邪馬台国からの歴史は分かり易い、遷都や副都などよく分かる。都市としての京都のマクロから町家や火消し、木戸門などのマイクロも理解できる。惜しむらくは産業の変遷や上下水のインフラが少ないが、そこまで筆者に求めるのは酷だ。知見は:
・ヤマト王権:「大王の宮がある場所=処」が宮処(みやこ)、「日本書紀」では中国での首都の代名詞の京都・京・京師をあてる
・藤原宮:単郭(築地塀)、重郭(さらに板塀)
・幢幡(樹烏(からす):中央、日像・青龍・朱雀:左、月像・玄武・白虎:右)
・平城京の条坊制:分割地割方式(街区から道幅の半分の宅地を削る:藤原京も同じ)、坊1,500大尺(35.6cm→534m)、16分の1の町は千鳥式で番号を振る
・天武系から天智系の光仁天皇、息子の桓武天皇が弟の早良親王を追放するが怨霊信仰(御霊信仰)でに「崇道天皇」と追号→天皇支配と不安定性と怨霊信仰のため、有職故実を守るのが公家で「貧福」など守る。暗く不安な世の中で、ヨーロッパの中世と同じく王政は不安定だ。
・長岡京は桂川・淀川・小畑川の水運、畿内や七道の陸路の「水陸の便」に着目、後期難波宮廃都と平城京の建物を解体し利用。集積地割(街区の宅地規模が同じ)小尺(29.6cm)で400尺(118m)×350尺(104m)→平安京はどちらも400尺
・長岡京廃都は、水害と腐敗、虫の大量発生、
・山城の歴史:5C後半鴨氏が上賀茂・下鴨神社を鎮守に、泰氏は葛野大堰、伏見稲荷大社、松尾大社、広隆寺(聖徳太子を支えた)、
・四神相応(山川道澤(さんせんどうたく))は平安京遷都の詔にない:宅地の条件であり平家物語の創作か
・平安京の暮らしは寝殿造(間面記法:母屋の長辺柱間数と庇の面数)、妻戸・蔀戸。町は四行八門制で32分割し、下級役人や百姓に(畑もつくる)、条坊制の住所表記
・10C右京は幽虚、街区も売買や小規模開発で棟割長屋(店子は在家)、通り名(面や頬(つら))で住所表記
・商業は市座(座って商売)、在家が棚を作り「世の人に商品を見せる」、「見世棚」、「店」に変化、町尻小路(新町)を軸に修理職(すりしき)、木工寮(建築)や三条、四条、七条は栄える
・福原遷都:平清盛が安徳天皇の出生とともに福原陪都を計画するが清盛死亡、翌年養和の大飢饉(1182年 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E5%92%8C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89 )
・寝殿造も左右非対称、小型化、用途区分化と貴族の困窮
・南北朝と町人(在家商人)が散在里商人の取締りを要請、酒麹座にも町人身分の記載
・室町時代:街区詩集に棟割長屋、内側に会所(井戸、便所→鎌倉時代以降は汲取りのリサイクルがあったはず、その出入口がどこかに必要)、住居表示も洛中、上ル、下ル、東入ル、西入ル
・足利義政は「天下は破れよ」で応仁の乱、東山殿の東求堂と同仁斎→「侘び・寂び」と書院造を残す→前年の長禄・寛正の飢饉( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%A6%84%E3%83%BB%E5%AF%9B%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89 )の大災害にも無頓着
・応仁の乱:上京と下京、土倉酒屋が酒造と金貸し、荘園では惣村(地下請(ぢげうけ)をするが検断権を持つ)、両側町の発生、交差点に番屋(土塀と釘貫の木戸門で自営)月行事(がちぎょうじ)・町式目・町儀定も規定、町人の町家(まちや、ちょうか)
・戦国時代:上京(立売室町の辻)、下京(四条町の辻(新町))に別れ自衛、焼跡には法華寺院で延暦寺や興福寺が攻撃、数寄屋でわび茶が流行
・垂木がない棟割長屋と桁がない町家、保頭川水運(筏)の木材寸法からの町家の規格化、14尺の丈間、2階は娼楼の恐れもあり厨子で物置に、軒柱は17尺で18尺をネソ穴切り、軒は12尺(掘立柱)
・織田信長:本2階建て、礎石や土台の出現
・豊臣秀吉:お土居と天正突抜(御幸町、富小路、堺町、間之町、車屋町、両替町、衣棚、釜座、小川、醒ヶ井、葭屋町、黒門)で東西二分、裏側水路(背割り下水)、短冊形敷地の成立(各戸が井戸と便所、裏庭の活用)→ただし汲取りのため通り庭が必須
・突抜で4町と2町の四辻と釘貫(木戸門)
・江戸時代:石置板葺から杮葺きとウダツに変化、瓦葺の出現、銅製の雨樋も現れる(奈良時代から寺社にはあり、町家では19Cの瓦の普及で一般化)、町家も軒柱が丈五と丈四(じょうし)で街並みが統一、瓦規制解除(1716)でならべ瓦(1674)利用、その後うたつは不要に
・明治時代:軒役は間口3間が多いが、町家の売買か沽券改めなど、間口で課税したのは天明6年(1786)の特例のみ、京都では1軒いくらの軒役が基本、木戸門の廃止(1872町の治安義務消滅のため)、京都市の地税の測量に京間(6尺5寸(1,870mm)から6尺(1,818mm))に変更、当時は軒下を伝い濡れずに歩けた(道の両側の葛石から3尺2寸5部に戸口、それが駒避け、鉄柵をつけた)
・現在:京町家、民家ブーム(くずやおろしで萱葺きが一般屋根の2階屋に)、水洗便所の普及→通り庭の消滅と「東京台所」など台所と住居部分の一体化
本著作は知識が豊富で読んで楽しい。おすすめだ。それはそうとして感じるのは:
日本史では、天皇の位置付け、役割、内紛、(近親)結婚と、呼応する武士の政権が対立・協調と変化した。不安定な政治構造と支配だ。しかも、生産は成長が無く飢饉(食料の量と変動)、都市と住居のインフラ(生活の質)が改革されず疫病が流行したが医学がなく祈祷だ。祭があったのも祈祷の一種だ(祇園祭など)、民衆はそれならと仏教に救いを求めたのが良く分かる。旧世代と新世代の仏教の間で争いがあり、さらに内紛もあった。
ヨーロッパではペストが原因となりルネッサンスが起こったが、我が国はなかった。明治以前は、王政に近いため、ひたすら権力者の様子を伺い、繁文縟礼と有職故実を志向する形式文化であったと気がついた。
世界的にも民主制と都市・住宅インフラが整ったのは1940年代以降( https://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/d407f650d35bd5bfeffa1c2d54a53cb4 )とあり現代は幸せだ。犯罪や戦争も少ない( https://blog.goo.ne.jp/n7yohshima/e/0a0470b08fea4ec903991c0cd52138e3 )
歴史をありがたがるのも良いが、町家でも現在は不要(例えば、自動車はあるが馬はいない)なものを解説しても知識としては面白いが実学ではないと思う。敷地割りを生かした、現代の町家(木造以外)でも良いと思う。庭なども三尊石や鶴亀石、須弥山などの様式がある。日本とは様式の国だと思った。
本著では、どうして街並みが変化したのかを、政治・工法・部材供給・町の組織(治安・消防・土地取引・税金など)多面的にとらえているのが頼もしい。
どなたか、産業史と上下水の利水と治水の歴史、河川の変遷をまとめてくれるとありがたい