
エロスという文字が私を誘った。それに最近読んだ田中貴子「セクシィ古文!」も一役買っているかもしれない。「セクシィ古文!」から「源氏物語」それにこの本といった具合に、読書の連鎖は面白い。この本は、「古今物語集」の原話をもとにエロスを描いてある。
阿刀田高の誘いの言葉は、『具体的な愛(エロス)の話。つまり、その……ポーノグラフィー。男性は言うに及ばず、女性も、「嫌ねえ」といいながらも、ちょっと覗いてみたくなる世界です。「今昔物語」はこうした艶っぽい話の宝庫です。このおもしろさ、知っていて損はないと思いますが……』
エロティックな話をここでごちゃごちゃ書くのもいただけない。一つだけ面白い話。これは今昔物語の原話ではない。
少し引用してみよう「どんな女が好きか」この厳粛なテーマについて、編集者のKさんは「おれ、断然、毛が濃いのが好きだなあ。モジャモジャしているくらい。手が薄いと欲望も起きない。毛が一番」
と言う。
知人は、「女の人の毛は薄い方がいいねえ。髪の毛はあんまり薄くちゃ困るけど、体毛の濃いのは嫌だね。ロシアの女性なんか、一見ものすごい美人でも、鼻ひげなんか薄っすら生えているじゃない。興醒めだよ。百年の恋もいっぺんに醒めてしまう」
これは人それぞれという結論になるだろう。こんな段落があって、和服の時洋服の時の女性の髪型から顔の話になって匂いでようやく今昔物語に到達する。一転して作家は、作品の第一行に苦労する。第一行目の言葉を求めてさ迷う。と言う段落に入る。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
「木曽路はすべて山の中である」
「王龍の妻を迎える日であった」
それぞれ工夫してあるが、今昔物語は、「今は昔」で始まるから楽なものである。ご苦労の末の言葉なのだろう。確かにそういう人は多い。と言うことで作家論も少し挟んである。作品の未熟さについて述べてある。
「未熟である理由は、三つに分けられるだろう。ディテール(細かい部分)が描かれていない。かすかに辻褄のあわないところがある。そして、結論となるものがない」小説とはディテールを書くことだ。と言う極端な言葉があるくらい小説には細かい描写が必要なものだ。辻褄が合わないというのは言葉通り。結論というのは、モチーフのことで、なにが言いたいのか? 作者の新しい視点がどこにあるのか。読者に、なるほどと思わせる必要がある。エロスに誘われて、お堅い作家論に到達してしまった。エロスからお堅い話へ、また、お堅い話からエロスへ飛ぶのも悪くない。