フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月20日(火) 晴れ

2006-06-21 01:23:39 | Weblog
  会議の一日。午前10時半から社会学専修の教室会議。途中で別の会議に出るため退席。そちらは30分でケリをつけて教室会議に復帰。出前の「たかはし」の二重弁当でお昼。午後1時から社会人間系専修委員会。午後2時から教授会。今日の教授会は議題山積で長くなることが予告されていたが、やっぱり長かった。午後7時半までかかる。最初の会議から9時間が経過していた。さすがに疲れた。私が議案の説明を担当した案件が承認を得られず継続審議となったので、余計に疲れた。
  あゆみブックスで大村彦次郎『文士のいる風景』(ちくま文庫)を購入し、帰りの電車の中で読む。百人の作家についてのエピソード集。作家の配列は没年順である。最初の一人は武田麟太郎である。

  「武田麟太郎が湘南片瀬の知人宅の離れで、肝硬変症のため急死したのは昭和二十一年三月三十一日の朝九時過ぎのことであった。武田は苦しさの余り、寝ていた床からずり落ち、窓の下の壁に頭を押しつけるようにして死んだ。数日前、メチール酒を飲んだのが引き金になったのではないか、とひそかに囁かれた。臨終に立ち会ったのは家族の他に、『人民文庫』以来の盟友である高見順一人であった。やっと自由にものが書ける時代が来たというのに、武田は何と不運な男だろう、と高見は不愍(ふびん)な気持でいっぱいになった。」

  最後の一人は丹羽文雄である。

  「太宰は文壇に出てすぐの頃から、丹羽を過剰に意識していたが、丹羽が三鷹市の北側へ引っ越してきたと聞くと、「ああいう美男子が来てはとてもかなわぬ」と、わざとおどけたふりをし、「線路の向こう側は丹羽文雄、こちら側は俺の縄張りだ」と面白がって、周囲に言い触らした。丹羽は若い頃から日本人離れのした長身の美丈夫で知られた。戦前、田村泰次郎の初の出版記念会があった帰途、偶々その会に出席した来日中の映画女優李香蘭(山口淑子)を誘って、文士仲間が神楽坂の待合へ流れたことがあった。そのとき待合の女将や仲居たちは客の丹羽を李香蘭と共演した二枚目スターの長谷川一夫と見まちがえ、大騒ぎを演じた。」

  丹羽は武田と同じ1904年(明治37年)の生まれであったが、武田が41歳で亡くなったのに対して、丹羽は妻にも娘にも先立たれて100歳まで生きた。二人の死の間には「戦後」という時代がすっぽりと収まっている。