マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

吉野軽便鉄道廃線址

2017年07月21日 07時46分13秒 | 橿原市へ
畝傍御陵前より吉野口まで狭軌鉄道が走っていた。

そう話してくれたのは高取町丹生谷に住むNさんである。

今ではまったく面影も見られない新興住宅に挟まれた幅の狭い道である。



云われて見なければ、この道の昔に鉄道が走っていたなんて知る由もない。

帰宅してからネットをぐぐってみれば「100年前に走った奈良の軽便鉄道」が見つかった。

鉄道の歴史経緯から路線なども詳しくPDFで挙げている。

当時の映像写真もあるので興味は湧くがこの方面に手を伸ばす力量も時間もない。

専門的に行ってみたいと思う人は、その土地、土地を巡るのもよかろう。

他にもレイルストーリーの一つとして橿原神宮前駅について述べておられるHPがある。

この日に教えてもらった路線を探索している廃線跡探訪者もいる。

(H28.11.16 SB932SH撮影)

高取元配置薬家の神農図と行商道具

2017年07月20日 09時50分39秒 | 民俗あれこれ(売る編)
御所市宮前町神農社の薬祖神祭行事の取材に同行してくださったN家に伺う。

私が取材したなかに神農さんの掛図を家の床の間に掲げて祭る行事がある。

一軒は元藩医の家

もう一軒は往診していたお医者さんの家

いずれも大和郡山市内である。

神農さんは医療関係のお家で継承されてきた事実を知ったわけであるが、薬祖神祭行事の取材に同行してくださったN家は元配置薬家。

正月などの目出度い日とか他の日にも掲げてお供えをしていたと云っていた。

先代の父親は配置売薬業。

奈良県外各地の顧客先へ出向いて売薬をしていたという。

床の間に掲げていた時代はNさんが子どものころ。

売薬に地方に出た父親が家に戻ってくるのは盆と正月ぐらいしかなかったそうだ。

神農さんの掛図を見た記憶にあるのはその盆と正月。

そのときにしか掛図は掲げなかったのであろう。

床の間の記憶にあるのは神農さんの掛図の前にあった鏡餅ということはお正月らしい雰囲気であったことがよくわかる。

正月が明けて売薬仕事に向かう際に掛軸を掲げて商売繁盛を願った。

仕事道具を床の間に据えて旅の安全を願ったのであろう。

Nさんはそう云う。



私が神農さんの掛図を拝見したいと希望したものだから父親が商売に使っていた柳行李を座敷に出してくれていた。

今でも使えそうな柳行李は五段組み。

もう一つ、木製の蓋付きの箱もあるから正確にいえば6段組みといえばいいのだろうか。



それぞれをばらして並べてくれた。

行李の四つは内張りがある。

何を書いた書類なのか、文字がたくさんある。

一般的にコリヤナギ(カワヤナギ例もあるらしい)や竹が原材料の柳行李

職人さんが編んで作った製品は隙間がある。

虫食い被害も受けやすいヤナギ。

防虫に和紙でくるんで柿渋塗り。

内部に貼って強度をあげる意味もあったのではないだろうか。

行商に柳行李が使われたのは、軽さである。

収納する商品の大きさを考えてのことだと思われる内部の区切り板も組立型である。

運んでいるときに行李の中でゴソゴソしないように工夫されている。

手前にある木製箱に皮製の帯ベルトを納めていた。

このベルトは販売する薬に顧客台帳などを収納した柳行李を締めた。

倒れても崩れないようにしっかり締めた商売道具は大風呂敷(一反風呂敷)に被せて包んだ。



両端になる部分を引っ張って紐のようにする。

それを背中にもっていって両手を広げて背中に回す。

腰を上げて首辺りで結ぶ。

そういう具合に調えて父親は玄関を出ていったのであろうと再現してくださった。



再現時は商売の品々は入っていないので軽いが、詰まってあれば相当な重さになったであろう。

こうして担いだ大風呂敷に白抜き文字がある。



「鯉膽丸(りたんがん)本舗 株式會社きぬや薬舗」が製造する薬などを顧客に届けていたのであろう。

きぬや薬舗は風邪薬のメトン錠や頭痛・歯痛などに効果を発揮する医薬品ソラジンも販売している御所市今住にある薬製造会社である。

大風呂敷とともに錠剤入れに使っていたと思われるビニール袋も残していた。

この風呂敷でわかるように父親は同社の専属配置薬業、いわば売り子(行商人)であった。

N家を取材した半年後の平成29年6月7日である。

NHK奈良放送局が夕方の情報番組である「ならナビ」で30数秒間若しくは2分間に纏めたアーカイブ映像を流すようになった。

開局80周年を迎えたNHKが過去にとらえた映像は今となっては貴重な映像である。

4、50年前の奈良のさまざまな文化的記録映像が映し出される。

突然に始まったアーカイブ映像。

映し出した映像は昭和41年に記録された「高取町の薬の行商」である。

今からほぼ50年前の映像に登場していた人たちは男性ばかり。

畳部屋には何人もの人たちが薬箱の行李詰めをしている。

箱はN家で拝見した柳行李だけではなく、ほとんどが皮製の行李だった。

アーカイブ映像はモノクロだから色合いは不明だが、なんとなく黒色のようにも思える。

半年後の平成29年6月21日に訪れた大淀町の大字大岩。

そこで拝見した配置薬業の家。

今もある柳行李を拝見した。

その家は風呂敷もあるが、行李を肩にかけて運ぶ道具であった。

まさにアーカイブ映像で見たそのまんま。

皮は合成皮革であったことがわかった。

アーカイブも大字大岩で拝見した行李は5段組み。

同じように仕切り板があり、そこに薬箱を詰めていた。

詰め込みが終われば行商の出発。

単車後ろの荷台に積んで出かける人もおれば歩いていく人も。

歩いて出かけた背たろう姿は再現してくれたNさんと同じであった。

この「高取町の薬の行商」映像は録画したが、NHK放送局のネットで拝見できればなお嬉しいと思っていたら、Nさんがわざわざ探しだしてくれたのでリンクしておく。

大阪市内の住之江区が私の生家。

今は公団のような5階建ての市営住宅。

それ以前はほったて小屋のような安物木造家だった。

戦時中に罹災した人たちのために建造された市営住宅である。

今でも頭の中に残る配置薬箱の映像がある。

赤色に近い茶、それとも黒色だったか覚えていない。

小さな取っ手がある引き出し形式の薬箱だった。

中でも鮮明に覚えている絆創膏の名前。

キズリバーテープである。

製造販売していた会社は共立薬品工業㈱である。

他にも真っ赤な色合いの小袋にあった風邪薬もあった。

大阪の改元の風神さんでもなかったような気がする。

我が家の薬箱は現存しておれば・・・。

そう思っていた。

気にかけてはいるが、電話を架けるほどでもない。

実家に行く機会があれば、そのときにでも、と思いつつ、おふくろと会う機会は度々あるのだが、ついつい失念してしまう。

結局、訪れた日は平成29年の6月16日。

大字大岩と前後するように機会が突然とやってくる。

おふくろに薬箱の存在を確かめた。

そういえば木造住宅から5階建て団地に移ったときはあったという。

あった記憶を手掛かりに押し入れや棚を探してみる。

どこを見ても見つからない。

大阪市営大和川住宅の団地移転した時代は昭和50年代初頭。

入居した時期は昭和52年だったか。

おふくろが住む実家は木造一階から団地の4階に移った。

そのころも来ていた配置薬の男性。

大阪市の西成区から来ていたことを覚えているという。

半年にいっぺんは配置薬の置き換えにきていたが、いつのころか来なくなった。

理由は記憶にない。

仕事を辞めたのか、亡くなられたのか。

こちらから断ったのかまったく覚えていない。

おふくろも覚えていた薬箱の色はやはり赤色だった。

箱に取っ手があったことも記憶が一致するも箱がない。

始末したと思われる薬箱は記憶の中にしか存在しない。

私の知人に名高い写真家がいる。

その奥さんは秋田県が出身。

生まれ育った生家に奈良の配置薬があったという。

住所が奈良県高取町だった記憶があるという。

電車に乗ってとことこ行ったのかどうかわからないが、何日間もかけて顧客に配置薬を届けていたのだろう。

ちなみに富山県配置薬が始まった年代は元禄三年(1690)。

江戸城中で前田正甫が反魂丹によって三春城主の腹痛を治したことが発端である。

その場に居合わせた諸国大名が反魂丹を売り広めることに懇望したことが拍車をかけ、中国・九州地方から全国に行商圏が拡大したのである。

奈良県の配置薬は推定40年後の1730年

その年代の史料はないようだが、奈良県が整理した「薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)によればそう書いてある。

その年表には年代は不明だが、同時期に滋賀県、佐賀県も配置業が始まったように記載していた。

尤も県の「薬業通史2章3大和売薬の成立展開売薬業の展開と配置売薬」によればはっきりしているのは文化十年(1813)、高取市尾村の奉公人東谷善七郎が御所今住村の中嶋太兵衛(創業元禄二年の丸太中嶋製薬㈱)から家伝の目薬を東国に売り広める際に書き留めた史料に「西国三十三カ所」がある。

ここでいう東国は「東三拾三ケ国」とあるから東国の坂東三十三番観音。

東西の観音巡礼地に配置していたとすれば旅のお伴の配置薬。

そうであるか、ないかは事実関係を示す証拠がないからなんともいえないが・・・。

残していた道具はもう一つある。



煙草パイプのように見える矢立である。

鞘の部分に刀のように納めているのは筆。

その矢立に墨壺も付いている。

訪れた地域で販売記録をとった帳面に文字を書く。

その道具が矢立。

行った先々で墨壺に水を入れて筆を浸す。

そうして文字を帳面に書いていた携帯型の筆記用具である。

現代ならタブレット端末で記録している時代。

ルート販売をしてきた配置薬行商人が必須としてきた道具は柳行李ともども今や入手困難な商品である。

父親は身体都合を理由にきぬや薬舗専属の配置薬業を辞められた。

道具は残ったが、一番大切な得意先台帳(得意帳)は辞めるときの売り物になる。

売り子(行商人)を継いだある人に台帳そのものを以って売り払ったからどこの地域の誰に売っていたかはN家には伝わっていない。

どこの会社であっても顧客、取引先は重要な秘匿なデータ。

私も31年間務めた会社の重要なデータ情報は何人たりとも漏らしてはならないと退職の際に心の中に仕舞っている。

顧客情報ではないが、私の記憶のなかにある情報も、である。

それはともかく、N家もまた半年後の平成29年6月21日に再訪した。

その日に訪れた大淀町の大字大岩での取材を終えた帰り道に立ち寄った。

そのときに拝見した父親の「配置従業者身分証明書」。

昭和61年1月1日に発行された写真付きの証明書は奈良県知事が「上記の者は、医薬品の配置販売に従事する者であることを証明する」とあった。

有効期限は昭和61年12月31日までとあるから一年間における従事証明書である。

今から31年前に使われていた証明書もまた貴重な証言者である。

この証明書は「配置販売における区域」が明示されている。

区域は岐阜県に鹿児島県。

顧客がお住まいの両県であるが、Nさんが云うには主たる販売地県は鹿児島県だったそうだ。

元々は鹿児島県だけであったが、いつしか岐阜県も担当することになったようだ。

許可書に近い預かり証もある。

奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行する「医薬品販売業許可証預り証」である。

拝見した預かり証は昭和60年1月1日から昭和62年12月31日までが有効期間。

販売区域は鹿児島県であった。

「医薬品販売業許可証」は「更新」の印があり、「上記の通り許可になりました 許可証は組合にてお預かりいたします」も書かれていたから、別途に「医薬品販売業許可証」があったろう。

つまり、身分証明書は奈良県より、「医薬品販売業許可証」は奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行・許可していたのである。

また、「医薬品販売業許可証」は奈良県家庭薬配置商業協同組合が発行する関係で従事組合員は同組合の定款によって出資者となる為本証券も交付されなければならないようで、昭和38年5月1日登記付けで「奈良県家庭薬配置商業協同組合出資証券」書が交付されていた。

なお、販売に取り扱う品目も明示されており、主に専属のきぬや薬舗が製造する薬が14品目。

他に祐徳薬品工業㈱、㈱大石膏盛る堂、㈱雪の元本店、㈱大塚製薬工場、東洋フアルマ㈱、和泉薬品工業㈱の製品も取り扱っていた。

徐々に品目が増えていったことがわかる史料である。

ちなみにNさんはご近所で売薬をされていた家を訪ねたそうだ。

我が家にあるのならその家にも可能性があるのでは、と思って家人に尋ねてみれば神農さんの掛図はなかった。

何軒かの売薬家に尋ねてみたが一軒もなかったというからN家の神農さんは貴重なものである。

他家の売薬業では見られなかった神農さんの掛図。

父親が薬を仕入れていた薬の製造業社では今でも家の床の間に飾っていると知って、近所の現売薬家の方に案内されて2社を訪ねた。

その結果は、2社共に掛図はあるが、掲げることはなく函に仕舞ったままであった。

ただ、祭り方は、N家と同じように神饌もなく床の間に掲げるだけだったそうだ。

そういう点では大和郡山市の元往診家と同じである。

貴重な品物に纏わる行商の一部分を聞いていた時間帯はお昼どき。

予めである。

お店で買っておいたお寿司があるから一緒に食べてくださいとテーブルに運ばれた。



巻き寿司にいなり寿司がとにかく美味しい。

N家のもてなしに感謝しながらいただいたお寿司にご馳走さまでした。

なお、大和の売薬については奈良県の薬業史・通史が詳しい。

是非、参照していただきたい。

(H28.11.16 EOS40D撮影)

御所市宮前町神農社の薬祖神祭

2017年07月19日 09時20分53秒 | 御所市へ
高取町丹生谷に住む知人のNさんから神農さん関係の行事情報を教えていただいた。

N家は元配置薬家。

父親が各地にある顧客家に出向いて売薬をしていた。

お正月と盆に戻ってくる父親。

そのときに家の床の間に神農さんの掛図を掲げていたそうだ。

ご近所におられる現売薬家の案内で御所市内にある薬製造業社を訪ねられた。

現在はしていないが、家に掛図があると聞いたそうだ。

その昔に掲げていた期日は11月20日ころ。

神社行事を終えた直会の会場に掲げているという。

その行事名は神農祭。

かつては12月の冬至の日にしていたが、現在は一か月前倒しした11月にしていることがわかったと伝えてくれた。

それから2カ月後の11月5日、神農さん関連の情報を伝えてくださったNさんから再び連絡が入った。

御所市の神農さんの行事は11月16日の水曜日。

祭事の場は御所市宮前町に鎮座する鴨都波神社である。

着いてからわかったが、祭事は鴨都波神社摂社の神農社だった。

早めに着いて鴨都波神社松本広澄宮司並びに代表者へ取材の主旨を伝えて了解を得た。

この日の行事に集まった人たちは御所市内の薬関係業者が11社。

五條市から1社。

製薬会社、製薬組合、卸し問屋、配置商業などの組合員が参列する。

今年で35回目になる行事名は薬祖神祭。

行事日は特定日でなく代表役員の集まりで決めるそうだ。

また、組合員は桜井市三輪の大神神社摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭はなしずめまつり)にも参列しているという。

同祭に供えられる植物に薬草のすいかずら(忍冬)があると話す。

尤も同祭は平成20年4月18日に参拝させていただいた。

社伝によれば、同祭は「平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に鎮花祭のことが記され、春の花びらが散る時に疫神が分散して流行病を起こすために、これを鎮遏(ちんあつ)するために大神神社と狭井神社で祭りを行う。『大宝律令』(701)に国家の祭祀として行うことが定められていた」とある。



父親早逝により15歳で神職を継いだ松本広澄宮司は82歳。

戦前は学校近くにあった粟島神社で行われていた行事だったという。

昭和の時代のころである。

香具師(やし)と薬屋さんに関係深い神農さんを敬愛する神農会を組織していた。

薬業界の商売繁盛を願って共同で行事を営んでいたという。

香具師(やし)は薬を作るとか、売買していた露天商を指す。

縁日に馴染みのあるテキヤさん商売を昔の通りのヤシと呼ぶ人もいる。

元来、ヤシは薬販売業であった。

薬以外に商売を広げたのは藩政時代のころからのようだ。

明治時代以降、ヤシの言葉は禁じられるようになり、テキヤ(※適当屋と呼んでいたことから)と呼ぶようになって消えた。

年齢がいっている人はテキヤと呼ばずにヤシを称する人も多いやに思うこともある。

それはともかく御所の神農会組織は解散されて廃れたようだが、今では前述した薬関係の組合員が業界の安泰、並びに少彦名神に感謝するとともに繁盛願って神農社の薬祖神祭に参列している。

一段登った高い処にある神農社は昭和35年(1960)11月22日に薬関係者の発起人12人が建てたようだ。

と、いうことは宮司が話した神農会は戦前・戦中、或は戦後間もないころまであった組織であろう。

これらのことについては話題も出なかった現在の参拝者とは別の組織であったと思われる。

ただ、直会会場になる建物には組織を表示する案内札があり、「神農講」と書いていた。

本日、参列された団体は「神農講」でもあるようだが、拝見した別の資料では「薬祖神講」を表記していた。

はじめにお会いした代表者は製薬会社に所属するが、「薬祖神講」の代表者でもあったのだ。

いずれであっても神農=薬祖神である。

かつてあったとされる鴨都波神社摂社の粟島神社は戦後に戻した。

戻し還した先は桜井の三輪。

そこから勧請していたので元の処に戻っていただいた、ということである。

さて、薬祖神祭の神事である。



社殿脇に立ててあるのは大阪道修町の少彦名神社に出かけて購入したササドラ(笹虎)である。

同じようにササドラを供える奈良県内行事がある。

薬の町で名高い高取町下土佐恵比寿神社境内社神農社で行われる神農薬祖神祭である。

前年の平成27年11月20日に取材したので、重複しないよう、参考までにリンクしておく。



神農社社殿にたくさんの奉木を積んでいる。

奉木は宮司が予め準備しておいた「少彦名神社神霊」である。

30枚も用意した奉木は本日の参拝者にもって帰ってもらうありがたい薬の神さんである。

神饌御供は神社が用意した。

本社殿前に並べるのも宮司をはじめとする鴨都波神社の人たちである。

神饌御供の一つに生卵がある。

かつては鶏一羽だったが、今では生卵。

このような事例は奈良県各地でみられる傾向にある。

そして始まった神事ははじめに修祓。



神前に向かって祓の詞を朗々と詠みあげる。

聞こえてくるのは宮司の詞と鎮守の森に棲んでいる野鳥の声ぐらいのようなものだ。

厳かに斎行される神事である。

幣で祓って献饌。

献饌はすでに神饌御供を並べているのでお神酒の口を開けて献饌の儀をする。

続けて神農祭の祝詞を奏上して玉串奉奠。

式辞に沿ってそれぞれの代表者は玉串を奉げて撤饌で終える。

神事を終えた一同は場を移動して直会が行われる。



直会が始まるまでに許可を得て神農さんの掛図を撮らせていただく。

直会の会場に掲げられた神農さんの掛図は森本製薬㈱の預かりもの。

掛図を描いた作者名などの記載はないが、白髪老人の立ち姿である。尤も白髪は頭髪でなく髭の方である。

神農さんといえば、薬草をもって草を口で舐め毒見をしている姿を思い起こすが、この掛図は噛むこともない立ち状態を描いていた。

代表者それぞれのご挨拶。



そして乾杯で始まった直会の場は遠慮して退室した。

ネット調べであるが、粟島(淡島)神社の鎮座地は関東の千葉県白井市。

西日本は大阪府大阪市、和歌山県海南市、鳥取県米子市、山口県岩国市、大分県豊後高田市、大分県佐伯市、熊本県宇土市にあり、いずれも少彦名神を祭神とする神社である。

御所市の粟島神社の経緯は今となってはわからないことばかりであるが、少彦名神が医薬の神とされていることや、古事記や伯耆国風土記に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま:淡島)から常世|常世の国へ渡って行ったとする記述があることから崇められてきたのであろう。

ちなみに大阪の薬祖講である。

江戸時代、薬を検品する和薬改会所が検査の正確さと神さんのご加護を求めて、安永9年(1780)、薬種中買株仲間の親である団体の「伊勢講」が道修町仲間寄会所に、京都の五条天神宮から分霊をいただいて、日本の薬祖である少彦名命(すくなひこなのみこと)を、以前から祀っていた中国の薬祖である神農氏とともに祀ったことから始まる。

大阪の道修町の神農祭の当初は9月11日であったが、明治時代になってから旧暦から新暦祭事日に移した。

コレラが流行するなど、さまざまな事情によって明治10年に現在の11月22日、23日にしたそうだ。

また、京都市中央区にある薬祖神祠では薬問屋の繁栄を願って11月2、3日に薬祖神祭をしてきた。

ここもまた江戸時代後期に始まった「薬師講」の行事である。

「薬師講」は二条の薬業仲間というから組織化した講中の行事であった。

参拝者にお守り袋と陶器製の寅を括り付けた薬効のある笹の葉の頒布しているようだ。



なお、大阪市中央区道修町の少彦名神社の薬祖講行事は平成19年に大阪市の無形民俗文化財に指定されていることもここで触れておく。

(H28.11.16 EOS40D撮影)

野依の亥の子

2017年07月18日 09時02分35秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この年は11月1日が「亥」の日。

11月に「亥」の日が2回あれば初めの「亥」の日。

3回ある場合は2回目の「亥」の日に亥の子行事をすると聞いていた宇陀市大宇陀の野依。

万が一、初回の「亥」の日にするのかもと思って訪れた。

結果的にいえばこの年の「亥」の日は3回あるから2回目の「亥」の日だった。

時間帯は夜と云っていたので夕方の日暮れ前に神社で待機していた。

刻々と時間が経過するがどなたも来られない。

次の「亥」の日は13日である。

粘りたくはないから帰宅しようと思った矢先に車の窓をドンドンと叩く男性がいた。

窓を開ければ今日ではないという。

たしか回覧文書にそう書いてあったという。

それよりも「こんなところにヘッドライトも点けずおったら不審者と間違われる」とアドバイスされた。

しばらくしてその文書をもってきた。

前月の18日に回された文書は「亥の子について」だ。

芋の餅をお供えして万病を除く。

子孫繁栄を祝うとあれる亥の子の行事を13日の日曜にするので多数お参りくださいますようにと書いてあった。

文書はもう一件の連絡事項がある。

その夜は亥の子行事の前に地区懇談会もある。

内容は書いていないが宇陀市身体障がい者福祉協会長の講話があるようだ。

野依の亥の子行事に子どもは登場しない。

県内事例の亥の子に子どもが集落を巡って槌を打つように土を叩きつけるイノコの藁棒打ちがある。

明日香村の下平田や大淀町の上比曽、高取町の森、佐田がそうであるが、亥の日にイノコモチを氏神さんに供えるとか、作ったイノコモチを家で食べたりする風習の方が多くみられる。

これまで取材先でよばれたイノコのクルミモチは懐かしい郷土料理。

美味しさいっぱいが口内に広がる旨さである。

祭りの在り方は区々であるが、行事の日は「亥」のつく日は村行事であっても民家の習俗であっても同じである。

あらためて再訪した野依の亥の日。

亥の日に作って氏神さんに捧げる芋の餅御供を拝見したくて訪れた。

今夜は地区懇談会が開催される。

その会合が始まる前に着いておいた。

内容は宇陀市生涯学習課の教材である身体障害者を支援するビデオ学習会だった。

映し出すスクリーンの後方は旧仏母寺に安置する観音立像。

ローソクを灯したところにあるお供えは亥の子の芋の餅。

小頭家の両隣の家も支援して作った芋の餅はチンゲン菜やカブラ菜とともに供えていた。

予めに聞いていた芋の餅の作り方。

神事が始まる数時間前に作っておく。

粳米とサイの目に刻んだサトイモを炊いて芋を潰す。

それを小豆で作ったコシ餡でくるむと話していた。



講話が終わって配られたバッジがある。

白色とオレンジ色のハートが重なるようなデザインのバッジに[SUPPORTER]の英文字がある。

このバッジは鳥取県が発祥の、私は障がい者をサポートしますという意思表示を表現している。

白い色は障がい者。

温かいオレンジ色の私がサポートしますというデザイン。

例えば階段の上り下りで苦労されている人を支援するようなものでもいいのである。

かたぐるしくとらえるのではなく、手を添えるだけでもいいのである。

心臓を手術した関係で務めていた接骨鍼灸院の仕事ができなくなった。

仕事は患者さんの送迎である。

大多数が80歳前後の高齢者。

車に乗り込むときに支援する足踏み台を用意する。

それだけでも充分な行為である。

身体を支えるには介護士の免許がいるが、それぐらいであればドライバーでもできる。

90歳になるおふくろは自力で歩けるが、心もとない。

私が運転する軽バンに乗ってもらうときも足踏み台を添えてあげる。

そういうものでもサポートである。

それに近い話しをしてはった宇陀市の職員にありがとうである。

帰宅した後日。

普段着ではないが、おしゃれする日に着る一張羅の上着にピン止めした。

それからというものは「あいサポーター」バッジを見つけた知人たちに説明を繰り返すようになったことを付記しておく。

講話が終われば村の人らが動き出す。

場は移動して白山神社の社殿前。

いつもの神事ごとである。

お供えをしてローソクに火を灯す。



導師が一人前に出て般若心経を唱える。

鉦打ちもなく坦々と唱える導師に合わせて村の人らも唱える般若心経は五巻。

いつもそうしているという。



ローソクの灯りが消えると辺りは真っ暗だ。

月夜であれば・・と思ったら今夜は満月の数日手前。

履物を脱いだところは月明かりが照らしていた。

神事を終えれば下って、旧仏母寺でもある参籠所の場で直会。



お菓子をつまみに下げたお神酒をいただく。

かつては直会に芋の餅を食べていたという。

小頭家が作る50個の芋の餅を食べていた。

お重に詰めていたというからお重の個数も結構な量である。



今では本社殿や仏さんだけになったお供えであるが、野依では秋に行われる頭家渡し以降の行事は大改革をする方向で検討している。

特に手間のかかる直会関係の食事や御供は大幅に削減するそうだ。

翌日の14日によばれた御供下げの芋の餅。

帰宅してすぐさま冷蔵庫に入れていた。

芋の餅はどのように作られたのかは小頭がお話してくださったからだいたいのところはわかっている。

わかってはいても、たっぷりのコシ餡でくるんでいるから中身は見えない。

割ってみないと中身は見えない。

そう思って切り分ける。

包丁で切れば断面は平面になる。

ご飯粒に細かくしたというサトイモの形が見えるだろうか。

粒々を見るなら手で割ったらいいだろう。

いや、それでは真心こめて作った芋の餅に失礼してしまう。

ならば、と箸で割ってみることに決定した。



作り方を話してくださった状況から、また、外面から俵型に握っていることから柔らかいボタモチのような感じだと思っていた。

そうであれば箸で難なく割れるはず。

ところが箸を挿しても突っ込んでも堅いのである。

力を入れて作ったおにぎりは堅め。

そうして出来上がったのではと思うぐらいに堅い。

二本の箸を巧みに動かしてなんとか割った芋の餅。

断面にご飯の粒々が現われた。

細かく刻んで粳米とともに一般的な炊き方で、ご飯を炊くように炊飯器で作った餅は、つまりのところはおはぎである。

写真ではわかり難いが薄めの黄色がサトイモである。

丁寧にしぼりだした小豆の汁とともに炊いた殻剥き小豆は漉し餡にした。

手間がかかっている漉し餡をくるんだ芋の餅はがっつり歯ごたえがある。

小粒が歯にあたる食感がなんともいえない。

漉し餡は甘さを控えた上品な味。

商売屋さんでも売っていけるような出来の小豆の漉し餡。

食感が面白い芋の餅はこれが最後。

来年の亥の子行事には出ないようになるらしい。

(H28.11.13 EOS40D撮影)
(H28.11.14 EOS40D撮影)

福住の民俗画帳展示会in天理市福住公民館

2017年07月17日 09時11分40秒 | 民俗を観る
テレビのニュースが伝えていた天理市福住の民俗を描いた画帳展示会。

公開の場は天理市福住公民館だ。

福住の住民たちと思われる人たちでいっぱいになった公民館。

映像で解説していたのは天理大学の大学院生だ。

展示された画帳を前に語っていた。

テレビに映し出された「テントバナ」に腰を抜かすほど驚いた。

福住にかつてあったとされる民俗の一コマが絵に描かれていた。

赤い色の花を十字に縛った竹竿を立てていた。

それを見上げる二人の子どもがいる。

しかも、だ。

その竿には竹で編んだと思われる籠をぶら下げていた。

画のタイトルは「おつきよか」。

旧暦四月八日とある。

まぎれもない「おつきようか」の在り方が絵に描かれていた。

閲覧者に話していた大学院生。

「これはお月さんに向けて供えていた」というのだ。

そんなことはあり得ない。

直に拝見して苦言を申したいと思った。

テレビでは「テントバナ」という表現を一言もしていなかった。

何かがどこかで誤ったのであろうか。

民俗を専攻している大学院生はテレビのなかでさらに説明していた。

同じような仕組みを発見したテーブルに広げた宮中画帳をもって大学生に説明していた。

姿、形が同じであることを説明していた。

それは有りだと思うが、民俗を記録している私は気になって仕方がない。

誤った認識で誤ったことを見聞きしてしまうのがコワイ。

テレビニュースはこの画帳は大学院生が発見したことによるものだと伝えていた。

画帳は100枚以上もある。

今回、展示された画帳はその一部であるが、公民館展示は37枚。

描いた人は故永井清重さん。

明治38年生まれの永井さんは平成11年に亡くなられた。

生前のいつごろに描かれたのか。

その点については言及されていないが、絵そのものにコメントがある。

絵の内容はとても貴重である。

しかも、コメント記事によって、より真実性が伺える状況描写。

テレビニュースに映し出された男性がいる。

何年か前から存じ上げるOさんだ。

レポーターがマイクを向ける質問に答えていたが、名前はなかった。

久しぶりにお会いしたい。

それもあって公民館を訪れた。

Oさんと初めてお会いしたのは天理市長滝町だった。

平成22年2月5日に行われた正月ドーヤ。

長滝の九頭神社と地蔵寺で行われる正月行事である。

朝早くから詰めておられたOさんは福住の住民。

話しを伺えば「御膳」と呼ばれる9月行事をしている上入田の人だった。

平成19年、平成21年の9月15日に取材した「御膳」の行事をしている地域である。

その行事を知ったのは奈良新聞の小さな記事であった。

その様相を見て、たまらなく行きたくなった。

それが実現したのが平成19年だった。

その記事を書いたのは新聞記者であるが、情報を提供したのはOさんだった。

地域の行事を広く伝えたい。

そう思って新聞社に取材を願ったのである。

その記事を見た私は取材した。

その様相はたまたま知り合った旧都祁村の藺生から繋がる。

当時、総代だった男性の奥さんは出里が小倉。

同じようなことをしていると聞いて急行した。

両件とも撮らせてもらった野菜造りの御膳の様は著書の『奈良大和路の年中行事』の頁を飾ってくれた。

繋がりは次々に発展することになったのである。

こうした経緯があって出会ったOさんは平成25年に訪れた大和神社のちゃんちゃん祭りの際にもお会いした。

テレビニュースが伝える「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」をテーマに展示された画帳のことをよく知っているのでは、と思って出かけた。

天理市山間にある公民館は2カ所。

一つは山田町にある山田公民館。

もう一つが福住町にある南田公民館と福住公民館である。

立地は前々から存じている福住公民館である。

向かい側に枝垂れ桜や十夜会双盤念仏を取材した西念寺がある地区である。

染田でフイゴ祭の取材を終えて時間があれば行ってみようと思っていた。

難なく着いた福住公民館にあった立て看板に「福住公民館まつり第三十回記念 永井清繁さん絵画展」とある。

展示協力に帝塚山大学。

サブタイトルは「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」とある。

公開期間は三日後の13日まで。

なんとか間に合った。

氷室神社で今尚行われている神幸祭の行列は昔懐かしい状態を描いていた。

雨の日のお渡りになった平成17年の10月15日に撮らせていただいたその在り方とはまったく違っていた。

昔のお渡りとは風情もそうだが登場される人たちにこんな姿もあったことを知るのである。

赤いタスキを額に巻いて顎にぐるり。

首もとで締めて垂らす。

それは同じである。

烏帽子を被る素襖姿の色柄が異なる。

何人いるのか絵画ではわからないがすべてが紺色だった。

私が取材した年は紺もあれば濃紺に茶色もある。楽人が着る衣装の色柄も異なる。

楽太鼓を担ぐ人足は白衣。

これはどこでも同じだと思う。

先頭を行く人はサカキ持ちの神職。

これも同じである。

甲冑武者、巫女さん、旗持ち、天狗、獅子舞、神輿も同じ。

取材したときは花籠があったが、絵画にはなかった。

今回の展示はすべてではないと聞いている。

もしかとすれば蔵に埋もれているかもしれない。

絵画で一番のお気に入りは帽子を被ってサーベルをもつ駐在さんの姿だ。

大正時代になるのか明治時代か、わからないが警官の姿は映画でしか見ることのなかった姿である。

その後続についていた和装の男性。

羽織袴に帽子を被っている。

帽子は山高帽のように思える。

それを拝見して思い出したのが旧都祁村白石・国津神社のお渡りに登場する男性たちだ。

平成18年の11月3日に行われた「ふる祭り」の姿である。

男性たちは宮座衆。

上の六人衆と控えの六人衆が揃った十二人衆である。

太鼓を打って先頭を行く。

後続に御供のスコ飾りを担ぐ十二人衆すべてが羽織袴に山高帽を被っていた。

今でもその姿で行列をしている十二人衆の姿に驚いたものだ。

県内事例でいえば白石だけにあると思っていた山高帽姿が福住にもあったことを知る貴重な絵画は驚愕の事実であった。

氷室神社行事の驚きはもう一枚ある。

「七月一日 氷室神社献氷の祭 塔の森霊廟へ(氷)豆に寒粉をまぶしたと初瓜を供へに参りる」とキャプションが書いてあった。

そのキャプション横にある所作は笹の葉を薪の火で沸かした湯釜に浸けている神職の姿である。

その所作を「煮湯の抜」とあるが、いわゆる「御湯」の作法である。

私が拝見した範囲内の献氷祭に御湯行事はない。

あるのは拝殿の神楽舞と午前中に参拝される塔の森参りである。

寒粉は「かんのこ」。

いわゆる餅つきに欠かせないとり粉である。

氷室神社の祭り関係は別室展示。

大多数はロビーホールでの展示だった。

ロビー中央の壁に展示していた絵画は農耕の在り方。

冬田起こしに高く振りぬいたクワで田を打つ。

隣には女性が藁束をおしぎりで切っていた。

わらまきにクマデやすずきも書いてある。

次の一枚は春田耕。

「耕」に「おこし」のふりがなをふっていた姿は牛耕姿。

隣にある情景は「げんげぼおこし」。

「げんげぼ」とは何ぞえ、である。

それは「れんげ畑」だと話してくれたのは山添村春日住民のUさん。

同じ時間帯に拝見していたUさんも私と同じようにテレビで放映されていたニュースに飛びついたそうだ。

Uさんが云うには「げんげ」は「れんげ」。

そう訛ったということだ。

では「ぼ」とは何ぞぇ、である。

「ぼ」は田んぼと同じことである。

田んぼの「田」ではなく「げんげ」の田んぼだから、「げんげ」に「ぼ」を付けたということだ。

なるほどと感心する。

ひと通り見られたUさんが云った。

これらの絵画はUさんらが管理している山添村三カ谷にある民俗資料館で展示できないものか、ということだ。

複写でも構わないから、是非とも展示したいと話していたが、著作権問題をクリアする必要がある。

これらの絵画を展示するきっかけになった展示協力している天理大学の許可もいるだろう。

ましてや絵画の著作権は継承した家族にある。

複写であってもそのことは重要なことである。

話は展示に戻そう。

次の農耕絵画は田植に代かき。

何故だかわからないが、人が浚えの代掻き棒を引っ張って代掻きをしている姿だ。

私の記憶、或は残された農耕写真では牛が引っ張る代掻き棒で掻いていた映像である。

次は田の草取りに田の虫送り。

草取り姿の農夫は蓑を背中に。

奥さんと思われるもう一人の女性は蓑ではなく田ゴザである。

草取り機械の除草機は今でもときおり目にする形である。

それよりも気になったのは太鼓打ちに火を点けた藁束を持つ人たちである。

福住地区に田の虫送りがあったと思われる絵画に、えっ、である。

Uさんが云った。

福住ではなく山田の虫送りでしょ、である。

看板にあった福住地区を中心とした云々である。

かつて山田は福住村内であった。

明治22年4月、町村制の施行によって長滝村・山田村を合併してできあがった福住村である。

それ以前の福住村は明治8年に中定村・浄土村・別所村・下入田村・上入田村・南田村・井ノ市村・小野味村が合併したことによる。

数十分後にお会いしたOさんは絵画に描かれた田の虫送りは「山田」であると云った。

次の絵画は収穫である。

稲刈りを終えた稲を「はさ」に架けている情景である。

道具のキャプションに「はさ竹」とか「はさの足」がある。

足は木材で竿は竹である。

今も昔も変わらぬハサカケの材である。

次は稲こき。

足で漕いで回転する稲こき機械もあれば、女性が稲こきをしている「千歯ごき」もある。

稲こきが終わって収穫作業も一段落。

冬場であろうと思われる「夜なべ」の情景も描かれている。

俵、さんばいこ、さんた(一般的はサンダワラ)を土間で編んでいる女性たちの姿である。

土間から上がった座敷に座っている男の子は本を広げて学習中だ。

電気もなくランプの光の下で作業をしている。

一連の農耕の情景が蘇ってくるシーンにこれもまた感動する。

次は冠婚葬祭関係である。

一枚は嫁入りしているときの在り方である。

仲人さんとともに嫁入り先の家にあがるときの作法をあらわしているである。

もちろん、をするのは仲人ではなくお嫁さんだ。

すぐ横には弓張提灯を持つ世話人や嫁入り道具を納めた柳行李を担ぐ荷持も並ぶ。

柳行李なんてものは今では見ることのない運ぶ道具。

現状では死語になっているかも知れない。

最近になっても嫁入りにをしていたと話していたのは大和郡山市の櫟枝町の住民である。

婦人が体験した記憶にある嫁入り。

実家が用意した青竹を割る。

それからタライに足を入れて洗う。

白無垢姿でした嫁入り作法をしてから家にあがる。

そんな話を思い出す絵画の様相である。

後に知ったのは、話してくださった櫟枝町の高齢の婦人はかーさんが行っている太極拳の仲間だった。

村の行事の当家祭がある。

その当家の在地を案内してくださったのが高齢婦人。

どこかでご縁が繋がっている事例の一つになった。

次の絵は屋内で行われている結婚式の在り方である。

その次が「二日帰り」。

振り仮名に「にさんがへり」と書いてカッコ書きに里帰りの但し書きがある。

赤ちゃんを背中でおんぶした「おいね」が見送る風景に「ほっかい」に包んだ荷物を担げる男性とともに帰郷する。

いつの時代になるのかわからない衣装。

電車の駅はどこであろうか。

ここは山間部。

バスに乗って実家に戻っていったのか、地元住民の生活体験をお聞きしたい。

その次は赤ちゃんの誕生。

土間に置いたタライの産湯。

産婆さんが赤ちゃんを取り上げているようだ。

竃に火をくべているから沸かしたてのお湯。

その横にクワも抱えた男性が扉を開けて出ようとしている。

木の樽に竹籠を担ぐ男性のキャプションは「えな埋め」である。

「えな」を充てる漢字は「胞衣」。

いわゆる胎盤である。

次は満一歳の誕生祝い。

キャプションに「あずき餅ときなこ餅を背負わせて希望の道具を取らせる」とある。

あずき餅ときなこ餅は直に背負うことはできない。

風呂敷に包んでいる絵が描かれている。

満一歳の子供に背負わせたら重たい。

いつだったか思い出せないが、福住町出身の若い女性が生まれ育った里では満一歳の初誕生の祝いに一升餅を包んだ箕を背たろわせて前に置いた数々の文具を選ばせていると話していた。

その情景はまさに展示された絵画とまったく同じだ。

平成21年の12月のメモにそう書いていたから勤務していた市民交流館時代に来館されていた利用者だったと思う。

生まれたら是非取材させてくださいとお願いしたが叶わなかったが、他所で拝見させてもらった。

取材したのは平成23年の3月27日

場所は奈良市丹生町のF家の初誕生で叶えてもらったことが忘れられない。

さて、福住の初誕生絵である。

満一歳の子供は母親に抱かれるような姿に風呂敷に包んだ一升餅(と思われるが)を首に巻き付けて背負っている。

座った場に箕がある。

その前にある道具はカマ、トンカチ、そろばん、手帳、ハサミ、鉛筆になぜか煙管がある。

傍らにおいてあるコジュウタには大きな餡子やキナコでくるんだおはぎがある。

小さ目に作った餡子(餅かも)もある。

その隣では竃に火をくべてこしきで蒸している。

臼を挽く男性の向こう側にあるのは大きな白餅。

から臼で搗くモチ搗きを描いている。

次の絵は正月の屠蘇祝い。

竃に立てた荒神さんに三段重ねの鏡餅がある。

いろりを囲んだ一家の正月に「いただき」を描いていた。

土間には若水を汲んだ木桶もある。

お重に盛ったお節料理もあるが雑煮が見当たらない。

次の絵は塔まいりに七橋まいり、盆の沸まつりの三つ。

塔まいりは墓石が並ぶ墓地へ参る情景。

「実家の菩提処の墓へまいる 八月上旬」とある。

桜井市山間部の数か所で聞き取りした塔参りと同じような参り方だと思った。

今年の8月7日に萱森下垣内の在り方を取材した。

萱森ではそれを「ラントバさんの塔参り」と呼んでいた。

7日は各地に塔参りがある。

奈良市の旧都祁村になる小倉町は墓掃除をして参る下向の塔参りと呼んでいた。

桜井市倉橋も7日。

カザリバカとも呼ぶ無骨埋葬のカラバカ参りをラントバサンと呼んでいたことを思い出す。

天理市苣原は6日であるが、石塔婆墓に参る塔参り。

また、8日事例に旧都祁村の藺生も塔参りと呼んでいた。

調べてみればもっと多くの地域で今も参っているのだろう。

8月14日宵の七橋まいりが気にかかる。

橋に名前が書いてあった。

「深江・・」の文字があることから深江橋。

場所はどこだかわからない。

七つの橋の一つなのかどうかわからないが線香に火を灯す浴衣姿の女児がいる。

14日に線香を・・ということは先祖さんの迎えに違いない。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に大字笠形の風習に「8月14日、七橋詣りといって、火のついた線香をもって村の7カ所の石橋に行き、2本ずつ立てて、お茶を注いで廻る」とあった。

たぶんにそれと同じようなことをしていたのであろう。

三つめの絵は佛まつり。

8月13日より15日までのことを説明したキャプションがある。

「新しく亡くなった佛は家の軒に新だなを作り 位はいを祭り岐阜提灯をとぼして(灯して)詠歌をとなへる」とある。

屋内で伏せ鉦を打ってご詠歌を唱える。

カドの庭には二本の松明を燃やしている。

廊下か縁側か、それともカド庭なのか位置がわからないが、新仏を祭るタナがある。

それは結構な高さがある。

架けている梯子も長いのが特徴のようだ。

次の絵は旧暦四月八日のおつきよか。



この絵をテレビが紹介していたのである。

茅葺民家のカド庭に立てた竹竿。

てっぺんに結わえた花は十字。

十字といっても下部には花がない。

色柄から云えばツツジであろう。

その十字すぐ下にあるのか竹の籠。

やや大きい丸籠のように見えるからやや大型のシングリであるかも。

この籠は一目で何の謂れがあるのかわかる。

ここに三本足のカエルが入っていたら・・・招福。

或いは金持ちになるとか。

いわば吉兆の印しは福を迎える使者として信ぜられた。

また、十津川村の伝承に「サンボンガエル(三本蛙)」がある。

二俣のトリカゲ(トカゲ)、サンゾクガエル(三本足の蛙)とを肺病で寝ている人の枕元に置いて、さらに、頭が二つある蛇に十五節あるヤマドリの尾羽を輪に曲げて病人を見ると病気の黴菌が見えたという寺垣内の中本家の伝承である。

ありえない四種の動物を並べて、福を招き入れるという民間信仰であろう。

竹竿はもう一本立てている。

それは十字の花ではなく一の字に括ったツツジ。

これは始めて見る様相の2本立てである。

事例的にもあり得ない在り方にクエッションマークが頭に浮かんだ。

その絵にキャプションがある。

「各家の前へつつじの花を 竹はゆわえて月にそなへる」とある。

これが問題なのである。

描かれたご主人はオツキヨウカのことをたぶんに存じていないと思われるのだ。

行事の名はなんとも思わずにそのまま聞けば「お月・・」である。

つまり、お月さんが昇る天に向かって竹竿を立てていたとの思い込み、である。

福住では「おつきよか」であるが、本来は「おつきようか」。

「おつき」は旧暦の四月。

陰暦で云えば「卯月」の4月である。

つまり「うづき」が訛って「うつき」。

さらに訛って「おつき」になったと推定している民俗風習の一つにあるのだ。

絵画に「旧暦四月八日のおつきよか」とある。

ツツジの花が咲く季節は新暦の5月。

そういうことである。テレビで伝えていたご婦人も「お月さん」と話していたが、大間違いである。

解説していた学生さんもこの風習をご存じではなかった。

慌てて福住公民館にやってきたのは、この絵を拝見して確信を得たかったのである。

ちなみにオツキヨカに供えた花は屋根に揚げたら家出した者が帰ってくるという言い伝えがある。

そのことを話してくれたのはOさんだ。

画集ではオツキヨカの呼び名であるが、Oさんはウヅキヨウカ(卯月八日)と呼んでいた。

かつてO家でも、ウヅキヨウカをしていた。

ツツジにウツギの花だった。

籠にカエルが入っていたら、えーことがあると伝わっていた。

田んぼに居るタニシを見つけては納めていたシングリの籠というから、画集にあるような大きな籠ではなかったようだ。

以前、「サンボンガエル(三本蛙)」のことや「オツキヨウカ」の名称についてブログにアップしたことがある。

よければ参照していただきたい。

この絵には茅葺建ての西念寺がある。

今もなお茅葺の西念寺に参る三人のおばあさん。

キャプションに伝法講とあるから融通念仏宗派。

そう、西念寺は融通念仏宗派である。

十夜会に施餓鬼、除夜の日に鉦講が双盤鉦を打って鉦念仏をしている。

お寺では屋根に花を飾り付けた花御堂におられるお釈迦さんに甘茶をかけて誕生を称える姿がある。

今でもしているのか・・と思った次第である。

次の絵は芋明月と栗明月(※いずれも名月の誤記)だ。

芋明月のキャプションは「九月十五日(旧八月明月(※名月の誤記)の晩) かやの穂と萩の花を里芋の子芋を供へる」とある。

かやは花がさいていることから一般的に呼ばれているカヤススキであろう。

左側に描いている栗明月のキャプションは「十月十三日(旧九月明月(名月の誤記)の晩 栗の実と枝豆を供へる)とある。

両方とも今でもされている民家があるのだろうか。

芋名月の在り方は県内平坦部も含めて数か所で調査してきた。

調査事例に大和郡山市の2例がある。

隣近所であるが、様相は若干異なる。

山間部の生駒市の高山平群町では月見どろぼうと称する風習もある。

平群町では中断しているが、今年は十津川村で行われている滝川で芋名月を調査したが、栗名月はなかなか見当たらない。

農村稲作の在り方もあれば茶業も描いていた。

摘娘(つみこ)が刈り取るお茶の葉。

煙が流れている茶小屋まである。

次は茶揉作業。

ふんどし姿の男性が茶を揉んでいる。

作業場にある台は「ほいろし」に「ほいち」。

蒸すのであろうと思われる「上たく」に茶つぼも描いている。

次の絵は茶蒸し。

むし娘(むしこ)がストーブのような処で蒸している。一方の絵は「青たおし」。

煙突がある手回し機械は「高林式粗揉機」のプレート文字まである。

その下には火をくべる割り木もあれば、さまし籠もある。

割り木を伐採する作業もある次の絵。

タイトルは山仕事だ。

「薪積」、「一きし」、「薪」、「なた」、「枝ゆい」、「割木わり」、「割よき」、「ごもくかき」、「ごもくかご」の文字でよくわかる。

次の絵は「山行」だ。

雑木をナタで伐っているのは女性である。

山の道具は「山鋸」、「根切よき」。「やかん飯」でご飯を炊いていた。

次の絵は薪・賣り。カッコ書きで天理市櫟本町馬出とある。

そこまで売りに行くには運ぶ馬がいる。

キャプションに馬で炭賣りと書いてある。

一方、薪賣りは人手の大八車。

坂を下る様子が描かれている。

割り木賣りはオーコで担ぐ女性だ。

道具は「かちんぼ」と呼ぶのだろうか。

故永井清重氏が生まれたのは明治38年。

いつから絵画を描くようになったのかはわからないが晩年まで。

平成11年に亡くなられるまで描き続けていたようだ。

生きてきた時代ごとの服装もまた民俗である。

明治末期より大正時代までの男女の正装も描いていた。

男性は山高帽を被った羽二重黒染五ツ紋。

女性は着物姿の丸髷。

浜縮緬裾模様に倫子丸帯だ。

男性の持ち物は懐中時計。

女性は婦人ものの巾着である。

他にも青年、女学生、主婦、とんびを着た村長さん、まんと姿の(旧制)中学生、夏の(農)作業衣、かんかん帽を被った浴衣がけ男性、婦人ジョーセット着物。

冬姿の五人五様。

一人の男性はネルのひっかむり姿に甚平にがんじき靴。

女性はぢくつ。

厚司は和傘に洋靴を履く。

もう一人の女性は頭巾を被って肩掛けに下駄ばき。

男の子の着物に「井の」の文字と思われる紋様がある木綿服だ。

公民館館長や福住いにしえ会のOさんの話しによれば永井家は呉服屋さん。

衣服に関心があるからこれほど多数の着衣を描いたのであろう、という。

行事や風習に農業、林業などの営みを描かれた絵画はとにかく感動するばかりである。

民俗を表現した絵画は実に貴重である。

今では見られないものばかりでわくわくしながら拝見させてもらった。

私は取材等で記録した写真で民俗情景を残している。

写真ではなく聞きとらせて人たちの記憶は私のブログ等で文字表現させてもらった。

記憶も記録。

忘れてしまえば失効し、いつしか消えてしまう。

その人の記憶を文字化によって記録してきたが限界がある。

かつてさまざまな地域で記憶を文字化した史料が残されている。

それと同じ類のことをさせてもらっている。

その記憶が絵画映像として残された。

たいへん貴重な史料である。

お許しをいただけるならお願いしたいと思って作者の遺産を継承された家族に了解を求めて門を潜った。

著作権も継承されている家人に、類事例の一つにブログとか書物に紹介させていただきたいと申し出た。

この日に拝見したすべてではないが、何かの折に参考、参照公開させていただきたいと申し出たら了承してくださった。

紹介する場合はその都度に連絡は・・と云えば、そこまでは要しないと云われたが、公開時に「出典 故永井清重製作画帳より」を記載することにした。

(H28.11.11 EOS40D撮影)

室生染田・野鍛冶師の発注受け農具

2017年07月16日 07時01分24秒 | 民俗あれこれ(職人編)
野鍛冶作業の行程の実際を見せてくださったあとは注文順に並べた発注者農具の解説である。

この画像にはないが鉄製のタケノコ掘り道具もあった。

9月17日に訪れたときはそれもあった。

2カ月も経てばできあがり。

その代わりではないが、注文農具も入れ替わり。

DIYの店で売られているような製品もあれば昔からずっと使用してきた農家さんの農具もある。

鉄の部分は再生されて綺麗にみえるが、柄の部分は長年に亘って使ってきた風合いがある。

話しは戻るが鉄製のタケノコ掘りの道具は「テコ」である。

翌年に水口まつり取材に訪れる天理市の中之庄町の3人の農家さんの農具があった。

また同市別所町にも10数軒のタケノコ掘り農家があるらしい。

タケノコ掘りの時期は集中するから注文も集中するようだ。

タケノコ掘りの農具はすべてが鉄製のものもあれば、土に食いこめるテコ部分だけが鉄製の農具もある。

その場合の柄には差し込み口がある。

長さでいえばだいたいが20cm。

柄の長さは120cmになるそうだ。

ところで野鍛冶師は奥さんともどもテレビ出演したことがある。

平成28年10月1日に放映された番組はNHK放送の「ええトコ―体よろこぶ健やか旅-奈良県宇陀市―」だった。

そのおかげで農具の注文がすごく増えたという。

もう一品は草引き道具。



大手の花しょうぶ園で大量の注文があった。

前回訪れた際に一本をくださった草引き道具はとても使い易い。

翌年の春の雑草刈りに活躍してくれた。

また、隣に建てた蔵は農具の収蔵庫。



数は少ないが民具の私設博物館のようである。

(H28.11.11 EOS40D撮影)

室生染田フイゴの祭り

2017年07月15日 10時08分45秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
2カ月前の平成28年9月17日

室生染田の田んぼで偶然に出会った田主さんは野鍛冶師。

毎度ではないが、何かと出会うときがある。

この日は退院してから9カ月目。

久しぶりに顔を合わす話の弾みに写真家Kさんの願いを叶えたくてフイゴの祭りの再取材。

これまで2回も取材させてもらっている。

1回目は平成18年11月8日

2回目は平成23年11月8日だった。

2回目に至る前年の平成22年。

その年の毎週水曜日に発刊される産経新聞の奈良版の連載。

奈良支局の依頼で始まった奈良県の伝統的な民俗を紹介するコーナーを受け持った。

連載は一年間。

シリーズタイトルは「やまと彩祭」であった。

執筆にあたって毎週、毎週の奈良の民俗をどういうものを季節に合わせて計画した。

意識したのはできうる限り、貴重な県内事例を伝えたい、である。

それより一年前の平成21年は人生にとって初の著書である『奈良大和路の年中行事』の刊行である。

編集・出版は京都の淡交社。

裏千家で名高い出版社である。

奈良支局から依頼されたときにすぐさま頭に描いたのは著書では紹介できなかった民俗行事である。

表現も新聞記事らしくしようと思って毎週の発行に合わせる行事を計画した。

そのひとつに挙げたのが宇陀市室生染田で行われているフイゴの祭りだ。

野鍛冶師がフイゴに感謝する記事を書きたい。

そう思って描いたのは大昔から今にも続く農耕の在り方である。

農具、民具は寄贈された民俗博物館などにカタチとして残される。

カタチで残された文化的所産物は有形文化財。

民俗文化財は衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術など、人々が日常生活の中で生み出し継承してきたモノモノ。
有形は「モノ」として残されるが、無形はいわば「流れ」。

固定化されたモノでもない。

時代、文化の興隆衰退によって変革する。

有形もそうであるが、無形分野を形で残すには写真、動画、文字・・などしかない。

私にできるのはそれしかないと思ってしたためた。

48年前。

私が卒業した高校は大阪府立東住吉工業高等学校。

選択した科は第二機械科である。

第一機械化は鋳物関係。

第二機械化は旋盤関係。

大きくわけるとそんな感じだ。

卒業してからずいぶんと日が経つが、体験したことは身体が覚えている。

機械科だからこそ同じ鉄を扱う鍛冶仕事を気にかけたい。

記事化に選んだ理由は機械科卒であるからだが、執筆する記事に誤りや食い違いがあってはならない。

したためた原案をもって染田の野鍛冶師さんにみてもらった。

大まかにいえば問題はなかったが・・・若干の指摘を修正し、記事になった。

平成22年11月7日に発刊された新聞記事は新聞社の校閲もあって読みやすく、わかりやすくしていただいた。

元原稿は手元に残している。

公開された記事と読み比べてみれば恥ずかしくも思う文である。

恥ずかしくもあるが、ここにそのままの原文を残しておく。

「弥生時代はより安定した生活を営むため水稲耕作が広まった。農耕具が木製から鉄器文化に移ったことが普及の一因で、それは小国家のクニの始まりであった。稲作鉄道具は荒地を開拓するのに適し、より広大な土地を耕すことで文化水準が一挙に高まった。その鉄農耕具に携わる生業、戦後まもない時期までは野鍛冶が村の花形だった。生活文化が変わり、農業生産は効率的な農機具に移っていった。今ではその普及によって、その姿を見ることが少なくなった。所狭しにさまざまな鍛冶師の道具が並んでいる。」

「鍛冶屋の仕事場は火床(ひどこ)。火を起こすフイゴや金床、金槌、ハサミ道具、万力、ボール盤、円砥石がある。ベルトハンマーが回転する槌(つち)打ち機械が動き、松炭でまったりと焼けた鋼(はがね)を取り付けた野鍬の先を叩きつけるハンマーの音。親爺さんから二代目を継いだ室生染田の野鍛冶職人は今でも現役。クワ・ナタ・カマなどを修理する野鍛冶仕事に精を出す。(※)焼けた鋼や炭の色で目利きするその姿は巧みの技師だ。四方に飛び散った火花は清廉で、真っ直ぐな線を描く鉄一筋の伝統技が生きている。

奈良県では戦後間もない頃、野鍛冶を営んでいた鍛冶屋は約2在所ごとに一軒というからそうとう多数あったそうだ。それが現在は僅か数軒になった。その鍛冶屋が信仰する祭りがフイゴ祭。新暦の11月8日に行われている。一日ゆっくりフイゴを休ませて、フイゴとともに一年の労をねぎらい鍛冶仕事に感謝する日だ。

田畑を耕す鍬や鎌は農業を営む人にとっては欠かせない大切な道具。鍛冶屋はそれを作り出したり、打ち直して機能を長持ちさせる職業で、農家とは密接な関係にある。」

「鍛冶屋にとってなくてはならない道具がフイゴ。火を起こし、風を送る。鉄工所を営む鍛冶屋はフイゴの前に神棚を用意して、里、山、海の幸の他に7品の神饌を供えた。フイゴを神のように見立てて「一年間、鍛冶仕事で家族を支えていただいたお礼と次の一年も商売繁盛になりますよう」手を合わせ感謝の気持ちを込めて祈願する。仕事場の四方や道具に洗米、塩、お神酒を撒いて、神式に則り2礼、2拝、1礼で拝んだ。」で締めた。

掲載された新聞記事文は無駄をそぎ落として読みやすくなっているのがよくわかる。

フイゴの祭りは昔も今も変わらずに続けてきた。

神饌を並べてローソクに火を点ける。

その前にあるのが野鍛冶師の仕事場。



フイゴ道具がある火床を祭る祝詞は神式に則り、「かけまくも十一月八日は、鍛冶職人のふいご祭りとして、ふいごの神様、火床の神様、金床の神様、もろもろ道具の神様。昨年十一月八日より本日まで、火難と災難なく平穏な一年を過ごさせていただき、誠にありがとうございました。また、本日より来年の十一月八日まで、火難なく大難を小難、小難無難にお守りくださることと、一家の商売繁盛と家内安全を賜りますよう御祈願申し上げます」を述べた。

ところで今回の取材である。

願っていた写真家のKさんは急遽入った仕事の関係でやむなく断念。

それとは関係なくもう一人の客人が取材に来るという。

現れた客人は本物の新聞記者であった。

記者は朝日新聞社の古澤範英氏。

FBでのトモダチの一人になる古澤氏は現役記者。

後日の11月27日に発行された記事を読ませていただいたら、さすがに構成が上手いなと思った。

しかもだ。朝日新聞はデジタル化されてネットでは動画も拝見できる。

シンプルな纏め方に、カン、カン、というか、トン、トン・・・一日千回。

坦々としている情景がとても素敵だと思った。

同じような表現はここではできない。

と、いうよりも、野鍛冶師が新聞記者に説明しながら野鍛冶をしている行程を撮ることに専念した。

記録した160枚余りの写真を選別。

この写真は産経新聞に取り上げることのなかった(※)印の<参考 工程概略>に沿って公開することにした。

1.炉とも呼ばれる火床(ひどこ)の火起こし。



  火起こしの燃料であるコークス(昔は松炭)を入れて着火する。



2.鍬の磨り減った部分に軟鉄を補充し火床で焼き金床の上でハンマーを打ち、平らにする。



3.ハガネを鍬先の幅に切断して取り付ける。

4.取り付ける接合剤は鉄鑞(てつろう)粉。

  鉄鑞は硼砂(ほうしゃ)やホウ酸、ヤスリ粉が用いられる。

5.火床(ひどこ)から焼けた鍬を取り出して、ハンマーで叩くと火花が散る。

  この火花は鉄鑞粉が焼けて飛び散っている証しで一回だけ発生する大火花(1,000℃)。

  この工程を<仮付け>という。

6.更に鍬を焼いてハンマーで叩く。



  これを<沸かし付け(本付け 1,200℃)>という。

7.もう一度同じ工程を踏んでハンマーで叩き鍬の形を整える。

  これを<のし打ち>といい、6回ほど繰り返す。

8.冷ました鍬をグラインダーとヤスリで仕上げる。





9.鍬の先を火床で焼き、水槽の中に入れ急冷する。(焼き入れ行程 800℃)



10.粘りを与えるため鍬先の鋼の部分を火にあてる。(焼き戻し行程)



11.ラッカーで色付けをした後、鍬に柄を付ける。(完成)



(H28.11.11 EOS40D撮影)

切干ダイコンの天日干し

2017年07月14日 08時41分36秒 | 民俗あれこれ(干す編)
天気が良い。

明るい日差しを浴びる朝。

杏町からラ・ムー京終店に向かう道は岩井川の川筋沿い。

ならまちへ向かうとき、最短にある道はよく利用する。

ここを通るたびに意識する白いもの。

平成19年の2月3日のことだった。

北側にあるお家の塀の前。

戸板を並べて干していた。

車を停めて撮らせてもらった白いものは切干ダイコンだった。

細く短冊状に切ったダイコンを並べて天日干し。

燦々と照る太陽の恵みを浴びて色もつく。

こうして作った切干大根は売り物だった。

作っていた男性に話を伺ってわかった切干大根は奈良の三条通りにアンテナショップに出していた。

わざわざ買いに行ったこともある。

ずいぶん前のことであるが、ここを通るたびにそのことを思い出す。

当然ながら夏場は見られない天日干し。

寒風が吹く晴天の日に干す。

たしかそう話していたと思う。

いつしかその光景は再び見ることはなかった。

あれからほぼ10年も経つ。

畑作もやめはった。

そう思っていたこの日。

思わず急ブレーキを踏み込んで停車した。

再び目にした切干大根に感動する。

戸板は当時と違って桟のある蚊除けの網戸のように思える。

風が吹けば通り抜ける網戸。

さらしに天日。

滅多に見ることのない光景にシャッターを押した。

※HPに掲載していた当時のコメントは「光り輝く白い絨毯。自家栽培ダイコンを天日干しにして切干ダイコンを作っている。ダイコンを細く切り短冊状に仕立てあげ、二日間寒風に干したのち、蒸してさらに四日間(晴天時は三日間)天日で干す」と書いていた。

(H28.11.11 EOS40D撮影)

ウマシガキは美味し柿

2017年07月13日 09時39分04秒 | もらいもの・おくりもの
干した柿は3週間後の30日に食べた。

二日前、亥の子行事に訪れた大阪能勢町天王区で貰った柿を自宅で干した。

四角い箱の蓋に穴を開けて紐を通す。

そこへ貰った柿を置く。

ただそれだけである。

それをどこに干したか・・・。

愛車を停めている我が家の駐車場。

雨が降っても濡れないような場所に吊るす。

それからの3週間。

霜は降りても駐車場は屋根がある。

大風は吹かなかった。

何も手をくわえることなく、吊るしたままで放っておいた。

この柿は甘柿でなく渋柿の「ウマシガキ」。

熟々になれば食べられる。

何日かかるかわからない。

その日の天候、気温などでデキ具合もかわる。

3週間も経てば忘れてしまうが、野鳥も気がつかなかったのか、丸々肥えた「ウマシガキ」。



手で触ればグニャグニャ。

指で押したら潰れてしまいそう。

これが食べごろサイン。

手で持つだけでも潰れそう。

大事に移した手の平にぽっこり乗る。

どういう具合にして食べてみようか・・。

フォークやスプーンを持ち出して皮を突っつこうと思った。

いや、待てよ、である。

柿のヘタはしっかりついている。

ヘタは食べられないから、もぎ取って外してしまおう。

そう思ってヘタをもってぐっと引っ張った。

見事にヘタのすべてが離れた。

その勢いかどうかわからないが、数センチ幅の皮もくっついて剥がれた。

そこに口をもっていった。

ちゅるちゅる吸い込んだ。

トロトロになった甘い柿がずずーっと吸い込まれた。

口の中への踊り込み。美味い、旨いの二言、三言・・。

柔らかい皮も吸い込んでいまうが、口の中で舌が選別して吐き出す。

言い方は悪いが、選別して除けるということだ。

甘くなるとは聞いていたが、想像以上の甘さに感動する。

柿は堅くないと食べないおふくろとかーさんにはこの味覚はわかんないだろうな。

(H28.11. 9 SB932SH撮影)
(H28.11.30 SB932SH撮影)

楢町興願寺の十夜

2017年07月12日 09時23分22秒 | 天理市へ
その昔は十日間。

今では一夜の法会に移った十夜。

収穫の喜びに仏さんにお米を供える。

今ではお金になった仏餉袋(ぶっしょうふくろ)に入れて本尊に供える。

かつては本堂で十夜に百万遍数珠繰りをしていた。

足腰の関係で座椅子を導入したときにやめたという本堂は天理市楢町の興願寺。

これまで寺行事を取材させてもらったことがある。

一つは平成26年5月8日に行われた薬師堂の薬師法会である。

もう一つは同薬師堂に供える民間信仰の冬至カボチャ御供だ。

供えた冬至カボチャが気にかかって訪れた同年の12月22日

いずれも薬師堂の行事・信仰であるが、興願寺が関与している。

薬師法会は興願寺住職が法要を営まれるし、法会をする薬師堂にはカボチャそのものにカボチャを練り込んだモチ御供もあれば、薬師講を摂待する場は本堂。

そこで講中はカボチャモチを入れたすまし汁をよばれていた。

尤も楢町には楢神社がある。

神社行事は2月に行われる火舞神事御田植祭に4月の春季大祭に訪れたこともあるから馴染みの人たちもおられる。

前置きが長くなってしまうので十夜に戻そう。

十夜につきもののふるまい料理がある。

これまで天理市南六条町の西福寺、大和郡山市額田部町の融通寺、同市白土町の浄福寺がある。

拝見はしていないが大和郡山市横田町の西興寺もふるまいがある。

これらはいずれもふるまい料理が小豆粥である。

白土町の浄福寺で行われたときは小豆粥の作り方を教わったことがある。

小豆粥の色をだすのにどれほど苦労があるのか。

あらためて知った日でもあった。

楢町興願寺の小豆粥はササゲ豆で作る。

料理人は興願寺住職の奥さん。

婦人たちの支援もあって作る小豆粥は一回、二回、茹でた汁を上のほうから落として空気に触れさす。

空気にさらすことによって酸化させる。

そうしないと良い色が出ないという。

まさに白土町で拝見した通りの作り方である。

ちなみにお供えもササゲ豆。

尤も豆そのものを供えるわけではなく料理した飯御供である。

ササゲ豆を入れて炊きあげたアカメシ御供である。



檀家さんたちに持って帰ってもらうのに、パックに盛って供えていた。

もう一つのお供えはコンブやエリンギにコーヤドーフとかチンゲン菜を立てた御膳である。

チンゲン菜は紅白の水引括り。

エリンギはあちらこちらに飛び出す火のように組んでいる。

私はそう見えたが・・。

コーヤドーフは水平置きに組み合わせた石段であろうか。

コンブは扇のように広げたものが3枚だ。

これは住職がこしらえたもの。

どこもそうだが立てて供える生御膳は決まりもなく住職の創意工夫。

仏さんの一年間のお礼に立てたと話す。

他の宗派は拝見したことがないのでどうともいえないが融通念仏宗派の十夜はどことも立てる生御膳であった。

時間ともなれば男女大勢の檀家の人たちがやってくる。

それまでに拝見したい鉦がある。

写真左にある鉦に刻印があった。



「興願寺什物 奥出家先祖代々法界 施主奥出楢吉」とある銅製の大きい鉦。

楢町に生まれた人は「楢」の一文字を貰って名前をつけたという。

この事例は結構多いらしい。

大正十四年弐月、「楢節約規程」に署名した人の名に「楢司」、「楢蔵(5人)」、「楢治郎(2人)」、「楢次郎」、「楢熊」、「楢市(2人)」、「楢石(3人)」、「楢太郎」、「楢松(2人)」、「楢吉(3人)」、「楢三郎」、「楢太郎」、「ナラエ」である。

女性の名前は数人あるものの総勢90人中に24人。

約3割近くもある「楢」地名を授かった名前である。

右側にあるもう一つの鉦も伏し鉦は直径20cmばかり。



「和州楢村薬師堂住物 也由西置 宝永六己丑(1709)歳佛生日 堀川住筑後大掾常味作」の刻印がある。

宝永二年であるが、同名作者の鉦が滋賀県草津市芦浦町観音寺に併設する安国寺にあるそうだ。

なお、同名作者の鉦は天和二年(1683)から享保十九年(1734)ごろまであるらしい。

京都で活動していた鋳物師は数々。

そのうちの一人であるが、50年間もの期間に亘っていることから名代を継いできた鋳物師だったことが伺える。

およそ30人もの檀家衆で席は埋まった。

男性は7人。

圧倒的に多い女性に囲まれた。

始まりの合図に鐘を連打で打つ。

安置する本尊、脇仏にローソク火を灯す。

そして、線香も火を点けてくゆらす。



正面、ご本尊さんの前に掲げた来迎図。

住職が云うにはそれほど古くはないという中央が本尊の天徳如来の十一尊来迎図。

本尊の周りに十尊の姿を配置する。

掛図を納めた御箱も丁寧に奉られる。



二つあるのはもう一つが阿弥陀さんの掛図。

たまに虫干しをするというから一度は拝見してみたくなる。

鐘はもう一度打ち鳴らしたら住職の入堂である。



唱えるお念仏が始まって間もないころから焼香が動いた。

廻ってきたら焼香して手を合わす。



両手にそれぞれもつ撞木。

その両手で同時に打つ伏せ鉦の音色が堂内に響く。

そして、回向。

先祖代々の回向。

回向する先祖さんを詠みあげる。

数えていたが途中で諦めたくらいに多い。

午後7時から始まった十夜の法会はおよそ1時間。

融通念仏勤行のお念仏は香偈、礼文、三礼、懺悔、三帰、七仏通戒、総願、別願、十念、開経偈、真身観文、光明文、別回向・・・。

ゆったりとした時間が流れる。

仏餉献上された人たちの名前も詠みあげてご本尊に献上する。

ローソクもお供えなども献上者の人数は多い。

そして般若心経。



五穀豊穣、交通安全なども祈願されて、住職の法話。

ほぼ2時間の十夜は〆に心込めて作った。

ササゲ豆で作った小豆粥をよばれる。

ササゲ豆の色は赤色。

粥も赤い色。

赤は魔除けの色という中国古来のより伝わる食べ物。

これを十夜粥と呼ぶそうだ。

法会の片づけをして本堂に設えた長机。

人数いっぱいが座れるように設営できたら炊事場から急いで運ぶ。



大鍋いっぱいにあるササゲ豆の小豆粥をすくって椀にいれる。

手早く椀にいれては本堂に運ぶ。

漬物ではないが、ダイコンを千切りして作った和え物が小豆粥とマッチしてとても美味しい。



「何杯も食べてや」と云われるが、我が家に帰れば晩飯もある。



少しだけと思いつついただいたらお腹は満腹になってしもた。



食べていた場所におられた4人の婦人は楢町ではなく奈良市の窪之庄だった。

こちらに来られたのは、大和郡山市の井戸野町も関係するが、住職が寺応援している奈良市の窪之庄町行事でお世話になっている窪之庄町の檀家さんだった。

檀家さんと共通する話題といえば窪之庄で田植え作業を取材させてもらったH家である。

奥さんは大好きな写真撮り。

コンテストにも応募されて数々の入選作がある。

そういえばHさんの名前を記した農具があった。

窪之庄でもなく楢町でもない。

東山中になる室生の染田である。

農鍛冶師が注文を受けた数々の農具の中にHさんの名前があった。

タケノコ掘りの道具であった。

そこでまさかの出会いもあれば、楢町興願寺で出合った婦人はH婦人のお友達。

ご主人もよく存じてというから世の中狭いものだと思った。

(H28.11. 8 EOS40D撮影)