できた団子は餡を乗せてツバキの葉に置き家に供えると話すN家のモチ談義はつきない。

(H25.12.20 EOS40D撮影)
(H25.12.28 EOS40D撮影)

明星一平ちゃんとんこつ味

2014年05月07日 07時18分44秒 | あれこれインスタント
明星の「一平ちゃん」が発売されて20周年。

美味さがかわらずの人気カップ麺。

特に一平ちゃんの焼きそばが大好きだけど、たまにはラーメンも。

とは云っても安売り棚には並ばないので買うことがない。

たまたま安かったので買い置きしていた。

しょうゆ味もあったのだが、我が家の蔵から消えていた。

残っていたのはとんこつ味だった。



コクがある味に細めの麺がスープに絡んであがってくる。

つるつる、喉越しが良い。

(H25.12.28 SB932SH撮影)

南六条杵築神社の正月飾り

2014年05月06日 07時05分22秒 | 天理市へ
暖簾・簾型の注連縄は天理市南六条の杵築神社にもある。

ここでは本殿と拝殿間にある鳥居に掛けている。



門松は22日に飾られた。

鳥居前に設えた門松は竹枠を組んで、松・竹・梅に南天と葉ボタンを添えた。

村行事を改正された南六条。

旧頭屋行事のほとんどが新頭屋制度に移ったが、今尚、御田植祭だけは旧頭屋で行われている。

ごーさんこと牛玉宝印の版木で摺ったお札を祈祷する旧頭屋の行事。

お札は苗代作りの際にイロバナとともに挿して豊作を祈念する。

この日にお会いした旧頭屋の一人であるDさん。



5年前に苗代作りを撮らせてもらったご主人と久しぶりに会話をする。

かつて、桜の木で造られた版木でごーさん。

バランで押さえて刷っていた。

いつしか複写の印刷物に移してたくさん刷っておいた。

版木とバランの道具はもち廻りの頭屋が大切に保管している。

正月初めに行われる南六条の御田植祭は7日前後の日曜日に行われると聞いていた平成20年6月。

昨年からは元の祭事日であった7日に戻したと云う。

(H25.12.28 EOS40D撮影)

小泉神社の砂モチ

2014年05月05日 07時22分13秒 | 大和郡山市へ
だいたいが26日辺りに納めている砂盛りが見られる大和郡山市の小泉神社。

拝殿前に高く盛った砂盛りは2列で16盛りもある。

社務所に居られた宮司が話す。

それは氏子たちが集まって元旦祭を迎えるとんど組みの日だった。

神社内にある雑木を伐採して高く組んだ。

「人数も多いから砂盛りもしてしまおう」と急遽に決まった砂盛りである。

本社、末社などに掛けた注連縄はおよそ十数か所。

中央辺りで太くしている美しい姿だ。



宮司が云うには市場垣内の青年団の人たちが予め作っておいて、この年は23日に掛けたそうだ。

注連縄はモチ藁。

市場の氏子が栽培したモチ稲の藁を編んで作っていた。

本数が多いことから一日ではすべてが揃わず何日かかけて結ったという。

3人がかりで結う注連縄作りは市場の農小屋らしい。

製作の具合を拝見したくなった。

(H25.12.26 EOS40D撮影)

はらぺこ食堂豚しょうが焼き弁当

2014年05月04日 08時50分12秒 | あれこれテイクアウト
昼食もとらずに下三橋に居た。

昼時間はとうに過ぎていた。

お腹が減れば食べるしかない。

いつもの弁当を食べたくなった。

そう思って下三橋からそれほど遠くない「はらぺこ食堂」にやってきた。

お店の営業時間は朝10時から夜0時までだが、ラストオーダーはそれより30分前の夜11時30分だ。

食堂には二人ほど食事を摂られている。

この日の日替り定食は天然ブリのお刺身を盛ったメニュー。

味噌汁、一品、漬物もついて500円。

チゲ鍋、もつ鍋などの温かいメニューも500円である。

ワンコインでいただけるはらぺこ食堂であるが、私の欲するのは弁当である。

これまでにも何種類かの弁当を食べたことがある。

弁当は食堂でいただけない。

持ち帰り専用なのである。

この日に注文したのは豚しょうが焼き弁当。

はらぺこ食堂の弁当はいずれも350円。

美味しくて安価な弁当が気にいってときおり食べている。

注文してから数分後。

「できまして」と調理場からもってきた弁当を受けとる。



蓋を開ければ湯気がたちあがるほかほかのできたて弁当。

豚しょうが焼きの香りがふわーんと立ちあがる。

ご飯はなぜか大盛り。

いつもならこれほどでもない盛りに驚く。

食堂で食べる際にはご飯おかわり自由。

大食漢ではないのでお断りだが、盛られた弁当ご飯は残すわけにはいかない。

食べ尽くすことができるのか・・・。

豚しょうが焼きは焼き肉弁当と同じような味だ。

豚肉はこま切れ。

これも焼き肉と同様である。

豚しょうが焼きなら大き目の一枚、二枚と期待していたがそうではなかった。

味が美味い、惣菜も詰めてあった弁当。

一つは菜っ葉のおひたし。

からし菜のように思えたがどうだろう。

もう一つはもやし。

酢で味付けしたと思われる味だ。

美味しくもないが、不味くもないそこそこの味。

食欲をそそる味ではない。

ポテトサラダはいつもと同じだ。

クリームのような感触のポテトサラダにジャガイモの味は感じない。

(H25.12.26 SB932SH撮影)

下三橋町風神社の簾注連縄

2014年05月03日 08時05分57秒 | 大和郡山市へ
仕事を終えて向かった先は大和郡山市下三橋町の風神社。

簾型の注連縄飾りを拝見したときにはどなたもおられない。

おそらくこの日の午前中に済ましたのであろう。

神社鳥居にはやや太めの注連縄。

太い房を飾り付けて幣も垂らした注連縄である。



拝殿前に立つ鳥居の前には門松があった。

砂を盛った門松には松、梅にクマザザも添えていた。

肝心かなめの簾型注連縄は本殿に、である。

美しい姿の注連縄の心棒は笹竹。

葉は左側にあった。



風神社には数々の常夜燈が建之されている。

いくつか年号が刻まれていた。

万延元庚年(1860)もあれば宝暦戌年(1754若しくは1758)九月、天保二年の銘記もある常夜燈。

まさかこういう年代もあるのかと思ったのは、慶長十一年(1605)九月吉日と印された常夜燈だ。

それには「奉 寄進 風宮天大明神 御宝前 添上□□□□」とある。

大阪冬の陣、夏の陣よりも数年前の時代である。

当時の郡山城主は総堀普請をした増田長盛のあとを継いだ大久保長保である。

皇紀2600年を祈念して建てた常夜燈には宮座十人のうち一人である寄進者の名があった。

当時は十人衆で祭祀されていた宮座中の連名である。

(H25.12.26 EOS40D撮影)

13年目に切替えたFAX付き電話

2014年05月02日 07時05分46秒 | つうしん
カラーFAXが売り文句だったSANYO製品のSFX-C2WCL。

「テ・プ・ラ・コード留守・FAX」の表示がある。

寝ていても子機で通話ができるという宣伝があったと思う。

買ったのは10年ほど前だろうか。

何時だったのか思い出せないが、息子たちがドアホン付き電話器から最新式のFAX付き電話が家にやってきて驚いていた表情だけは印象に残っている。

ネットで調べてみれば、平成12年7月発売だった。

買い替えしたくなったのはカラーインクカートリッジ方式で印字するインクジュットプリンターだ。

FAX印字はもとより高画質でコピーもできる。

ハンドフリースキャンも可能だったので重宝していた。

E-mail機能も付いていた画期的な製品は2台の子機が付いて9万5千円(標準価格)。

今ではとうてい考えられないような高額商品だった。

インクカートリッジはモノクロとカラーの2種類。

出力が多かったのでたえず買い足ししていた。

今ではパソコンプリンターが活躍している。

使わなくなったが、いつ不足するかも判らないので何本か買っておいた。

子機の予備電池も買っておいた。

数年前からは印刷用紙を吸い込まなくなった。

手でちょいと押さなければならない困ったFAX用紙の供給具合。

印字もしないのにカートリッジインクが不足という表示まで出る始末だ。

これが出ればデイスプレィに灯りが点いたままになる。

夜中の部屋に灯りが出ぱなっしで、煌々としている。

半年前ぐらいから発生したピュルピュル音。

昼間であっても夜中であっても寝床の横で鳴る音声。

その音で思わず起きてしまうのだ。

最近は慣れてしまったが、買い替えをしたくてしょうがなかった。

そう思って出かけたジョーシン電気。

十数台のFAX付き電話の見本が置いてある。

どれもこれもロール式のインクリボンはすべてモノクロの熱転写方式である。

値段も手ごろになっていた電話器はコンパクト。

置き場も小さくなった。

先日に下見をした際には最も安価な1万円の電話器があった。

店で商談中の家族はこれっと云って展示品を買われた。

先を越されたが隣にあった製品は1万3千5百円。

登録表示は漢字。

それより2千円安い製品はカナ表示。



やはり見やすい漢字でということで購入したパナソニック社製のKX-PD502DL。

色はブラウンである。

インクリボンも買われますかと云われたが、我が家の実情では必要としない。

ジョーシン会員サービス状を示せば千円の割引になったのでこれに決めた。

溜めていたジョーシンポイントを注ぎこんで結局は9千9百円。

SFX-C2WCLと比較するのもなんだけど、実に1/10の購入価格になった。

(H25.12.24 SB932SH撮影)

恵比須社の三夜待ち

2014年05月01日 09時40分37秒 | 田原本町へ
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「三夜待ち」が紹介されている。

大字八田では、「商家は恵比須さんを祭って、農家は恵比須さんに二股のダイコン供えた」とある。

「商家だけが恵比須さんに二股のダイコンを供えていた」と云うのは田原本の町場。

また、「商家はこの日にモチを搗いて得意先に配った」とあるのは秦庄の秦楽寺だ。

「月の出に願いごとをすると良い」と云うのは大字今里。

「三夜待に垣内の人たちが集まって会食をしていた」のは大字法貴寺である。

いずれも12月23日に行われていた田原本町の三夜待ちの様相を伝える記述である。

12月23日は二十三夜。

今でもお供えをしていると知って出掛けた蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

摂社に恵比須社が鎮座する。

恵比須社は明治時代初めまでは蔵堂の北市場と南市場の街道沿いにあった。

何故に村屋坐弥冨都比売神社へ遷されたのか伝わっていないと話す守屋広尚宮司。

夕刻の日暮れ前にお供えをする。

笹を一本立てて、吊るした二尾の鯛。

結った縄で鯛の口からえらへ通して繋げた。

そこには二本のニンジンと一本のダイコンも吊るす。

「昔からそうしている」という三夜待ちのお供えである。



神事をすることもなく、参拝者もいない三夜待ちの在り方であるが、夜待ちもなく、しばらくすれば供えた鯛などは守屋家の夜食に回される。

二十三日は二十三夜、その夜は三夜とも呼ぶと云う宮司。

戎さんの祭り初めは初エビスの十日戎。

商売繁盛を願う商いの人たちで埋まる。

もしかとすればだが、二十三夜の月の出を待つ三夜待ちの行事は終いエビスの在り方ではないだろうか。

昭和63年に天理市楢町が発刊された『楢町史』によれば、11月23日か、12月23日を「二十三夜待ち」と呼んでいたようだ。

町史には、かつてハタ(機)を織ったときに娘たちがハタを持ち寄って三夜の月(夜半一時)を見たと書いていた。

そのことを考えてみれば、二十三日の月の出待ちを「三夜待ち」と称していたのはあながち間違いではないだろうと思われるのだ。

平成24年2月に大和郡山市の小林町で行われた三夜の集会を取材したことがある。

正月から数えて23日目。

旧暦の二十三日の夜は「二十三夜さん」と呼んで豊作や健康を祈っていたと話していた。

「にじゅうさんや」を略して「さんや」と言えば通るから「三夜」と称していたというのである。

二尾の鯛を吊るす村屋坐弥冨都比売神社境内社の恵比須社で思い起こした室生下笠間の民家で供えられた「カケダイ」。

正月元旦の日にエビスサン(恵比須さん)・ダイコクサン(大黒さん)を祀った神棚に干した一対の鯛を吊っていたのである。

吊るした二尾の鯛を「カケダイ」と呼んでいた民家の御供の在り方は三夜待ちと共通性があるのでないだろうか。

村屋坐弥冨都比売神社東側、北市場・南市場を南北に通り抜ける街道は橘街道と呼んでいる。

古来は中ツ道であったが、中世において明日香村の橘寺で参拝する街道となり、そう呼ぶようになった。

南市場より南方は幸市(こいち)、中ノ町、馬場先、馬場の岸と呼ばれる小字である。

街道は市で賑わったと思われる小字名が並ぶ。

その頃は市場垣内の商売人の店が立ち並んでいたのであろう。

祀っていた神社が恵比須社。

当時の様相は判らないが、エビスさんにつきものの鯛を供えていたと思われる。

いつしか市場垣内が廃れて商売する家もなくなった。

社は遷されて鯛のお供えだけが伝えられた。

そう思うのである。

馬場先・馬場の岸と呼ばれる地は村屋坐弥冨都比売神社の一の鳥居の南方。

その場で乗ってきた馬を降りて神社に参拝していたのであろうと宮司は話す。

馬場の岸は三角路。法隆寺から長谷寺向かう街道と交差する筋交い道の長谷街道だ。

長谷寺詣でより向こうは伊勢街道となる。

蔵堂の隣村になる伊与戸集落を抜ける道は伊勢街道だと云っていた。

街道は向かう先によって名を替えていたのだ。

(H25.12.23 EOS40D撮影)