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読書 「わが性と生」瀬戸内寂聴

2010-09-08 06:43:07 | 読書
                 
 晴美と寂聴の往復書簡のかたちで性と生を語ってあるが、むしろ性のほうに重点が置かれているようだ。
 「花芯」で子宮作家と揶揄されたらしいが、本来作家になろうという男や女が、性体験が乏しくて何が書けるというのか。小説には男と女が出てくるのは必定だし、出てくれば恋に発展するのは大体の筋書きだし、恋愛の成れの果てがセックスに行き着くのは当たり前のこと。
 それが、童貞や処女が書いてどうする。全然面白くもないし、人間の喜びや哀しみを語れるはずがない。

 「花芯」の書かれた古臭い時代に大胆に描写した晴美という女も、80歳を越えた寂聴尼として女盛りを40代だと至言しているのも過去の性愛体験からのものだ。私は、尼僧は独身でないといけないと思い込んでいた。夫があってもいい、それにセックスを断つ必要もないらしい。
 
 寂聴は、51歳で出家して以来、交合はないという。しかし、過去の経験からの考察もある。ある女友達が言った。「男に言い寄られて断るのもしんどいものよ。相手を傷つけないよう断ろうと努力するのも神経使うし、精力が入るじゃない。
 だからつい、させてあげた方が楽だと思ってしまうのよ。あたしに拒絶本能が欠如してるなんて怒る男がいたけど、間違ってるわよね」
 この女性は、人妻でありながら、絶えず恋をしたり、需(もと)めに応じてさせてあげたりしていたのは、結婚して三年目のある日、突然、相思相愛の夫君から、「君はセックスの要求が強烈すぎてついていけない」といわれて、性抜きの夫婦になったからだという。これには意見が多々あるだろうが、そんな夫婦もあり、そんな女もあるということでいいだろう。

 それから寂聴はこうも言っている。「セックスをすると自分が限りなく優しくなれるし、そういう自分が好きなので、私はその場に望めば一心不乱に励んだのですが、どうやら、相手のためというよりも自分のためだったのかもわかりません。それもまた女の性のノーマルなタイプではないかと思います。男は女を歓ばせることで快楽を覚え、女は男に歓ばされることが快楽につながるのでしょう」

 また、「私は巨根というものに全く魅力を感じません。口いっぱいに物をほおばりすぎると味わうことも無理なように、巨(おお)きすぎるものは嵩張るだけで味気ないだろうなと想像します。女の快感は伸縮自在な自身締め付け運動を味わうことによって生じるのですから、それが不可能な口いっぱい状態から快感の生まれようはずもなかろうと想像します。女の機能が優秀ならば、対象に添うため収縮運動はおのずから活発になるのではないかと、これも想像します。なぜなら私は巨大にも矮小にも幸か不幸かゆき当たったことがないからです。あくまで乏しい想像力による判断とお聞きのがし願います」巨根礼賛でないのがいいところだ。いずれにしても性愛賛美ともいえる数々の言葉が楽しい。