午後から大学へ。大学院の演習の次回のテキスト(清水幾太郎『青年の世界』の一部)を授業前にコピーしないとならないので、今日も昼食はコンビニのおにぎり3個(鮭、こんぶ、イカの生鱈子和え)。本日の演習のテキストは清水幾太郎『社会と個人-社会学成立史』。私がこの本を初めて読んだのは学部の4年生のときであったろうか。この本から私は自分の卒論「社会と個人に関する発達社会学的考察」のヒントを得た。『社会と個人-社会学成立史』は社会と個人の関係の変容を歴史時間に沿って考察したものだが、歴史時間を個人時間(年齢)に変換したらと私は考えたのである。個人の一生は集団から集団への遍歴であるから、加齢に伴う所属集団の変化によって(個人にとっての)社会と個人の関係も変容していくはずである。我ながらいいアイデアだと思ったが、実際にしたことは、発達心理学の教科書が扱っている諸事実を社会学の視点から読み替えるという作業だったように思う。
演習を終えて、生協戸山店で奥武則『論壇の戦後史1945-1970』(平凡社新書)を購入し、フェニックスで読む。序章で、1988年8月12日、四谷霊廟での清水幾太郎の葬儀の模様が書かれている。少し遅れてきた福田恆存が会葬者席の最前列に案内されてそこに座ったという事実は、私には(清水と福田の関係を知っている者なら誰にでも)非常に興味深い。著者は当時、毎日新聞の学芸部の記者で、清水の訃報記事を担当した人物である。私は論文「忘れられつつある思想家 清水幾太郎論の系譜」の冒頭でその訃報記事を引用させてもらったことがあるので、清水の文献を読んだ授業の後に本書を手にしたことは因縁めいたものを感じる。「文壇」を扱った本はけっこうあるが、「論壇」を扱った本は少ないので、「論壇」担当編集者が書いた本書は戦後史の貴重な資料となるだろう。
6限の「現代人の精神構造」は安藤先生の担当の「近現代日本小説にみる『私』の構築」の2回目。本来は初回に扱うはずだった(しかし時間がなくてできなかった)田山花袋『蒲団』、島崎藤村『破壊』、小林多喜二『一九二八・三・一五』、阿川弘之『雲の墓標』を素材にして、戦前・戦中の「私」の構築の諸類型について話された。戦後については次回ということになったが、問題は、準備されている資料の分量から考えても、その話は残り1回の授業で完結できるとは到底思えないことである。少なくともあと2回は必要である。「どうしましょう、大久保先生」と安藤先生は今日の授業の終わり近くに教壇からフロアーの私に向かって語りかけた。「もう1回増やしましょうか」と私。「いえいえ、それは・・・」と安藤先生。舞台裏の話を授業中にするというのも一種のパフォーマンスであるが、しかしそれは出来ない相談ではないのである。この授業は4人の教員がチームを組んでやっているのだが、一応、1人あたり3回の担当にしてあって、誰の担当でもない予備日というものを温存してあるからだ(総括とか教場試験に使う予定で)。授業の後、今後の相談をTAのI君を交えて「秀英」でビールを飲みながらする。
10時、帰宅。風呂を浴び、ガリガリ君(ソーダ)を頬張り、「時効警察」を観てから就寝(このフィールドノートは翌朝に書いている)。土曜日に授業がないと、金曜日の夜は本当にのんびりできる(別の言い方をすると、一週間の疲れがドッと出る)。昨年までは土曜日に2コマ講義があって、金曜の夜はその準備で気分は張りつめていたものだ。私はいやいや土曜日の授業をやっていたわけではないが(朝の電車が空いているのでむしろ快適に思っていたくらいだ)、世間一般の「金曜の夜」を経験してしまうと、再び土曜日に授業を持つことは困難かもしれない。
演習を終えて、生協戸山店で奥武則『論壇の戦後史1945-1970』(平凡社新書)を購入し、フェニックスで読む。序章で、1988年8月12日、四谷霊廟での清水幾太郎の葬儀の模様が書かれている。少し遅れてきた福田恆存が会葬者席の最前列に案内されてそこに座ったという事実は、私には(清水と福田の関係を知っている者なら誰にでも)非常に興味深い。著者は当時、毎日新聞の学芸部の記者で、清水の訃報記事を担当した人物である。私は論文「忘れられつつある思想家 清水幾太郎論の系譜」の冒頭でその訃報記事を引用させてもらったことがあるので、清水の文献を読んだ授業の後に本書を手にしたことは因縁めいたものを感じる。「文壇」を扱った本はけっこうあるが、「論壇」を扱った本は少ないので、「論壇」担当編集者が書いた本書は戦後史の貴重な資料となるだろう。
6限の「現代人の精神構造」は安藤先生の担当の「近現代日本小説にみる『私』の構築」の2回目。本来は初回に扱うはずだった(しかし時間がなくてできなかった)田山花袋『蒲団』、島崎藤村『破壊』、小林多喜二『一九二八・三・一五』、阿川弘之『雲の墓標』を素材にして、戦前・戦中の「私」の構築の諸類型について話された。戦後については次回ということになったが、問題は、準備されている資料の分量から考えても、その話は残り1回の授業で完結できるとは到底思えないことである。少なくともあと2回は必要である。「どうしましょう、大久保先生」と安藤先生は今日の授業の終わり近くに教壇からフロアーの私に向かって語りかけた。「もう1回増やしましょうか」と私。「いえいえ、それは・・・」と安藤先生。舞台裏の話を授業中にするというのも一種のパフォーマンスであるが、しかしそれは出来ない相談ではないのである。この授業は4人の教員がチームを組んでやっているのだが、一応、1人あたり3回の担当にしてあって、誰の担当でもない予備日というものを温存してあるからだ(総括とか教場試験に使う予定で)。授業の後、今後の相談をTAのI君を交えて「秀英」でビールを飲みながらする。
10時、帰宅。風呂を浴び、ガリガリ君(ソーダ)を頬張り、「時効警察」を観てから就寝(このフィールドノートは翌朝に書いている)。土曜日に授業がないと、金曜日の夜は本当にのんびりできる(別の言い方をすると、一週間の疲れがドッと出る)。昨年までは土曜日に2コマ講義があって、金曜の夜はその準備で気分は張りつめていたものだ。私はいやいや土曜日の授業をやっていたわけではないが(朝の電車が空いているのでむしろ快適に思っていたくらいだ)、世間一般の「金曜の夜」を経験してしまうと、再び土曜日に授業を持つことは困難かもしれない。