天気に恵まれたGWであったが、最終日は雨である。朝食兼昼食は自家製のコロッケパンと牛乳。傘を差して散歩に出る。雨は散歩の妨げではない。主たる行く先は本屋と喫茶店であるから、雨は関係ないのである。シャノアールで綿谷りさ『蹴りたい背中』の続きを読む。高校の教室や部室という人間関係の密室(見田宗介なら「まなざしの地獄」と表現するところだ)の中で息を詰めながら生きている主人公の心理描写の鮮やかさに、最後まで一息に読んだ。たとえば、中学時代からの友人でクラスメイトの絹代との会話。
「私は中学でもうこりごり。仲間とかは。」
「極端すぎるんだよ。ハツは。グループと深く関わらなくても、とりあえず一緒にいればいいじゃない。」
「それすら、できないんだよね。中学での我慢が、たまりにたまって一気に爆発した結果かな。」
「我慢、って言っちゃうんだ、私らの時間を。」
絹代がさびしげに呟いたので、慌ててつけ加えた。
「絹代は笑ったり話盛り上げたりして、しゃべってくれたから、私は何も我慢なんかしてなかったよ。でも同じグループの他の子、よっちゃんとか安田さんとかはさ、いつも押し黙ってて、眠そうに人の話を聞くばっかりだったでしょ、あれはきつかった。」
話のネタのために毎日を生きているみたいだった。とにかく〝しーん〟が怖くて、ボートに浸水してくる冷たい水を、つまらない日常の報告で埋めるのに死に物狂いだった。指のここ怪我した、昨日見たテレビおもしろかった、朝に金魚が死んだ。一日あったことを全部話しても足りず、沈黙の水はまたじわじわ染みてくる。
「ハツはいつも、一気にしゃべるでしょ、それも聞いてる人間が聞き役に回ることしかできないような、自分の話ばかりを。そしたら聞いてる方は相槌しか打てないでしょ。一方的にしゃべるのをやめて、会話をしたら、沈黙なんてこないよ。もしきてもそれは自然な沈黙だから、全然焦らないし。」
絹代は諭すように語る。人間とのコミュニケーションの仕方を同い年の友達から習うというのは、それこそ耳をふさぎたくなるほど恥ずかしい。
「もういい。」脱いだ上ばきをつかみ、体育館の出口に足早で向かった。
絹代や他のクラスメイトたちが帰ってくる教室にはいたくなくて、そのまま部室に直行する。(98~99頁)
今度は、その部室での先輩との会話。
「疲れたなら、帰ってもいいよ?」私が何も言わないでいると、先輩は言った。
「いえ、後片づけします。雨にハードルをさらしていると、錆びるし。」
「〝こんな雨の中で片付けしたくない〟って女子部員全員で言ったら、きっとやらなくて済むよ。先生は物分かりいいから。」
先生は物分かりいいから。運動場を整備し忘れても、体育館の鍵を閉め忘れても、部活の後みんなで酒を飲んでも、こればっかり。軽蔑するような響きはまったくない。だからこそ、頭に白髪の混じった大人が、物分かりいい、なんて言われるのを聞くと、やるせない。長く生きる意味ってあるのかと思ってしまう。
「陸上部もいい雰囲気になったよ。去年の顧問はやたらスパルタで、記録の数字しか見てないような奴だったから、やめてく新入部員も多かった。今年は先生とみんな仲良しで、部活楽しい!」
「先生は飼い慣らされてるだけじゃないですか。」
吐き捨てるように言ってから、しまった、と思った。空気が不穏に震え、肌寒くなる。先輩は前を向いたまま、低い声で吐き捨てた。
「あんたの目、いつも鋭そうに光ってるのに、本当は何も見えてないんだね。一つだけ言っておく。私たちは先生を、好きだよ。あんたより、ずっと。」
私は何もわかっていないのかもしれない。もしかしたら陸上部員たちと先生の間には、嘘じゃない絆もあるのかもしれない。なんて。そんなのあるわけない。さっきの先輩の言葉はただの虚勢だ。いつまでたっても先輩たちのやり方に染まらず冷ややかな目で彼女たちを見ている私を脅威に感じていて、そのせいで出た虚勢だ。(106~108頁)
すごいね、このゴツゴツ感、ギシギシ感。この小説には主人公の家族の話は出て来ない。しかし彼女と家族の関係は想像がつく。これほどの女の子が家族と滑らかな関係を築いているとはとうてい思えない。彼女にとっては家庭も、学校同様、生きづらい場所に違いない。この小説の見所は、主人公と周囲の人間とのゴツゴツ感、ギシギシ感を的確に描いているところと、もう一つ、予定調和的な滑らかな結末に向かって物語が進行しないところだ。綿谷りさはそういうお定まりのコースに自分の作品が堕ちていくことを断固拒絶する。かといって悲惨な結末が用意されているわけでもない。ハッピーエンドでもなく、カタストロフでもなく、「そして人生は続く」という感じ。19歳かよ・・・。私が日々接している学生たちの中にもいるんだろうね、こういう子。そういえば、今週は数人の学生と個人面談(雑談ともいう)の予定が入っているのだが、油断していると、ガツンと言われてしまうかもしれないな、「先生は飼い慣らされてるだけじゃないですか。」って。ひえ~。心の準備をしておかなくてはならない。
「私は中学でもうこりごり。仲間とかは。」
「極端すぎるんだよ。ハツは。グループと深く関わらなくても、とりあえず一緒にいればいいじゃない。」
「それすら、できないんだよね。中学での我慢が、たまりにたまって一気に爆発した結果かな。」
「我慢、って言っちゃうんだ、私らの時間を。」
絹代がさびしげに呟いたので、慌ててつけ加えた。
「絹代は笑ったり話盛り上げたりして、しゃべってくれたから、私は何も我慢なんかしてなかったよ。でも同じグループの他の子、よっちゃんとか安田さんとかはさ、いつも押し黙ってて、眠そうに人の話を聞くばっかりだったでしょ、あれはきつかった。」
話のネタのために毎日を生きているみたいだった。とにかく〝しーん〟が怖くて、ボートに浸水してくる冷たい水を、つまらない日常の報告で埋めるのに死に物狂いだった。指のここ怪我した、昨日見たテレビおもしろかった、朝に金魚が死んだ。一日あったことを全部話しても足りず、沈黙の水はまたじわじわ染みてくる。
「ハツはいつも、一気にしゃべるでしょ、それも聞いてる人間が聞き役に回ることしかできないような、自分の話ばかりを。そしたら聞いてる方は相槌しか打てないでしょ。一方的にしゃべるのをやめて、会話をしたら、沈黙なんてこないよ。もしきてもそれは自然な沈黙だから、全然焦らないし。」
絹代は諭すように語る。人間とのコミュニケーションの仕方を同い年の友達から習うというのは、それこそ耳をふさぎたくなるほど恥ずかしい。
「もういい。」脱いだ上ばきをつかみ、体育館の出口に足早で向かった。
絹代や他のクラスメイトたちが帰ってくる教室にはいたくなくて、そのまま部室に直行する。(98~99頁)
今度は、その部室での先輩との会話。
「疲れたなら、帰ってもいいよ?」私が何も言わないでいると、先輩は言った。
「いえ、後片づけします。雨にハードルをさらしていると、錆びるし。」
「〝こんな雨の中で片付けしたくない〟って女子部員全員で言ったら、きっとやらなくて済むよ。先生は物分かりいいから。」
先生は物分かりいいから。運動場を整備し忘れても、体育館の鍵を閉め忘れても、部活の後みんなで酒を飲んでも、こればっかり。軽蔑するような響きはまったくない。だからこそ、頭に白髪の混じった大人が、物分かりいい、なんて言われるのを聞くと、やるせない。長く生きる意味ってあるのかと思ってしまう。
「陸上部もいい雰囲気になったよ。去年の顧問はやたらスパルタで、記録の数字しか見てないような奴だったから、やめてく新入部員も多かった。今年は先生とみんな仲良しで、部活楽しい!」
「先生は飼い慣らされてるだけじゃないですか。」
吐き捨てるように言ってから、しまった、と思った。空気が不穏に震え、肌寒くなる。先輩は前を向いたまま、低い声で吐き捨てた。
「あんたの目、いつも鋭そうに光ってるのに、本当は何も見えてないんだね。一つだけ言っておく。私たちは先生を、好きだよ。あんたより、ずっと。」
私は何もわかっていないのかもしれない。もしかしたら陸上部員たちと先生の間には、嘘じゃない絆もあるのかもしれない。なんて。そんなのあるわけない。さっきの先輩の言葉はただの虚勢だ。いつまでたっても先輩たちのやり方に染まらず冷ややかな目で彼女たちを見ている私を脅威に感じていて、そのせいで出た虚勢だ。(106~108頁)
すごいね、このゴツゴツ感、ギシギシ感。この小説には主人公の家族の話は出て来ない。しかし彼女と家族の関係は想像がつく。これほどの女の子が家族と滑らかな関係を築いているとはとうてい思えない。彼女にとっては家庭も、学校同様、生きづらい場所に違いない。この小説の見所は、主人公と周囲の人間とのゴツゴツ感、ギシギシ感を的確に描いているところと、もう一つ、予定調和的な滑らかな結末に向かって物語が進行しないところだ。綿谷りさはそういうお定まりのコースに自分の作品が堕ちていくことを断固拒絶する。かといって悲惨な結末が用意されているわけでもない。ハッピーエンドでもなく、カタストロフでもなく、「そして人生は続く」という感じ。19歳かよ・・・。私が日々接している学生たちの中にもいるんだろうね、こういう子。そういえば、今週は数人の学生と個人面談(雑談ともいう)の予定が入っているのだが、油断していると、ガツンと言われてしまうかもしれないな、「先生は飼い慣らされてるだけじゃないですか。」って。ひえ~。心の準備をしておかなくてはならない。