永田 竹丸氏については私殆ど知らないので、以下 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用させて頂きます。
永田 竹丸(ながた たけまる、本名・みよまる、男性、1934年5月11日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。
人物
『漫画少年』の常連投稿者で、森安なおやに誘われる形で田河水泡に師事する。そして『新漫画党』にも入党。トキワ荘の通い組としても知られている。端正な画風とほのぼのとしたストーリーで、1950年代を中心に人気漫画家となった。当時、漫画で初めてスクリーントーンを導入した人物としても知られ、その後は漫画家仲間の間であっという間に浸透したという。『ビックルくん』で第一回講談社児童まんが賞を受賞。
1960年代中盤は、日本基督教団の冊子に、代表作となった『おにいちゃん』を長期にわたり連載する(やや特殊な誌面での連載ではあるが、宗教色は皆無の生活コメディ作品である)。この時期にはTCJ(現・エイケン)やピー・プロダクションに在籍していたこともある。
1970年代以降は仕事が減り、藤子不二雄のチーフアシスタントをしながら細々と自分の漫画を執筆していた時期もあった。
田河水泡の『のらくろ』の漫画執筆権を譲り受けた正統継承者でもある(山根青鬼、山根赤鬼も『のらくろ』の正統継承者である)。
主な作品
おにいちゃん
ビックルくん
トキワ荘青春物語(競作)蝸牛社
ものしりママのチエ子さん
エピソード
藤子不二雄Aの『まんが道』では、実家の庭に離れ家を作ってもらい羨ましがられる、というくだりがあるが、実際には母屋の損傷が激しく、部屋の殆どが使い物にならなかったためにやむなく離れ家を建ててもらったという。
スクリーントーンを初めて使った人物ではあるが、後進の漫画家達がスクリーントーンを多用する事を批判している。
唐沢なをきの漫画『電脳なをさん』で『おにいちゃん』のパロディ『おなにいちゃん』が描かれたことがある。
長くなりましたが、私も知らない事ばかり。ふ~ん、こんな方だったのね。
「トキワ荘物語」 ⑥ 永田 竹丸 「漫画少年合作の記」
以下、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。
他の方達が大体8ページの作品なのに、16ページの大作です。新漫画党のスターティングメンバーである永田氏は、この作品の舞台を仕事、特に 「漫画少年」 と、その出版社 「学童社」 について多く描いています。
飯田橋駅の絵があり、東京飯田橋。トキワ荘の住人達がまんが家をこころざすきっかけをつくった 「漫画少年」 の学童社はこの駅から五分程の所にあった。
そこでは山根 赤鬼・青鬼の双子兄弟や、森安氏など投稿仲間と知り合い、交流を深めていた。寺田氏が新潟から上京し椎名町のトキワ荘に住むというので、早速おとづれる。自宅から徒歩で10分と近かった。
学童社から投稿仲間に召集がかかり、合作の特集をやる事になった。皆でアイデアを出し合い、カレーライスをご馳走になりながら和気藹々としていたが、当時から返本の山は凄かった。以前は雑誌が足りないくらいの事もあったと聞いたのに・・・。
合作1回目は 「もしも特集」 となり、寺田、山根兄弟、永田、坂本、の5人で合作した。(表紙の絵)
その前後から寺田氏は 「漫画少年」 に連載を持ち、他の4人もそれぞれいろいろな雑誌に連載を持つようになった。
2回目の合作は山根兄弟が他社の仕事で忙しく、3人だけになった。学童社は原稿料の払いが悪いので引き止められないのだ。寺田氏など学童社一本でやっているので、コッペパンと水だけで一週間も過ごすとか、と編集者に聞き、ガリガリになって倒れている寺田氏を想像して訪ねてみるが、無事な顔を見てほっとする。(笑)
永田氏は自宅組 (つのだ じろう氏もそう) だったので、上京組のことは、心配していたのでしょう。優しい方ですね。
森安氏や安孫子氏も集まってきたので、みんなで漫画のグループを作ろうという事になり、ちょうど良いので 「漫少」 の合作をこのメンバーでやろうという事になった。
その頃の漫少の投稿欄にはのちにトキワ荘の住人になった 鈴木伸一、赤塚不二夫、石森章太郎、つのだじろう、松本零士、伊藤章夫、前川かずお、内山安二、多田ヒロシ等おおぜい名をつらねている。
合作は、「新漫画党特集」 として大型ページになり、快調だ。森安氏はキャバキャバと喜んでいる。次々とアイデアを出し合い、4色ページになったりして好評で、他の雑誌からも合作の以来がドンドン来る。それぞれ個々の作品も認められていった。
そんなある日、他社に合作原稿を届けた永田氏、ふと思い立って学童社に寄ってみた。そこで 「漫画少年」 が十月号で廃刊になるのを知る。
最後のコマは・・・。
いつも気軽に向かうトキワ荘へ、その日ばかりは足が重かった。やがてそれぞれ仲間の仕事の舞台は変わり、私は新漫画党を去った。新漫画党は、後からトキワ荘に住むようになった人たちを加えて再編成された。
と終わっています。なんで永田氏が離党したのかは明かされていません。他の人の作品にも載っていませんが、穏やかな永田氏のことですから、けんか別れということは無いでしょう。ちなみに、本人の似顔絵はまあ、十人並みに描かれていますが、他の人の永田氏の似顔は、どれも非常に美男子に描かれています。顔も性格もノープルな都会派の方だったのでしょうね。
永田 竹丸(ながた たけまる、本名・みよまる、男性、1934年5月11日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。
人物
『漫画少年』の常連投稿者で、森安なおやに誘われる形で田河水泡に師事する。そして『新漫画党』にも入党。トキワ荘の通い組としても知られている。端正な画風とほのぼのとしたストーリーで、1950年代を中心に人気漫画家となった。当時、漫画で初めてスクリーントーンを導入した人物としても知られ、その後は漫画家仲間の間であっという間に浸透したという。『ビックルくん』で第一回講談社児童まんが賞を受賞。
1960年代中盤は、日本基督教団の冊子に、代表作となった『おにいちゃん』を長期にわたり連載する(やや特殊な誌面での連載ではあるが、宗教色は皆無の生活コメディ作品である)。この時期にはTCJ(現・エイケン)やピー・プロダクションに在籍していたこともある。
1970年代以降は仕事が減り、藤子不二雄のチーフアシスタントをしながら細々と自分の漫画を執筆していた時期もあった。
田河水泡の『のらくろ』の漫画執筆権を譲り受けた正統継承者でもある(山根青鬼、山根赤鬼も『のらくろ』の正統継承者である)。
主な作品
おにいちゃん
ビックルくん
トキワ荘青春物語(競作)蝸牛社
ものしりママのチエ子さん
エピソード
藤子不二雄Aの『まんが道』では、実家の庭に離れ家を作ってもらい羨ましがられる、というくだりがあるが、実際には母屋の損傷が激しく、部屋の殆どが使い物にならなかったためにやむなく離れ家を建ててもらったという。
スクリーントーンを初めて使った人物ではあるが、後進の漫画家達がスクリーントーンを多用する事を批判している。
唐沢なをきの漫画『電脳なをさん』で『おにいちゃん』のパロディ『おなにいちゃん』が描かれたことがある。
長くなりましたが、私も知らない事ばかり。ふ~ん、こんな方だったのね。
「トキワ荘物語」 ⑥ 永田 竹丸 「漫画少年合作の記」
以下、黒文字は作品中のセリフ及び文章です。
他の方達が大体8ページの作品なのに、16ページの大作です。新漫画党のスターティングメンバーである永田氏は、この作品の舞台を仕事、特に 「漫画少年」 と、その出版社 「学童社」 について多く描いています。
飯田橋駅の絵があり、東京飯田橋。トキワ荘の住人達がまんが家をこころざすきっかけをつくった 「漫画少年」 の学童社はこの駅から五分程の所にあった。
そこでは山根 赤鬼・青鬼の双子兄弟や、森安氏など投稿仲間と知り合い、交流を深めていた。寺田氏が新潟から上京し椎名町のトキワ荘に住むというので、早速おとづれる。自宅から徒歩で10分と近かった。
学童社から投稿仲間に召集がかかり、合作の特集をやる事になった。皆でアイデアを出し合い、カレーライスをご馳走になりながら和気藹々としていたが、当時から返本の山は凄かった。以前は雑誌が足りないくらいの事もあったと聞いたのに・・・。
合作1回目は 「もしも特集」 となり、寺田、山根兄弟、永田、坂本、の5人で合作した。(表紙の絵)
その前後から寺田氏は 「漫画少年」 に連載を持ち、他の4人もそれぞれいろいろな雑誌に連載を持つようになった。
2回目の合作は山根兄弟が他社の仕事で忙しく、3人だけになった。学童社は原稿料の払いが悪いので引き止められないのだ。寺田氏など学童社一本でやっているので、コッペパンと水だけで一週間も過ごすとか、と編集者に聞き、ガリガリになって倒れている寺田氏を想像して訪ねてみるが、無事な顔を見てほっとする。(笑)
永田氏は自宅組 (つのだ じろう氏もそう) だったので、上京組のことは、心配していたのでしょう。優しい方ですね。
森安氏や安孫子氏も集まってきたので、みんなで漫画のグループを作ろうという事になり、ちょうど良いので 「漫少」 の合作をこのメンバーでやろうという事になった。
その頃の漫少の投稿欄にはのちにトキワ荘の住人になった 鈴木伸一、赤塚不二夫、石森章太郎、つのだじろう、松本零士、伊藤章夫、前川かずお、内山安二、多田ヒロシ等おおぜい名をつらねている。
合作は、「新漫画党特集」 として大型ページになり、快調だ。森安氏はキャバキャバと喜んでいる。次々とアイデアを出し合い、4色ページになったりして好評で、他の雑誌からも合作の以来がドンドン来る。それぞれ個々の作品も認められていった。
そんなある日、他社に合作原稿を届けた永田氏、ふと思い立って学童社に寄ってみた。そこで 「漫画少年」 が十月号で廃刊になるのを知る。
最後のコマは・・・。
いつも気軽に向かうトキワ荘へ、その日ばかりは足が重かった。やがてそれぞれ仲間の仕事の舞台は変わり、私は新漫画党を去った。新漫画党は、後からトキワ荘に住むようになった人たちを加えて再編成された。
と終わっています。なんで永田氏が離党したのかは明かされていません。他の人の作品にも載っていませんが、穏やかな永田氏のことですから、けんか別れということは無いでしょう。ちなみに、本人の似顔絵はまあ、十人並みに描かれていますが、他の人の永田氏の似顔は、どれも非常に美男子に描かれています。顔も性格もノープルな都会派の方だったのでしょうね。
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