マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

わが家のヤマノイモ

2017年07月11日 08時53分51秒 | 我が家の花
ふと下を見れば親指ほどの太さになったヤマノイモの実が中庭に落ちていた。

見上げてみれば黄色い葉っぱに黄色い枝にちょこんとついたムカゴがある。



落ちていたムカゴの大きさとほぼ一致する。

ムカゴの出来始めは真夏だった。

葉っぱは青々していた時期である。

球形に近い丸型のむかごは今よりももっと小さい。

むかごの実があるということは花が咲いていたはずだが、気がつかなかった。

それにしてもだ。

我が家のヤマノイモにタネが見つからない。

(H28. 8.15 EOS40D撮影)
(H28.11. 8 EOS40D撮影)

わが家のセンリョウ

2017年07月10日 09時36分30秒 | 我が家の花
いつの間にか真っ赤な実になったセンリョウ。

実があるということは花が咲いていたと思われるが、その存在は未確認。

いつの間にか、という具合だ。

赤くなるまでの実は濃い緑色。

どちらかといえばモスグリーンか。

それにやや青みがあったような記憶はあるが写真を撮っていないから断定できない。

我が家にセンリョウがあったことはすっかり忘れていた。

センリョウは低木。

正月用に買ったものなのか、それとも鳥がタネを運んできたのか・・。

いつのまにか中庭にあるのだ。

葉っぱも枝も伸びていた今夏。

春はそうでもなかったが、夏から秋にかけて大きく育ったような気がする。

こうなることがわかっていたら撮っておいたのにと思うが今更である。

ちなみにネットで調べてみたセンリョウの花は小粒の白い花。

茎の先に穂状の花をつけるらしい。

センリョウの花は白い小粒の小さな花。

その様子をFBでNさんが伝えてくれた。

6月ころに咲くと・・・。

(H28.11. 8 EOS40D撮影)

南山城村北・南大河原の民俗探訪

2017年07月09日 09時53分20秒 | もっと遠くへ(京都編)
昨年の11月3日に訪れた京都府南山城村の田山

そこで聞いた堂山の観音寺で正月初めのオコナイ行事である。

宮本座・中間(ちゅうげん)座の二座の長老オトナ衆が参集される村行事。

オコナイ行事の途中で作法されるランジョ-がある。

ランジョー作法に叩く木の棒はヤマハゼ。

いわゆるハゼウルシのことである。

仏事の行事であるが、諏訪神社の宮司も参列する神仏混合の行事は数年前より中断中であると聞いた。

中断される前に行っておきたかった観音寺のオコナイはもっと前に知っていたが、地域もわからず手ぐすね引いていた。

教えてくださったのは天理市福住の下ノ坊でお会いした住職である。

住職は田山の観音寺も出仕されていたから存じていたのである。

が、時すでに遅しであった。

ネットで調べていた田山のオコナイ。

そのときに知ったもう一カ所のオコナイ。

場は南山城村の北大河原の春光寺。

たまたま出現したネットに檀家総代がハゼの木を伐りとってきてごー杖を作るという記事だ。

寺住職はごーさんの札に墨書する。

集落の子どもたちがお堂の縁を青竹で叩くランジョーの作法である。

また、場所は不明であるが、同南山城村のどこかでキツネの施行をしているようだった。

キツネの施行は大寒入りの日か、大寒期間中におこなわれるのかどうかわからないが、村の老人会がしているような記事だった。

そのような行事があると写真家のKさんに話したら是非ともとお願いされる。

お願いされてもどこであるのか、廃れている可能性もあるけど・・・と伝えたら、それでも行ってみましょうの返答にとにかく出かけてみることにした。

カーナビゲーションにセットした京都府相楽郡南山城村北大河原。

行事場はわからないから中心部をセットして車を走らせる。

田山から道を下っていけば北大河原にでる。

だが、北大河原はどのような地形になっているのかわからない。

とにかくカーナビゲーションが示す道に沿って走らせる。

最初に示したのは川の向こう岸。

欄干も何もない石造りの沈下橋を渡る。

ここはどこなんだ。



その場に観光マップと思しきものを掲示していた。

在所は笠置町の飛鳥路のようだが、集落がどこなのか。

調べる時間的な余裕もなく場を離れるが、渡ってきた沈下橋は「潜没橋」と書いてあった。

ここより東に数キロメートル走ったところにあるのが、南山城村役場のある北大河原のようだ。

そこを目指して走るが新道のトンネルに入り込む。

そこを抜けても大河原が見当たらない。

だが、カーナビゲーションは月ヶ瀬口を示す。

その指示が誤りだとは気にもせずに走らせる。

これはあかんと思ってUターン。

和風レストランがある辺りになればあっちやと示すカーナビゲーション。



指示は山の中。

そうか山中にあるのだ、と思ってくねくねと急勾配の山道を登っていく。

えー加減に集落でもと思ってみてもまったく出現せず諦めた。

そのころに電話がかかった。

Kさんはそれらしき処に着いたという。

神社があって線路もあるというからまったく違う処を目指していたようだ。

もしかとすれば新道を走っていたためか。

そういえばトンネルを走っていら場所は道なき道の空中を飛んでいるようだった。

つまりは完成したばかりの新道はカーナビゲーションに反映されていない。

そのトンネルは潜らず地道が北大河原。

細くて急な坂道を下っていけば神社があった。

そのすぐ傍に駐車場。

ようやく出会った地は国津神社がある北大河原だった。



とにかくお寺はどこにあるのだ。

神社下の処に数人の男性がU字溝の工事をしていた。

なんでも排水を良くするための工事であって職人さんと思えた人は国津神社の宮総代だった。

オコナイを調べていると聞けば、そこが智山派の春光寺。

私たちもオコナイをしているという。

神社行事でもないが、北大河原には山の神行事があるという。

今年は12月10日にするという山の神行事は午後6時に集まった子どもたちが村を巡ってお米集めをしている。

それは昔のことで今はお金集め。

タイショウと呼ぶ高校1年生の子どもが年長者。

およそ2時間もかけて村全戸を巡る。

全戸という戸数は120戸~130戸。

相当な戸数である。

すべてを廻り終えたら国津神社にやってくる。

神社では3人の宮総代が大釜でカヤクメシを炊いておく。

昔は集めたお米で炊いていたが、現在はお金だからそのお米ではなく神社経費から捻出している。

集めたお金は子どもたちが分配してもらって帰る。

戸数が多いから相当な金額になるようだ。

国津神社のマツリに樽御輿が登場する。

獅子舞も出ているというくらいだから賑やかな状況であろう。

ちなみに南大河原だと思うがイノコの貼り紙があったような・・・とも。

ところで肝心かなめのオコナイ行事である。

お寺さん住職は不在であったが婦人にお話が伺えた。

来年の1月は7日になるというオコナイは本来の日は6日であったが、副住職である息子さんの仕事の関係で近い土曜若しくは日曜にしているという。

7日は先約がある。

大阪府能勢町天王区のキツネガエリ取材を約束しているから次年度は是非ともとお願いした。

ところで副住職は兼寺地の野殿(のどの)の福常寺がある。

そこでは1月4日。

固定日になるそうだ。

寺に着いてからごーさん札に書をするらしい。

その地はダラダラ道を登りつめた処にあるらしい。

ついさっきまで走っていたダラダラ道がそうだったが野殿までは着いていない。

ちなみにダラダラ道よりも川沿いに登っていくほうが良いらしい。

ちなみに春光寺のオコナイは乱杖会の行事名になるらしい。

五つ股のハゼウルシの木は50本。

国津神社を務める村神主が天地、東西南北に向けてごーさんを突き出す所作をするそうだから神仏混合の行事である。

在所は北大河原の本郷。

子供会の案内状には“えんたたき”表記をしているという所作には使う道具は竹のようだ。

北大河原のだいたいがわかってきた。

そこで次の目的地である南大河原に方向転換。

神社はどこに鎮座しているのか。

集落入ったところの民家に人が居たので尋ねてみる。

昭和18年生まれの男性は3年間務めた氏子総代から宮守に区長、老人会の会長を務めてきたという。

特に宮守は夫婦揃っていないとなれないそうだ。

南大河原の神社は10月28にゾーク(造営)をした。

20年に一度のゾークに夜の8時から翌朝の7時までが下遷宮。

仮宮におられた神さんは上遷宮の儀式で戻られた。

もとは古森と呼ばれた地であったが、江戸時代末期の元治元年(1864)、天満宮に合祀した恋志谷(こいしや)神社。

ゾークした両社殿に末社などは美しい朱塗りやから是非参ってほしいと願われて参拝する。



恋志谷神社の大祭は4月2日。



秋も大祭があり9月の2日である。

ゾークを機会に境内4カ所に分散していた山の神は纏めて一柱にされた。



イノコは11月の第一日曜日。

宮守がお供えをする。

中祭でもあるから神饌もんも供える。

10月21はトーヤ(当家)がお供えをすると云われたが何の行事であるのか聞きそびれた。

12月10日はお釜で炊いたゴク(御供)さんを椿の葉に乗せて供えていた。

供える場は3カ所。

それが山の神であったろう。

16時にだんどりつけて19時にお供え。

22時までには50戸(実際は48戸)余りの集落を「ヤマモリやー」と声を出して一軒、一軒巡る。

巡っては下げた御供を分けた2班で配っていた。

当時は4、5人もいたから2班。

4組からなる集落全戸を巡って配っていたが、現在は総代が配っている。

ゾークがきっかけになったのか、大幅に改正した行事名は「ヤマモリ」

充てる漢字は「山守」である。

供えるのはもう一品のアブラゲメシもあった。

それは当番の人が食べていたらしい。

椿の葉を供える場には細く細工した竹串で建てた。

籠り所で白ご飯を食べていたという。

他にも山の神さんに供えるのは東組だとか、重箱にご馳走を詰めてお参りするとか、また組長は12軒、隣家にオシラスがあったとか断片的な情報で線が繋がらない。

具体的にどう動いているのかわかり難かった。

実際の様相はその日に来て拝見するしかないだろうと思った南大河原の昔に太鼓踊りがあった。

正月の時に踊り子の衣装を貸したことがあるというO家は天保年間(1830~)まで遡るらしい。

(H28.11. 7 SB932SH撮影)

能勢天王区の玄関飾りの民俗

2017年07月08日 09時31分08秒 | 民俗あれこれ
長時間に亘って亥の子行事に滞在していた大阪府の能勢町天王区に見る玄関の民俗。

干し物もそうだが、すべての家がしているわけでもない。

亥の子行事に巡る天王区の各家。

亥の子の取材のときにふと目がいく玄関の上である。

奈良県内においても何カ所かの民家で特別なものを拝見することがある。

なかでもお札を収納する札入れがある。

一年間もそこで保管してトンドに燃やす。

燃やして天に帰ってもらいということだ。

神さんではないが、奈良県内でよく見るのは八十八歳祝いのシャモジである。

屋内側の玄関には手形を押した紙を貼っている家は結構ある。

ここ天王区で見かけたモノはなんであろうか。

うち一軒は獅子頭に飾り付けする黄色い菊の花をどっさりくださったK家である。

これは何なのか。

注連縄にしては見たこともない形態だ。

丸い注連縄は伊勢のゲーター祭を思い起こすが、もっと大きくて海へ流すものだ。

お家の玄関に掲げている藁作りの輪っかは尋ねて見なければ・・・と思って、同家の婦人に聞く。

答えははっきりとはわからないという。

いつの時代か覚えていないが、家の男性がお正月にかけたそうだ。

男性はお爺さんか旦那さんなのかわからない。

いつの間にかにあったという。

なにかの神さんのおまじないでしょう、という。

もう一軒に見つけた玄関の民俗。

形は屋根有のヤカタ風である。



「除疫病 三十番神 無量神」の文字が鮮明に読める。

たしかH家だったと思う。

「本」の字もあったから本家であろう。

帰宅したからネットでぐぐってみた「除疫病 三十番神 無量神」。

三十番神」は30日の毎日を交替して守護する三十柱の神々。

神仏混合思想に基づいた法華経守護の三十神が著名らしい。

初めに天台宗の最澄伝教大師が比叡山に祀ったのが最初で、後に日蓮宗・法華宗で重視されたそうだ。

(H28.11. 6 EOS40D撮影)

能勢天王区の干しもの

2017年07月07日 09時02分14秒 | もっと遠くへ(大阪編)
長時間に亘って亥の子行事に滞在していた大阪府の能勢町天王区でいくつかの干し物が見つかる。

奈良県内にも見られるが特徴的なものがあるのか、ないのか。

なかったとしても写真を撮っておく。

干し物をしている人はほとんどが女性。

それも高齢者である。

二十歳そこらとか、三十歳代でされている方は非常に少ない。

もんぺではないが、時代とともに廃れていく可能性がある。

そう思って記録しておく。

午前中の花集めの際に見つけた干し物は軒先に吊るした柿である。

何の変哲もない干し方であるが、夕方から始まった亥の子の巡回に同家もやってきた。

ふと見れば玄関脇に剥いた皮を干してあった。



瑞々しいからこの日に剥いたのであろう。

亥の子の子どもたちに祝儀を手渡した男性に話を伺う。

実は軒先に吊るしていた柿は男性がそうしていたという。

剥いた皮はこうして広げて天日干し。

この日の天候は曇天だったが干していた。



皮の使い道は・・。

その答えは漬物である。

吊るし柿は干してから数日間の経過をみて下ろす。

粉がふいたら甘くて美味しい吊るし柿になる。

皮は捨てることもせずに漬物にする。

はじめて知る再利用であるが、皮そのものの漬物ではなく、大根などの漬物をする際に干した柿の皮を放り込んでおくと甘くなるというのである。

漬けた大根の色具合もよくなるし防腐剤と同じような効果があるそうだ。



そこから数軒向こうの家は玄関横にスライス切りした生柿を干していた。

ザルに広げた輪切りの柿は天日干し。

何日間も放っておくと甘くなる。

柿一個丸ごと干しておいたら柔らかくなる。

とても柔らかくなったらうましガキ。

いわゆるずくし(熟し)の柿は食べられる。

これ、あげるから持って帰れと云った高齢夫妻。

ありがたく受け取って、数日後の我が家の駐車場屋根に干した。

吊るしではなく箱の上蓋にちょこんとのせてだ。

ほしてから3週間後。

渋柿の「ウマシガキ」は、ずくし(熟し)になった。

ご夫妻が云われた通りに干していたらできあがった。

とても美味しかったことをここで報告しておく。

そこから数軒出向く。

またもやあった柿の皮干し。

これもまた瑞々しいからついさっきに干したのであろう。

皮は長目に切っていたから針金に引っかけるように干していた。

干し方はお家によって違うのもわかった。

もう一つの干し物はトウガラシである。



私は昔から、というよりも子どものころから「トンガラシ」と呼んでいる。

トウガラシの名であれば青い鞘のイメージがある。

トンガラシは辛い。

辛いトンガラシは赤い。

そう使い分けてきたのかな・・・。

ビニールハウス室内に獅子頭の牙になるトウガラシを吊っていた。

亥の子の行事に欠かせないトウガラシである。

その室内にもう一つの干し物があった。



一つは竹で編んだ器。

もう一つは新聞紙を広げたところに広げて干していた。

何日か経過してから莢を取る。

バリバリに乾いた莢は叩けば弾ける。

そうすれば中から黒豆がでる。

いわゆるマメオトシの作業をして豆の実だけにする。

たぶんにそうだと思う黒豆はお正月の祝いの料理に使われるはずだ。

(H28.11. 6 EOS40D撮影)

能勢町天王区の亥の子

2017年07月06日 09時29分58秒 | もっと遠くへ(大阪編)
昔は12月の亥の日が行事日だったという大阪府の能勢町天王区の亥の子行事。

夕方の6時に出発して村全戸を巡って亥の子をしていたという。

子どもたちが勝手に集まって廻っていたが、今では子供会が中心。

勝手といっても子供たちの年長者が号令をかけて、どういう具合にして廻るか、相談の上で決定していたのであろう。

ただ、育ってきた時代によっては方法も違っていた可能性がある。

そのときおりの年長者の考えもあって変化があったと推定できるのは、奈良県内の子どもが主体の行事を取材してきたのでよくわかる。

わかると云っても村の在り方は区々である。

住んでいる地理的環境もあれば受けてきた教育関係の影響もあろうかと思う。

奈良県内はもとより県外の民俗行事をみているとそう思うのである。

民俗はあるべき論ではなく地区それぞれの生活文化によって区々なのである。

能勢町天王区の現在の亥の子行事は子供会が中心。

午後4時ころに神社か公民館に集まってそこから出発すると情報を掴んだ写真家Kさんとともに取材する。

村の全戸を巡る亥の子行事。

その前にしておかなければならない作業がある。

亥の子の道具にサンダワラで作った獅子頭がある。

先立つのはサンダワラに飾るお花の摘み取りである。

二枚のサンダワラに摘み取ったお花で全面を覆うようにして作る花飾り。

材料は野草でなく、村の人が庭などで栽培しているお花である。

この花を集めることから始まるのだ。

実は能勢町の亥の子は始めての取材ではない。

先に訪れていたのは平野区の亥の子行事だ。

元会社の若手職員が村に戻って暮らす平野区。

親父さんの代を継いだ職人だ。

彼が生まれ育った平野にイノコ行事がある。

数年前までは天王区と同じようにサンダワラで作った獅子頭があった。

獅子頭を作るにはサンダワラが作れる人がいることが条件。

その条件が崩れてやむなく木で作った獅子頭。

彼が作った獅子頭で継承していたのである。

天王区では未だ健在のサンダワラ作りの獅子頭がある。

また、正月明けにはキツネガエリと呼ぶ子どもの行事がある。

その二つの行事を拝見したく訪れた天王区である。

到着した時間帯はにわかに黒い雲が一面に広がっていた。

天気予報は見ていなかったが、週間予報では毎日が晴れマークだった。

強い風に煽られて木の葉が舞う。

小雨混じりの風が吹く。

気温は10度以下である。

帰宅してからかーさんが私に云った寒さ。

奈良県内もとても寒かったという。

奈良市内の最低気温は8.5度。

最高気温でも15.8度である。

寒いといっても上限は15度もある。

10度を切るような気温であれば、もうたまらない。

それが突然にやってきた。

予報を覆す寒さは標高とも関係する。

標高が300mになるという大阪府豊能郡能勢町。

大阪府の北の端になる。

しかもだ。

天王区へ行くには天王峠越え。

とても寒い地域だと能勢のショッピングモールの店員さんはそう云った。

天王区に着いて神社の所在地を確かめる。

ここら辺りと思って来てみたが、さっぱりわからない。

石垣のある集落民家前の田んぼに鍬を入れていた男性に尋ねたら平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校(閉校後は平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校-送迎車で通学)の向こう側にあるという。



もうひとつ尋ねた本日行事の亥の子。

「子どもは少なくなったが、花集めからしよるからそこら辺におれば誰か来るやろ」と云われて神社を探す。

神社はすぐに見つかる。

鳥居を潜って石段を登る眼前に迫る建物が特徴的だ。

奈良県内にはこのような構造物はないように思える。

はじめてみる構造物はなんであろう。

裏側に登ってみればそこはオープン形式の拝殿のような気がする。

神社は高皇産霊(たかみむすび)神社の名であった。

能勢町教育委員会が掲示する由緒書きに「推古天皇の御宇、剣尾山に月峯寺が開創されるやその奥地にあたる“天野村=天王村”に“奥の院”として七堂伽藍が創建されたと伝えられる。さらに宮ノ尾には“大梵天王を勧請し、村の産土神として祭祀された。伝えるところによれば、村名も祭神の大梵天王によると云われている」とあった。

現在地に遷したのは流行り病の疫病によって村は半滅、高僧の神勅によったものだ。

永禄二年(1559)六月十九日にこの高台に遷座したとある。

高皇産霊神社名になったのは、明治時代の廃仏毀釈によるものだ。

正式社名はそうであるが、今でも天王神社の名で呼ばれている。



さて、珍しい構造の拝殿は表から見れば高床式の楼門のようだが「長床(ながとこ)」の名がある。

今では見ることはないが、由緒書きによれば「村の天変地異に際して神の心を慰め、神徳に報いるために芝居などを催した」とあるから、拝殿は舞台でもあったようだ。

その「長床」の屋内から天井を見上げたら茅葺構造であることがわかった。

丸棒と竹で組んだ天井裏にびっしり詰めた茅が見える。

なお、平成15年10月に土塀などを改修された記録写真がある。

展示場はその「長床」の壁面である。

子どもたちがやってきたのは午前10時。

付近には親がいないことから子どもに名刺を渡して取材目的を伝える。

花集めはタイショウと呼ぶ年長の男女が務める。

集め終わって神社拝殿で獅子頭に飾り付けをするまでは子どもたちだけで進行する。

尤も、子どもたちの話しによれば、今日の亥の子行事は子供会が伴うようである。

後ほど来るというからそれまでは子どもたちについて花集めに同行することにした。

3人のうち男女2人は天王小学校の最後の卒業生。

当時は小学6年生であったが、今は中学2年生。

もう一人の女児は中学1年生である。

亥の子の今年のタイショウは二人の中学2年生。

タイショウとは一般的に云えばリーダーである。

下の子どもたちを引き連れて行事の務めする。

タイショウを充てる漢字は大将である。

花集めから戻って神社に合流した下の子どもは小学生だ。

閉校式に出席した最後の在校生はたったの4人だったそうだ。

閉校式には参列していなかった2人の子どもも入れて6人。

その子たちだけで亥の子行事が行われる。

天王区は65戸の集落。

県道173号線の道を挟んで北東(上)・南西(下)にある。

花集めに向いている場所は決めていたようだ。

行こうとしたら先に出かけて黄色い花を採ってきた男の子。



自転車に乗って走り回っていた男の子は颯爽と戻ってきて収穫した花を二人の女の子に見せていた。

それならば、と目的の場を目指していく二人。



冷たい風が吹き抜けるこの日は寒い。

今にも小雪が舞いそうな寒さに手がかじかむ。

やや高台に建つ民家下に植栽している畑がある。

黄色い花はあるが、それは菊ではない。

もう少し行けば黄色い菊があった。

花畑には人がいない。

勝手に採るわけにはいかないので近くにいた男性に花集めの許可をもらう。

ついさっきまでトラクターで畑を耕していた男性がいった。



「そこにあるのは採ってもかまへんで」と答えをもらってから持参したハサミできって摘む。

白色やオレンジ色の花とかいろいろあるが、菊の花でないとあかんという。

菊の花は葉っぱの形でわかる。

匂いが独特な菊は鼻で嗅いでみてもわかる。

これがそうだと伝えたら喜んで摘んでいた。

働いてきたトラクターを水洗いしていたNさんの時代の亥の子は50人の子どもたちで賑やかだったそうだ。

花集めをして獅子頭を作る。

天王全戸を巡って終わったのは夜の11時ぐらいだったという56年ほど前の体験。

数年前は10人。

当時の1/5になった天王区の亥の子の子どもの人数だ。

この日は6人になるから、1/8。

少なくなったものだという。

ちなみに能勢町では天王区、平野区以外に何カ所もしているそうだ。

上山辺若しくは東山辺地区にはナマハゲがあったようだ。

ちなみに写真家Kさんが調べた地区の上山辺・東山辺・栗栖、稲地、大里に現存、継承しているそうだ。

上山辺・東山辺・栗栖、稲地は集めた菊の花を飾り付ける。

天王区と同じようにサンダワラの獅子頭がある大里であるが、菊花飾りの状況は掴めていない。

『大阪の民俗信仰』によれば大字の小吹にも亥の子行事があるらしい。



自転車で駆けずり回っていた男の子と合流した。

花集めは下の子どもはしないが、年長のタイショウらはあっちこちに手分けして集めていた。

男の子は集めた花の具合を確かめにきたようだ。

以前は茅葺家であったことがわかる民家がある。

何人かの高齢者が畑におられた。



声をかけたらこの菊は採っていっていいよと云われてハサミで切るが、白色が多い。

花は何でもかんでもえーもんでもない。

「この菊はあかんねん」といって白菊のお花を摘む。

黄色や朱色、桃色とか、飾り付けに役立ついいものを選ぶ。

そのお家の垣根に咲いていた菊の花。



真ん中に芯があるからこれは違うという。

見つけては父親に電話をして確認していたタイショウだった。

しばらく歩けばハウス内に目がいった。

そこに吊るしていた赤いトウガラシ。



どうやら予め頼んでいた花ならぬトウガラシである。

トウガラシは獅子頭の牙になる。

眼の部分や口も色や種別の異なる植物で飾り付ける。

南西(下)の地区をぐるっと巡って1時間。



「菊集めにきましたー」と民家の玄関で大声をあげて亥の子行事の花集めに来たことを告げる。

「今日はないわ」という人もおれば、「これを渡そうと待っていた」という人も・・。

この家は後者だった。

息子がもうすぐ戻ってくるからと云われて待つ。

しばらくすれば軽トラが戻ってきた。



お目当ての黄色の菊の花はどっさりある。

コトが一挙に済んだ二人は神社に戻る。

時間は午前11時半を過ぎていた。

これから始める作業は獅子頭の花飾り。

タイショウら3人だけでなく待っていた小さな子どもたちも入って飾り付け。



この作業は意外に時間と手間がかかる。

手間がかかるのは一つ、一つの花を軸から取り外し。

千切っては花をテーブルに並べる。

それを獅子頭になるサンダワラにとりつける。

縫っているわけでもなく、括り付けているわけでもない。

ましてや接着剤でくっつけているわけでもない。

軸をサンダワラに深く挿しているのである。

サンダワラは上下2枚で獅子頭の口になる。

頭全体が口になるような形である。

挿すのは女の子。

軸を千切るのは男の子。

特に決まりはないが、そうしていた。

サンダワラは子供会の父親が先週に作ったそうだ。

午後には始まる亥の子行事の道具にイノコ棒がある。

サンバイコ同様に稲藁で作ったイノコ棒はここにいる子どもたちも一緒になって作っていたという。

まだまだかかる手作業。

このまま状態では数時間もかかる。

一旦は家に帰って昼食。

休憩を取って午後4時に再開してはどうかと子供会の親からアドバイスを受けて一時的に解散する。



それより早い時間にやってきて作業を開始していた子どもたち。

目途はほぼついてトウガラシのキバもできている。



キバも眼もできあがった獅子頭が喜んでいるようだ。

獅子頭は唐草模様の胴体が必須。

タイショウが頭役で後ろは後輩の女の子がつく。

二人が演じる姿はまるで生きているかのように動く獅子。

主に頭を左右に振れば舞いになる。



大きな口広げたらガォーの声が聞こえてきそうだ。

学年下の子どもも子供会の親たちもその動きに大はしゃぎ。

かつては唐草模様の風呂敷ではなく、藁製の蓑であった。

蓑を纏ったもう一体。

赤い目のお面を被った道化役のような一体をナマハゲと呼んでいた。

今では見ることのないナマハゲは写真に残っていると子供会のO会長がいう。

ちらりと拝見したナマハゲはこれまで見たことのないような面相だ。

眼と口に特徴はある。

それ以上に目立つのはずんべらぼうのような顔。

髪の毛はないように思える。

思い出しても怖くなるナマハゲは上山辺若しくは東山辺地区にありそうなことを聞いたので一度は拝見したいと思った。

獅子舞以外の子どもたちは藁で作ったイノコ棒をもつ。

このイノコ棒には名前があるらしいが、それは他の地区。

「ツチ」とか「キネ」の名で呼んでいるらしい。

まずは天王神社こと、高皇産霊神社に向かってひと舞する。



獅子頭は左右に振りながら口をぱくぱくする。

奉納の形式なのだろうか。

「せーの」とかけ声をあわせてから「イノコノモチツキ イワイマショウ カーネガワクヤラジンガミサン オミキヲソナエテ イワイマショ」を2度唄いながら、獅子が舞い、下の子どもたちはイノコ棒で地面を打つ。

打つというのか、それとも叩くのが相応しいのか悩ましき所作である。

この詞章から考えればイノコ棒は餅搗きの「杵」である。

そういうことであれば地面は打つでもなく、叩くでもない。

「搗く」のである。

ちなみに「ジンガミサン」とは不思議な名称だ。

子供会会長の話しによれば「地神」さんである。

つまりは土地の神さん。

土地の神さんといえば産土神に想定されようが、地面を叩くことから正真正銘の「土」である。

「杵」で搗く「土」は豊穣の地。

稔りの地を叩き興して豊作を願う行為ではないだろうか。

豊作になれば「金が湧く」くらいに村の生産量を増やして五穀豊穣を叶える。

子どもたちが所作することによって村の生産は向上するのであろう。



氏神さんに向かって豊作祈願に奉納した子どもたち。

神社から下って一軒、一軒を巡って所作をする。

「こんにちは 亥の子でーす」とまずは声をかける。

玄関が開けられなければ呼び鈴を押す。

こうして屋内から出てこられた家人に「中に入らせてもらっていいですか」と伝える。

お許しをいただいたら「お邪魔します」といいながら玄関土間に入る獅子頭。

下の子どもたちは玄関前で「杵」を搗きながら「イノコノモチツキ イワイマショウ カーネガワクヤラジンガミサン オミキヲソナエテ イワイマショ」だ。

所作を終えたら家人は祝ってもらったお礼に祝儀を手渡す。

男の子のタイショウは予備の「杵」を入れた袋を運んでいた。

「杵」は打てば打つほどに壊れていく。

どうしようもないくらいに壊れたら予備の「杵」と交換する。

もう一軒、もう一軒と巡る天王の亥の子。



すべての民家に家人が必ず居るとは限らない。

不在の家であっても亥の子の所作はする。

ただ、違いがある。



不在であれば詞章は一回。

玄関は開くことはないので獅子頭は「杵」搗きと並んで獅子を舞うが、終われば「ありがとうございます」と必ずお礼を云っていた。

時間が経つにつれて暗くなってくる。

すぐ隣になる家もあれば少し離れたところにある家もある。

あっちへ、こっちへと行先は特に決まりはなく、タイショウが決めるコースである。

朝に到着したときに訪ねた石垣の家がある。

天王区に着いたものの地域勘がなかったものだから、氏神さんを祀る神社の所在地や亥の子の在り方を教えてくださったお家だ。

お許しをいただけるなら玄関土間で舞う獅子頭の様相を撮らせてもらえないかというお願いである。



石垣の前の道を行く子どもたちの姿を一枚撮って大急ぎでH家の門屋を潜らせてもらう。

実は予めに承諾を得ていた土間からの撮影である。

子どもたちがH家に着く前に先に上がらせてもらう。



奥さんは屋内に座って亥の子の祝いを受ける。

彼らは所作をし終わってありがとうございます。

私も頭を下げ、礼を伝えて退室する。

石段を下りて次の家に向かう。

集落を出発して1時間。

何十軒も巡ってきた彼らは慣れてきたものだ。



余裕十分の笑顔で亥の子の所作をする。

午後5時ともなれば辺りは夕暮れ。

曇天の日だっただけに日暮れ時間は早い。

何軒か所作をしてきたらお家の灯りが点いた。

あっという間に暗くなる。

暗くなっても明るい笑顔で所作する元気な子どもたちだ。



一番小さな男の子は小学3年生。

茶目っ気たっぷりに所作をしてくれる。

男の子のタイショウは予備の「杵」を入れた袋を運んでいた。

タイショウらしい気遣いだ。

「杵」は打てば打つほどに壊れていく。

どうしようもないくらいに壊れたら予備の「杵」と交換する。

何度も、何度も力強く地面を打っていたらえー加減にくたびれる。

持つ部分もほどけて打つこともできなくなる。

そういう状態になれば新品と交換だ。

そこからも何軒かの民家を訪ねて亥の子の所作をする。

その外れにあった建物。

暗がりに点々とライトが点いているお家だ。

そこは民家でもなくログ造りの建物でカフエを営業しているその名もわかりやすい「カフエ能勢ログ」だ。

それにしても建物が燃えるようなラインテイングにはびっくりしたものだ。

このお店も天王区の住民になるらしい。



そういうことでお店も対象に亥の子所作をする。

そういえば天王区の中央にある喫茶店にも入って祝いの亥の子をしていた。

これよりは歩いて遠い南部の地。

新興住宅地になるようで、遠くになることから自家用車で向かう。

時間帯は午後5時半も過ぎていた。

車では追いつかない。

戻ってくるまで多少の時間がいる。

それを待つのも良いが体力の限界を感じる。

ここまで亥の子をしてきたお家の数は28戸余りの北東(上)。

出合った男性がいうには村の戸数は65戸。

それはかつての戸数のようで、子供会会長がいうには50戸。

不在になった家もあって実際は46戸になるらしい。

新興住宅を含まない旧村戸数である。

新興住宅の亥の子を終えても午前中に花集めをしていた南西(下)だけでも30戸余りある。

すべての戸数を廻り終えるのは、トラクターを水洗いしていたNさんがいう午後11時までとはいかないが、ついていくにはもう限界だ。

会長ら子供会の役員さんにお礼の挨拶を告げて現場を離れた。

亥の子行事と同じように集落民家を巡っていく行事がある。

その行事の名は「キツネガエリ」。

巡るコースも同じだし、巡る子どもたちは亥の子と同じ。

同じようにタイシヨウが先導する「キツネガエリ(きつね狩り)」はかつて男の子だけの行事だった。

対象の子供は小学1年生から6年生までだったそうだ。

いつしか少子化の時代を迎えた。

子どもは少なくなるから男の子も必然的に少なくなる。

奈良県内においても子どもが主役になる行事がある。

同じように男の子だけであった、止むを得ず女の子の参加を認めた行事がある。

村の行事を継承するにはそれしかなかった。

ところが今や極少子化。

もっと子どもが少なくなっている。

外孫に来てもらって継いでいくことも念頭にあると云っていた地域もある。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』によれば小学4年生以下の子どもが対象だった。

子どもが不足するようになって保育園児も参加するようになったとある。

この日の亥の子のタイショウは中学2年生。

下に保育園児はいないが、男女の子どもたちだ。

キツネガエリに必要な祭具がある。

どうやら稲藁で作ったキツネのようだ。

それは子どもたちが作るのではなく天王区の区長が作るようだ。

集落全戸を亥の子と同じように巡って最後は祭具に用いた藁製キツネを川に流すという。

「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」というような台詞がある。

本日の亥の子にも詞章があったが、キツネガエリもある。

だいたいはそんな感じだと詞章を教えてくださったが、現実は1月7日に行われるキツネガエリを見たいものだ。

正月初めは雪が降るころ。

どっさり降ったこともあって、その場合は中止順延する。

積雪程度もあるが、翌日になる場合もときおりあるらしい。

この日の寒さを体感した天王区。

可能性は十分に考えられる。

また、亥の子にはなかったが、キツネガエリには太鼓打ちが登場する。

来年になるがスケジュールさせていただく旨を伝えて帰路についた。

(H28.11. 6 SB932SH撮影)
(H28.11. 6 EOS40D撮影)

文化の日に出かける第68回正倉院展in奈良国立博物館

2017年07月05日 09時46分35秒 | メモしとこっ!
この日に行われる年中行事は多数ある。

さすがの文化の日、と思いきや村々で行われている行事に関連性はまったくない。

文化の日は昭和23年に公布・施行された国民の祝日の一つ。

それまでの昭和22年までは明治節として明治天皇の生誕日を祝う日であった11月3日。

生誕とはなんら関係のない文化の日になった。

特異日の日ともいわれている祝日文化の日は晴れの日が多い。

統計によれば翌日の11月4日とか5日のほうが多いようだが・・・。

いずれであっても晴れの日は「ハレ」の日。

気分も抑揚するが、心の中は消沈気味で出かける気は消えた。

カメラレンズの故障もあって撮る気が起こらない。

そこへもって念願日だった村の行事は宮司とトヤの都合で日延べした。

そんなこともあって朝からのんびりしようと思っていたら思いがけないプレゼントがあった。

ご近所の方がもってきてくれた「第68回正倉院展」の招待券。

なければ一般の特別観覧料金がいる。

税込みの1100円である。

待ち行列が少なくなる時間帯を選んで出かけた。

休日、祝日の日の奈良市内、特に奈良公園辺りを通過する車路は混み合って渋滞に巻き込まれると聞いたことがある。

たぶんにそうなるであろうと覚悟を決めてかーさんとともに出かけた。

混みだしたのは県庁前の道路。

真ん中のラインは特に混んでいた。

左右のレーンは僅かながらも動いているが、センターラインはとにかくひどい。

ほとんど動きもしない。

このセンタータインは展示する奈良国立博物館の真ん前を通る。

向かい側は氷室神社。

東に行けば四つ辻。

北に東大寺南大門。

東の奥は春日大社の駐車場。

大型の団体バスが何台も並んで止まっているように見える。

この辺りから盛大に流れる音楽が聞こえてきた。

なんでも県庁前で披露されている音楽祭のようだ。

息子に電話したかーさん。

その音楽祭に学生時代の友人がバンド出演しているので聞きに行ったのである。

奈良第芸術祭の関連イベントのようだ。

そのことがあって昨夜、というか深夜に帰ってきた。

急遽のことである。

車はなんとか停められたようだが、こちらは苦戦する。

方向、進路を急展開し県営の高畑駐車場を目指す。

ここが満車であったら・・・の心配をヨソになんとか数台を受け入れてくれた。

駐車料金は前払いの丸一日の千円、営業時間は朝の8時半から午後の5時までだが、出庫は24時間営業。

奈良公園に近い駐車場は気兼ねなく利用できるので長時間滞在の観光客にとってはありがたい存在のように思える。

ここより歩いて10分にある奈良国立博物館。

すでに長蛇の列が待ち受けていた。

そこへ並ぼうとしたが、どうやら違う。

団体観覧券・奈良博パスポートなどの団体入場エリアだった。

そこからぐるっと裏側に廻ればテントを張った場がある。



入場列の最後尾を示す札を持つ職員が立つ。

たしかこの辺りだったと思う。

正倉院展を拝見するのは今回で2回目。

前回は平成18年11月2日だった。

このときももらった招待券で拝見した。

たしか新聞販売所の人からもらったものだと思う。

このときは一人で観覧した。

並んだ場所はほとんど同じだったことを覚えている。

この日のアナウンスは30分から40分待ち。

前回は1時間の待ち行列だったように記憶する。

それにしても前回はこのような案内があったのだろうか。



「この列は、観覧券・招待券・引換券・クーポン券をお持ちの方の列です」とある。

待ち行列の列は正しいが、それ以外の人って並んでいるのだろうか。

徐々に少しずつの速度で行列は進んでいく。

館に近づいてもまだまだの長蛇。

ここで入場できるのか・・ではない。

さらに三つ折れの行列がある。



やっと館に近づいたという感触にガラス窓を見れば音声ガイドの案内立て看板。

貸出料金は税込の540円。

解説があれば理解しやすいと思うが、見るのも精一杯の観覧にゆっくりする余裕はないがこの辺りから行列の足が止まった。



それから何分経過したのか判らないがぞろぞろと動き出す。

考えてみれば団体さんの入館である。

三つ折れの最終レーンに目についたミュージアムショップの営業時間。

朝の9時はわかるが、夜の8時まである。

へぇ、である。

奈良国立博物館の開館時間は午後の5時までだが、ミュージアムショップは午後8時まで。

これは正倉院展会期中のさらなる特別対応に開館時間の延長があるようだ。

奈良国立博物館のHPを探してみたが「延長」日はいつなのか判らない。

探して、探してあった延長日は「展覧会カレンダー」にあった。

黄色やオレンジ色のマークはほぼ毎週の金曜日、土曜日だった。

午後2時20分から30分後の午後2時50分。

長い行列を経てようやく入館する。



館内は大勢の人たちで展示物に群がっていた。

展示物を見るには近寄らなければ見られない。

ふっと隙間が空く。

そこへそっと移動する。

ルーペというか目が老眼なものだから大きな文字は読めても小さな展示物はまったく見えない。

飾りがどんなんになっているかまったく実物が見えない。

それを拡大した写真で見るしかない。

観覧者の一部では遠眼鏡で見ている人がおられた。

これは良いだろな。

今回の展示でイチバンの印象に残ったのは大きな幡の残欠である。

他に銀平脱龍船墨斗、唐草文鈴、牙櫛、撥鏤飛鳥形などだ。

前回に観覧したものは特別な意味があった。

展示物の唯一の印象は私の名前(眞人)が古文書にあったことだ。

その文字を見つけたときは感動したものだ。

以前に勤めていた情報処理会社。

若い時、まだ二十歳代だったころに人生の先輩でもある嘱託員のSさんが云った言葉は今でも思い出す。

「田中くんの名前は日本書紀にも載っているぐらいの由緒ある名前だよ」と云われていた。

まさに、その通りに見つかったが、古文書がなんだったかメモってもいなかった。

今回もメモっていないから記憶から消えていくだろう、と思った。

館内滞在時間はトイレ利用もいれておよそ50分。

それにしても外国の人の姿はまったく見なかったように思える。

(H28.11. 3 SB932SH撮影)

かっぱ寿司柏木店の回転寿司

2017年07月04日 09時47分59秒 | 食事が主な周辺をお散歩
先月だったか、盛んにテレビでコマーシャル映像を流していたかっぱ寿司。

目玉商品はこれまでなかった特別な寿司。

その名も祭り寿司。

特徴ある祭りにその姿をにぎり寿司に仕立て上げた。

見事な出来栄えに新装したかっぱ寿司に一度は味わいたいと思っていた。

実はこれまでまったく入ったことのないかっぱ寿司。

ネーミングからしてなんとなく二級品のイメージがあったのだ。

ところが全国にはかっぱ寿司のファンが多いことを知る。

が、である。

くるくる回る外食産業の代表格ともいわれている回転すしチェーン店は大手に数社。

二番手はぐっと開けられているとテレビや新聞が報道していた。

かつてはテレビからしょっちゅう流れていた「かぁっぱ、かっぱ、かぁっぱのマークのかっぱ寿司~♪」とかなんとかの歌詞を延々と繰り返していたコマーシャルソング。

聞き覚えだから間違っているから正しくはないかと思うが、味わったことがない。

いつのまにか業界トップとは言わないが二番手以下になったとかほうそうしていたような気がする。

そのころより少し前か。

コマーシャルソングはテレビから消えていた。

元気寿司と経営統合するような話題もあったが・・・。

そんなことよりいかに商品開発にしのぎを削る、か、である。

その目玉が祭り寿司。

奈良では柏木店にラ・ムーもある二名町の2店舗。

いずれも近くにある。

この日は昼までに歯医者の通院。

かーさんも治療することになった。

歯が綺麗になったら新しいものを食べたい。

そう、思ってこの日は久しぶりの外食。

我が家の昨今ははま寿司。

美味しいという声がでれば出かける。

幾たびか、出かけては食事するはま寿司のネタに飽きてきた。

毎月だったか新聞とともに配布されるチラシに今月の特別メニューとあるが、最近は新鮮味を感じない。

いつかチャンスがあればかっぱ寿司と思っていた。

その巡りがやってきた。

場所、時間、方角などから選んだ店は柏木店。

駐車場は広いので余裕をもって停められる。

案内された席について早速の品定め。

680円の平日サービスランチに飛びつきたい。

かけうどんがついて680円でにぎりが10巻ほど。

食欲を満たすだけの初回に次回まわし。

回転寿司チェーン店で今流行りの麺類もある。

これは写真だが、いずれも288円の特製魚介だれたっぷりネギ油そばや同じく特製魚介だれピリっ辛肉油そば。



食べたいが塩分含有量はどこにも書いていない。

辛いが遠慮する。

ちなみにかっぱ寿司のHPによれば10月の発売皿数ランキング一位は愛知はだか寿司。

二位は長野御柱祭寿司、三位は青森ねぶたまつり寿司、四位は仙台七夕まつり寿司、五位がさっぽろ雪まつり寿司だった。

テレビコマーシャル効果が大きいランキング上位である。

結局はそれらの祭り寿司は皆目注文もせずに他人さんが注文しているのを目撃しただけだ。

ふっと一皿を手にしたかーさんはそれを口に入れて不味いと云った。

そうなんかなぁと思いつつ私が最初に取ったのはまぐろたたき軍艦巻きだ。

とろとろのまぐろの部位はどこっ。

なんてことは気にもせずに口の中で踊る。

躍るという表現はあっていないかもしれないが、ずるずるっという食感だ。

もう少しのつぶつぶ感というか、ザラッとした食感が欲しい。

とにかく回転レーンで運ばれるにぎり寿司を手に取る。

流れるレーンを見てはテーブルに皿を移動するかーさんは、こっちが一皿食べるうちに三皿も食べていた。

ご飯は温いという。

そりゃそうだが、くら寿司よりマシだと思う。

突如として動き出した高速レーン。

かっぱのマークがついた低床列車は特急レーン。



タッチパネルで注文した商品は一直線に走ってきてはピタリと停止する。

その操縦といえばスゴイの一言。

駅というか指定位置がピタリと決まって微動だにしない。

注文したお寿司をテーブルに移動するのは我がの手。

こればかりは自動ではない。

いくつか注文したお寿司は特急レーンを直線に走る。



コースは真っすぐなので爽快に感じる。

運ばれた皿をテーブルに移せば「OK」をタッチして車庫に戻ってもらう。

そのままにしていたらどうなるのか。他の人が注文したら勝手に動きよる。

心配をそこらに、なんてことはない。

自動化されていたのだ。

それにしてもこれは面白い以上に、回転レーンに載ってやってくる他店のように神経をつかう必要はない。

注文した商品を見逃し、取り逃がしたらもっぺんぐるっと回って・・・ワン・・ではないが、再び現れる。

それも忘れていたら・・・どうなるのか。

自動的に車庫へ・・、であろう。

そんなことを一切気にせずに注文した商品が食べられる。

気に入った、である。



気にいったかーさんは私も食べるであろうと二皿も頼んだ北海道産天然生たこ。

たこのコリコリ感はない。

水ダコのように感じた天然生たこであるが、茹でタコよりは旨いかもしれない。

注文したり、回転レーンを漁ったりして食べた品々は軍艦巻きが多い。

にぎりよりもこれのほうが旨いと感じるのは何故だろうか。



それはともかくこの日に食べた軍艦巻きは先に挙げたまぐろたたき軍艦巻きの他にまぐろ軍艦巻き、やまかけ軍艦巻き、寿司屋のたたき軍艦巻きがある。



決してにぎり寿司が不味いのではなく、旨いのである。

他店と違いを感じるのは、えっ、こんなものもあるのっ、であるが、とりあえずは定番コース。



これも食べたらええでと言われて皿に盛ってくれた大葉のえんがわ。



とろサーモン直火炙りに鯛のレモン添えも皿に一個ずつ盛ってくれた。

にぎりの寿司飯はどちらかと云えば小さい。

小さいからお腹にこたえずさくさく入る。

 

コリコリ感がもっとほしいと思ったつぶ貝。

不味くはないが・・・。



始めのころに手にしたとろ〆さば。

〆た関係でとろ感が消えている。



ひと際美味かったのは豪快いか天マヨ。



これは姿も大きさも揚げ方も・・・素晴らしい。

豪快と云うだけに腹の中で、じゃなく口の中で踊った。

イカでそうであればと思って注文したエビ天にぎりマヨ。

揚げたてのプリプリ感がたまらん味。

揚げた油もいいのだろうか、とにかく美味いの連発。

それを見ていたかーさんは最後にと云って頼んだ商品が上煮穴子天にぎり(ハーフ)。

値段は198円であるが、それ以上の値打ちがあると思ったぐらいに旨い。



こっちも最後に、と思って憂悶した商品は北海道産いか軟骨唐揚げつつみ。

大きな海苔を手で包んでがっつり口に入れる。

一口で、と思ったが大きいので二口。

これも美味い。

これならもっぺん来たくなったといったかーさんも私も大満足。

お腹は見事にぱんぱん状態。

〆て会計はといえば税込2425円。

税抜き97円の皿数は21皿。

2皿は税抜き198円だった。

とにかくお安くいただけたが、一つだけ難点がある。

難点はタッチパネルの位置。

選ぶのになにかと迷う。

あっちへ、こっちへ移動したり、一旦は最後まで探し続けて結局は見つからず。

そのうちにだるさを感じる。

肩辺りが異常にだるくなる。

中途半端な位置に肩と指を保持しなければならないタッチパネルがたまらなく辛い。

もっと近づいたらえーやろと云った私もそう感じる。

なんとかならんもんやろか、と思った。

支払いはクレジットカードが可能。

しかも、ケータイ電子マネーのクイックペイも可能であったのが一番うれしかった。

もしかとしてチェーン展開している大手の回転寿司では初めてではないだろうか。

大手の売り上げトップをいくあきんどスシロー。

次にくら寿司、はま寿司、かっぱ寿司、元気寿司だが、クレジットカード支払いができるのはこれまであきんどスシローにはま寿司だけだった。

ただごくごく一部の店舗だけのようだ。

これじゃぁ話にならんと思うのは私だけであろうか。

利用者にとってありがたい支払い方法であるが、大手でもなかなか採用してこなかった。

現金仕入れにこだわりがあるのか知らないが・・・。

なんとかならんのだろうか。

電子マネーが利用できる店が少ないなかでシステムを取り入れたかっぱ寿司にバンザイをした。

(H28.11. 2 SB932SH撮影)

道路工事の進展

2017年07月03日 09時48分17秒 | 移設道路工事
県立病院の新築工事に伴って進入道路の工事がますます進展していく。

日々では気がつかないが、一週間、二週間の間が空くにつれて状況は一変する。

進展によっては一年前の状態がもう思い出せない。

若干の撮り位置は移動しているが、現況はこのような状態になった。

(H28.10.26 SB932SH撮影)

揃いも揃ったえーかげんな案内にえーかげんにせぇといいたい

2017年07月02日 08時38分42秒 | メモしとこっ!
どいつもこいつもなっていない道先案内人の対応。

言いたくもない、とんでも案内に立ち往生した。

言いたくもないのだが今後の対応が素晴らしい形になってくれると期待を込めて書くことにした。

場所は橿原市の今井町だ。

まちづくり団体が主導してさまざまな展覧会やイベントを開催する『はならあと』のサテライトエリア。

橿原市の今井町は『はならあと ぷらす』。

公募作家の10組と地域連携プロジェクトの4企画による展覧会を美しい町並みとともに楽しんでもらうという趣向である。

知人の作家さんが展示すると案内状が届いたので車を走らせた。

今井町の会場は点在している。

その会場に行くには車で、と考えていた。

駐車場はどこにあるのか。

ネットをぐぐってみた『はならあと』。

10月22日~10月31日までの期間で展示時間は朝の10時から午後の4時までだ。

「※会期中、インフォメーション(今井まちづくりセンター)にて、アンケートをご記入の方に「 今井まちなみ交流センター 華甍」の駐車無料券をお渡しします。」と表記しているが、駐車場はどこなのか。

その頁の一番下に会場マップがあった。

その右下に描いてあった今井交流センター「華甍」に吹き出し文字で「インフォメーション(今井まちづくりセンター)にて、アンケートをご記入の方に「今井まちなみ交流センター 華甍」の駐車無料券をお渡しします」とある。

その駐車場に行けばアンケ-ト記入があって。

提出することで無料駐車券をくれるのだろうか。

普通、そんなことはあり得ないが、書いてある文字を読めば、駐車場の処に案内人が無料駐車券を渡してくれるように思えた。

その駐車場のアドレスは書いていないからカーナビゲーションにセットはできない。

あとで判ったのだが、インフォメーション(今井まちづくりセンター)は会場の一角であった。

『はならあと』の頁をめくりにめくってアドレスが見つかった。

今井町1-10-9(重要文化財の旧米谷家住宅)をカーナビゲーションにセットして走った。

ある程度まで走ってなぜか教えるカーナビゲーションは畝傍を示す。

このままいけば遠ざかる一方。

入力しなおして戻る。

今井町はとにかく狭い。

昔の寺内町の様相をとどめている極めて稀に残った重要伝統的建造物地区。

何度か訪れているから記憶にある。

狭い街路をカーナビゲーションが指示する通りに到着した場所は民家だった。

その民家前には一般の駐車場があった。

『はならあと』が案内する「今井まちなみ交流センター 華甍」の駐車場ではない。

どこに向かえばいいのかその民家に置いてあった『はならあと ぷらす』マップ。

方角が判らないので街行く人に尋ねた。

その男性は黄色いようなジャケットを着ていた。

たぶんに案内してくれるだろうと思って声をかけた。

指定される駐車場はどう行けば良いのか・・。

こう行って、ああ行ってである。

男性が続けていった。

駐車するにはここへ行って駐車無料券をもらってからにしてください、という。

それなら先にそういうことを云うべし、であろう。

始めて訪れる人はなにをどうしていいのかオロオロする対応の伝え方だ。

そこへ行けばもらえるということでまたもや道案内。

ここをこう行って、あそこを曲がって・・・。

車を停めるにはお寺がある処に若干停められる場所があるから大丈夫と云われた。

大丈夫といわれてもアンケートを書いている時間に通行する車があれば迷惑になるだろうに・・。

そういったが、短時間だから行けます、という。

ぐぐっと廻ってそこに行った。

膨らみ部分はこれかどうか判らないが、すぐ向こうにインフォメーション(今井まちづくりセンター)らしきものがある。

無料駐車券はここで良いのかと聞けば、そうだという。

車はここへ停めてもいいのかと云えば、通行する車はないから、構わないという。

そういう通りにした。無料駐車券をもらうにはアンケートを、と云われて記入していたら、通行する車がクラクション。

予想していたことが発生した。

ここへ停めてくださいと云った和服姿の女性の案内にイライラする。

アンケート記入、車の移動、どちらを優先すればいいのか・・受付をしていた別の和服女性に云えば、車を移動してくださいだ。

当然だろう。

通り過ぎる車は2台。

なんとかせーよ、と言いたげな運転手の顔が見えた。

記入場所に戻って継続する。

すべてを記入したら、これは交換券なので無料駐車券と交換してください、という。

えっ、である。案内はどうなっているんだ。

そんなことはどこにも書いていなかった。

この場所を案内した男性もそういうシステムになっていることを伝えていない。

私はいったいどうしたらいいのだ。

車を駐車場に停めずに次の行先を指示する2番目に登場した和服姿の女性は云った。

駐車場に停めて、ここ今井まちづくりセンターに戻ってもらって、ここをこうして次の通りにある反対側の場所を示して・・・。

なんでそんなに大回りをしなければならないのか・・・。

女性がいうにはいろんな展示会場を見てもらうように案内している、という。

そんなアホな、である。

この時の時間帯は午後3時を過ぎていた。

迫ってくる展示時間。

駐車場は停めなきゃならんのに大回りをせよ、という大胆な案内にあきれかえってモノも云えないが、そういうわけにはいかない。

あんた何を考えてまんねんやっ、である。

先に無料駐車券に交換しておけば、残り時間を気にしなくとも安心して拝見できるでしょうに。

イライラに切れそう・・。

切れそうどころか爆発させたのは何回目。

指定された駐車場はタイムパーキング。

駐車カードを手にして知人が展示する会場に向かった。

無料駐車券を発行する時間帯は午後の5時まで。

展示会場の締め時間より遅い。

余裕時間は十分に確保できる。

そう判断できたから展示を見ることにしたのだが、こんなことも『はならあと ぷらす』の頁には書いてあったのだろうか・・・。



到着した時間は午後4時20分。

会場で知人をお会いした。

積もる話しに時間の経過が早い。

もうしわけないが、退出時間は午後4時を過ぎた15分だった。

展示会場を出ようとしたときに1番目に応対した和服女性がいた。

交換場所はどこかと聞けば、一緒に連れていってあげる、という。

それなら安心できる。

そう思って付いていったが、そこは午後5時までだからゆっくり・・・、と思ったが、その女性は午後4時半で閉まる、という。

時間がないし、その件はどうでもいいから、急いでください、という。

そうなんだ、無料駐車の交換券に書いてあった午後5時までじゃあなく、4時半が正しいのだ、と思った。

そこは『はならあと ぷらす』のマップにあった「景観支援センター(橿原市生涯学習部今井町並保存整備事務所)」であるが、交換して無料駐車券を発行するとはちっとも書いていない。

いったいここの案内はどうなっているのだ。

しかも、だ。ガイドマップの表記についてこうしておけばいいのではと伝えたら、私らなんぼ言っても聞いてくれないとグチまで零す始末。

この人もアンケートに書いて・・・、と云ったことに愕然とした。

和服女性は私を施設にここです、といって戻っていった。

職員は意図を掴んで無料駐車券を手渡すが、どう使用するのか説明をしない。

なんと無頓着のことか。

私が7年半も務めた施設でも同じように無料駐車券を手渡していたが、必ず一言を添えて伝えていた。

「お手持ちの駐車券を出口の機械に挿入して、次に無料駐車券を入れてください」、と伝えていた。

始めて利用する人は使い方も始めて。

機械に挿入することすら始めてという人も少なくない。

手渡したときにだいたいの人は不安そうな顔をする。

そのときに添えてあげる詞でどれほど救われるか。

たまに、無料駐車券を入れたらよろしいですね、という人もおられる。

そこで伝えるのは入庫するときに時間が判らなかったら、アカンでしょと伝える。

勤めていた施設で手渡す無料駐車券は2種類あった。

施設の利用時間に応じて2時間券か、30分券になる。

入庫したときの時間は駐車券に印字してある。

施設の利用はそれだけでも判断できる。

つまりは無駄な無料駐車券を遣わせないためにある。

そういうこともあって、入庫した時間が判らないと駐車場のシステムが成り立たんでしょ、というわけだ。

これらの説明は利用者に勉強していただくためにもしていた。

施設にとってではなく、利用者のためを、と思って説明していた。

それがサービスだと思っている。

単に券を渡す、のではなく、利用者の気持ちにそって優しく話してあげるのをモットーにしてきた。

おかげさんで仕事を離れた5年も経った今でも町ですれ違うときの私に声をかけてくれる人もいる。

昨日もそういう人に出会った。

ありがたいことだと思っている。

えーかげんな案内がリピータどころか、二度とその人は今井町に来なくなるだろう。

私はそう思ったことを事務室から出てきた上司にも伝えた。

展示会場に来られた男性にこういった経緯を話したら、アンケートに書けばよかったのに、という。

それは書いても無駄とは言い難いが、受け取った人、読んだ人は真剣に取り組まない。

頭のなかに若干の記憶は残るが、いずれは消えていく。

アンケートは絶えず人の見えるところに貼りだすのが効果的だ、と思っている。

大手のスーパーではクレームアンケートを入口付近で張り出しているケースがある。

で、そこには会社としてこのような対応をさせていただきました、とある。

それを読めば、会社の姿勢がよくわかる。

従業員の姿勢も判る。

挨拶だけではなく真心のこもった対応がリピータを呼び込む。

そんな今井町にしていきたいと云った上司。

研修も教育もしていきたいと云ったが、あえて否定した。

その対応は机上教育でしょ、である。

観光客という客は100人おれば100人とも異なる理由をもってここへ来たわけだ。

目的も思いも皆違う多様性がある。

教育・研修はありきたり。

マニュアル通りの対応では想定どおりにいかない。

100人とも違うのだから対応は100。

いや、100以上の対応が求められる。

それを習得するには無理がある。

早期に身につけなければ客は2度と来ない。

チャンスは客と直に応対するときに発揮しなければならない。

実践型の研修が必要だ。

研修と云わずに、案内する人は自ら進んで町行く人に声をかける。

かけるのはだれでもいいということではない。

動き、表情をみれば困っているかどうかすぐ判る。

例えば観光マップをもってウロウロしているか、あっちやこっちを見ている人だ。

行先が見えないとか、行き方が判らないとか・・・。

声をかけてもらうだけで救われるのである。

サラリーマン時代の十数年間。

毎年入社する新人研修に携わっていた

。間作った手引きやレジメは翌年には使わなかった。

入社する新人の反応が毎年違うのである。

人が替われば研修方法も替える。

おかげさんでその十数年間に関わった新人さんに教えられたと今でも感謝している。

そういうことではないでしょうか、と云えば、その通りと返された。

是非とも今後の今井町を見ていただきたい。

物理的施設の充実ではなく、ソフト面の向上を考えていきたいと話してくれた。

導入部の案内でリピータが増えてば今井町もさらなる発展をする。

職員の思いは私の思いと同じ。

その状態になるよう陰ながら応援することを誓い合って今井町を離れた。

振り返って再見した『はならあと』の頁にサポーターカテゴリがある。

サポーターは開催期間中の受付や作品の見守りに来場者の誘導、説明、ガイドブックの販売など。

今井町会場を案内するまちづくり団体は「今井町町並み保存会」。

市の外郭団体なのか、NPO団体なのか存じないが、駐車場および無料駐車券の発行に関して案内がぞんざいであったことが残念に思えて仕方がない。

そんなことがあってようやく知人の作家さんがお披露目していた会場に着いた。



玄関口の向こうに染物の暖簾がある。

これは作家さんの染めであろう。

雰囲気が素敵で吸い込まれるように入っていく。

もっと近づけば思った通りの暖簾。



玄関表に掛けて迎えるのも良かろうと思うと、そのときは思ったが帰宅して映像見れば、裏でないとできない効果があると知ったのだ。

さすが、である。

座敷に数点の作品を展示している。

藍染を主体にした作品は光を巧妙にあてることで不思議な空間を映し出す。



赤は赤なりの温かさ。

青は青で静寂さを醸し出す。

ぐだぐだあったここまでの辿り着くプロセスがすうっと消えていった。

良い作品に出合えてほんま、良かった。

(H28.10.24 SB932SH撮影)