フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月4日(日) 晴れたり曇ったり

2006-06-05 03:09:50 | Weblog
  午後、遅い昼食をとりがてら散歩に出る。今日の「やぶ久」の日替わり定食はカレーライスととろろ蕎麦のセット。カレーライスか…(何かの天丼を期待していた)。しばし躊躇したが、いわゆる「お蕎麦屋さんのカレーライス」というものをひさしぶりで食べてみるかと、日替わり定食を注文。それにしてもカレーライスととろろ蕎麦の組み合わせなんて余所では絶対にありえないな。運ばれてきたカレーライスは、少しばかり塩分が多い感じで、私の好みの味ではなかった。カレーライスととろろ蕎麦という組み合わせもミスマッチだと思う。まあ、たまにこういうときもある。
  栄松堂で、瀬川晶司『泣き虫しょったんの奇跡』(講談社)、『将棋世界』7月号を購入。東急プラザ1Fの梅園で水ようかんをお土産に買って帰る。
  瀬川晶司は、昨年、61年振りに実施されたプロ編入試験(対局)に合格して、35歳にしてアマチュアからプロになった将棋の棋士である。本書は彼の自伝であるが、達意の文章に感心した。ゴーストライターがいるのかもしれないが、並のゴーストライターでは奨励会(プロ棋士の養成期間)時代の鬱屈した心情をこれほど見事に文章化することはできないだろう。26歳までに三段リーグ戦を勝ち抜けて四段(ここからがプロと呼ばれる)に上がらなければ奨励会を退会しなくてはならない。瀬川は22歳で三段になったので、4年の猶予があった。三段リーグ戦は年に2回実施されていたので、リーグ戦の回数に換算すれば8回の猶予があるということだ。「8回もあればたくさんだ」というのが当初の瀬川の気持ちだった。しかし、現実は甘くはなかった。

  「それからまもなく、僕は二十四歳の誕生日を迎えた。その年齢は、三段リーグでは「格下」とみなされはじめるターニングポイントである。この頃から僕は、一つ負けるたびに、ぱたん、ぱたん、と体の中の扉が一つずつ閉じられていくような感覚をおぼえはじめていた。チャンスは、あと四回。」

  自分の中で可能性が消えていく音がするというのは恐ろしいことだ。こういう感覚は、奨励会員だけのものではなく、何かの夢に向かって生きていて、しかし、その夢がなかなか実現できず、いたずらに歳を重ねていく「もう若くはない若者たち」に共通するものではないだろうか。…そして、ついに、最後の日が訪れる。

  「その朝、千駄ヶ谷へ向かう電車に乗っている僕は、何も考えていなかった。
   あと一つでも負ければ、すべてが終わる。だが、手が汗ばむことも、膝が震えることもなかった。
  落ち着いているのではない。何かを感じる機能を、僕は失っていた。
  空洞のような頭で僕は、繰り返し同じことを思いつづけていた。一局目の相手の三須くんは調子が悪いから確実に勝てる。その勢いで残りを全勝して勝ち越せば流れが変わって、来期こそ四段になれるだろう…。
  一局目、三須智弘三段との対局がはじまった。
  指しているうちに、僕は妙なことに気づいた。どうも、僕のほうが形勢が悪いのである。変なこともあるものだな、と思いながら指すうちに、どんどん差は開いていった。
  やがて、手の施しようがなくなった。
  おかしいな、こんなところで負けるはずがないのにな。
  僕には、目の前にある局面が現実のものとは思えなかった。だが、すでに僕にできることは、自分で自分に最後の宣言をすることしかなくなっていた。
  おい、ここで負けたら僕は終わっちゃうじゃないか。
  それはわかっているが、負けは負けなのだから、しかたがない。現実を受け入れる準備がまったくできていないまま、僕はその一言を発した。
  「負けました」
  その瞬間、対局室にはなんの変化もなかった。ほかの対局も次々に終わり、感想戦の声があちこちから聞こえてきた。誰かが僕に声をかけるわけでもなかった。これまでたくさんの奨励会員に訪れていた瞬間が、僕の上にも訪れただけのことだった。
  すべては終わったというのに、すぐにもう一局指さなくてはならない。僕は将棋をおぼえて初めて、勝とうという意志をもたずに将棋を指し、簡単に負けた。」

  この非現実感の描写にはリアリティがある。『泣き虫しょったんの奇跡』は挫折と再起の物語である。それはいいのだが、帯に印刷された「あきらめなければ、夢はかなう」という宣伝文句はあまりにも陳腐で、リアティリーがない。そしてこの呪文のような言葉がどれだけ多くの「もう若くない若者たち」を苦しめているかを思うと、ため息が出てしまう。夢はかなうこともあるし、かなわないこともある。あたりまえのことじゃないか。あたりまえのことから目をそらして夢を追うのは、夢を追っているように見えて、現実から逃げているに過ぎない。瀬川が棋士になるという夢を実現できたのは、夢をあきらめなかったからではなく、一度、きっぱりと夢をあきらめて、別の人生を歩み始めたからである。