光明寺は、平塚市にあるので再び小田原厚木道路を引き返すことになった。整然と走る車が多く、やたら追い越し車線をぶっ飛んでいく車は少なかった。平塚ICを降りて地方道62号線をはしると南金目の街中にお寺がある。せいぜい4台、乗用車が停められる駐車場があった。
光明寺の前を金目川(かなめがわ)が流れていて、土手の桜の木が緑の葉を伸ばしていた。この金目川は、丹沢蓑毛(たんざわみのげ)峡谷の川に水無川が注ぎ秦野市内を横切り平塚市の西部を河口まで流れている。
本尊の聖観世音菩薩は、大宝2年(702年)潮汲みの海女が海中から得たものという。その後、道儀上人が一宇(いちう:一軒の家という意味)を建立、30年後の天平年間(729年~749年)に僧行基が1.7㍍の観音像を彫り、その「胎内」に海女が得た像を納めた。これが安産守護の本尊となった。
この故事により「お腹ごもりの観音」として喧伝され、源頼朝の夫人、政子も実朝出産の折祈願をこめた。明応年間(11492年~1501年)の建立で、平塚最古の建造物、間口七間(12.73㍍)、奥行八間(14.55㍍)の観音堂。
また、本尊が納められている室町時代末期の様式である「一間厨子」とその屋根や欄間の見事な造形は創建当初の姿を残しており、秀作との評価が高く、前立(まえだち)の本尊も明応年間の作という。
また、「かなひの観音」の俗称もあって、海女が得た本尊をしばらく家で祀っていたことからとか、所願みな叶うということからくるのか、由来は興味深いものがある。と住職は言う。この厨子は、国の重要文化財として指定されている、
仁王門の横に大きなわらじがぶら下がっていた。
奉納物か? 仁王が履いたのか?
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