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アンソニーは思った。花嫁ともセックスできるし、ウェイトレスとも出来るとなればシェフになることに何をためらうものか。ところが、そんな不純な動機ではおいそれとシェフになれるものではない。
思いっきり知る機会がやってきた。夏の終わりごろには、皿洗いからフライ係に昇進してパン粉をまぶしたハマグリやエビを揚げ、蒸しあげられたロブスターの殻を割り、遂に最上級のグリルを二回ほどあずかるようにもなった。
そして翌年、目の覚めるようなブルーのシアーサッカーで出来たピエール・カルダンの新品のスーツに身を固め、グリル・ステーションに抜擢されるのを想像しながら笑みを浮かべた。 そしてグリル担当のタイロンを紹介された。トニーは彼の助手という役回りだった。
そのタイロンは、身長二メートル半、体重二百キロ、頭を剃り上げ銀歯がギラリと光る。耳たぶには拳ほどの金の輪っかをつけ筋骨隆々の黒曜石を思わせる黒人だった。トニーといえば去年の自慢話をとうとうと喋りまくり、周囲のひんしゅくも目に入らない。
そうこうしているうちに、熱いソテーパンを素手で掴むというへまをした。そして言った。「バンドエイドないかな?」この言葉は、熱や火とオーダーメモでかっかと燃えている厨房の連中を一瞬のうちに凍らせた。
タイロンが言った。「なーにが欲しいって? 白んぼの坊や。やけどの薬? バンドエイドだ?」タイロンはトニーの目の前に両の手のひらをつきだした。醜い水ぶくれが星座のように縦横に走り、グリルのあとが真っ赤なミミズ腫れになっている。
タイロンはトニーをじっと見据えながら、ゆっくりと炉の中のじゅうじゅうと音を立てる鉄の皿を取り出してトニーの前に置いた。顔色一つ変えずに。
なんとも情けない自分に腹が立ったトニー。しかし、これで諦めるトニーではなかった。屈辱から立ち直って、米国で最高の料理学校である、米国料理学院(CIA)で学ぶことを決意する。
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