なにかの拍子にふっと「おれにはあとどれくらいの時間が残されているのだろう?」とかんがえる。
60歳になったころから、人生の“残り時間”が気になりはじめた。
10年とか20年とか想像しても、あまりに茫々としていて、具体的なイメージをつかまえるのはむずかしい。
そこであと何冊の本が読めるか・・・と計算してみる。
一週間1冊×4=4冊/月
4×12=48冊/年
これを10年つづけると仮定すれば、73歳 . . . 本文を読む
麦藁帽子をかぶったひとりの男が手を振っている
いつまでもいつまでも。
泣いているのか 笑っているのか
距離があってよくはわからないが
三日月をプリントしたTシャツを着ている。
さよなら さよならといっているように見える。
ぼくはそこから離れていく。
遠くなっていく。
ある日 ある場所でぼくを見送ってくれた
その男のかたわらから。
桐生だったか本庄だったか とにかくそのあたりの街角を
カメラ片手 . . . 本文を読む
ゆうべ夜中に目を覚まし、どうしたわけか長いあいだ眠ることができなかった。
外が白んでくるころ、「虹の橋を渡ってやってくるのは」という作品が生まれた。
それから、半ばは妄想で、こんな比較を弄んだのでメモしておく。
この2-3年のあいだに読んだり、読み返したりした7人の詩人を、一言で要約すれば・・・。
萩原朔太郎・・・病状報告書
高村光太郎・・・演説
宮沢賢治・・・祈り
中原中也・・・歌
金子光晴 . . . 本文を読む
1
虹の橋を渡ってやってくるのは
車輪が五個ある透明なトラック。
通過するトラックのエンジン音だけが
街角に響く。
「ほら またあのトラックがきたね」
と白いマスクの少年が
怯えて指さす。
2
虹の橋を渡ってやってくるのは
ゆがんだ宝石のような女たち。
アメジストやラピスラズリ
罅われが美しいトルコ石
数万年前の人類の小さな叫びを封じ込めた琥珀。
十カラットの太陽
・・・のような少女の裸身が輝く . . . 本文を読む
わたしが「紫陽花を愛でる人」になったのは、昨年から。
紫陽花公園や紫陽花寺が全国にいったいいくつあるのか知らないけれど、昨年わたしは思いがけない近場で、紫陽花のプロムナードを見つけたのだ。
前橋市にある育英高校の北と、西に道路があり、そこにたくさん紫陽花が植えられてある。
管理者は前橋市。
この時期になると、その道が紫陽花のプロムナードになる(^^)/
十種類くらいあるのかな・・・いやもっと多い . . . 本文を読む
現代の詩は、なぜこうも読まれなくなったのだろうと、いまから三十年あまり昔に考えた。
1)本来の豊かな土壌を、歌に奪われてしまった。シンガーソングライターこそ、現代の吟遊詩人である。
2)詩は商品として書かれることはまずないので、流通しないし、読まれない。
3)詩的言語は表現としての高度化をはかろうとすればするほど、<個>に固着せざるを得ない宿命をもっている。それが難解さとなって、読者にある負担を . . . 本文を読む
「永遠」という名のレストランもまもなく店じまいするだろう。
茶色っぽくすりきれた川のほとりで
赤い帽子をかぶった 腰のほそい女とデートする。
哲学者と称する男の鼻くそが飛んでくるのをさけ
ジャイプール郊外でひろったコップに
利根川の水をそそぐ そそぐ。
一昨日読んだ小説の中の登場人物のように ぼくが。
そこから歩きだしたはずだった。
そこからは荒野だった。
そこからはしばらく這って
這って
「永 . . . 本文を読む
あえてえらそうにいわせてもらうなら、フォトグラファーとしてのわたしが、いま、いちばん心迷わせているのは、アジサイかもしれない♪
昨年専用のアルバムをUPしたけれど、
今年も作成しておく。
それもこれも、父親が入院していた病院の近くで、アジサイの径を発見したからだろう。
アジサイに似た花・・・というのを、ほかに思い浮かべることができない。
この美しさは、一種独特な風情だと思うが、どん . . . 本文を読む
昨日は仕事がかなり多忙で、クルマであっち、こっちと走り回った。
やれやれとひと息ついて、ほぼ定刻の6時半ごろ、事務所をあとにして、クルマで自宅へ向かった。
天候の変わり目、夕方になって、空がダイナミックな輝きに満たされはじめた。
おおー、いいな♪ いいな♪
というわけで、スーパーの駐車場から、オリンパスのOM-Dでパチリ!
国道へ出たら、東の空にもくもくと大きな入道雲。
その雲が夕陽を . . . 本文を読む
萩原朔太郎はわたしにとっては郷土の詩人である。
学生時代から途切れとぎれ読んだりよまなかったり・・・もうずいぶん長いつきあいとなる。
明治以降の詩人として、現在でも人気があるのは高村光太郎、宮沢賢治、中原中也あたりだろうが、そういった中に置いてみて「月に吠える」の詩的達成は、ひときわ輝いているように思われる。これはわたしの「ひいき目」というものだろうか?
わたしの見るところ、朔太郎の詩集は「月に . . . 本文を読む