午前中、雨。雨には家の中にいて雨音の聞こえる雨と聞こえない雨があるが、今日の雨は雨音が激しく聞こえる。遠くで雷も鳴っていた。床屋に寄ってから、大学へ。床屋を出る頃には雨はあがっていた。
「フェニックス」で昼食(サラミのピザと珈琲)をとってから、3限の「現代人間論系総合講座1」の最終回に出席。田島先生が最後の方で「天使のまなざし」の話をされた。私が初回の講義で現代社会における他者へのまなざしの弱まりについて論じたことを取り上げて、天使とは遍在するまなざしであることを指摘され、森永製菓のコマーシャルソング「エンゼルはいつでも」を流された。
誰もいないと思っていても
どこかで どこかで エンゼルは
いつでも いつでも ながめてる
ちゃんと ちゃんと ちゃんと ちゃんと
ちゃちゃんと ながめてる
子どもの頃から耳にしているコマーシャルソングだが、そうか、天使のまなざしの遍在がちゃんと歌われているではないか。まなざしの遍在はキリスト教に限らない。日本人も「ご先祖様はいつでも私たちを見守っていてくれる」という言い方をする。いつでも見られているという気持ちがあると、規則違反はしにくいだろう。現代社会におけるまなざしの不在(他者への関心の希薄化)は、伝統的宗教の機能低下が一因であることは間違いない。講義の初回と最終回がこれできちんとつながった。
いくつか雑用を片付けてから、明日の教室会議の資料の件で、現代人間論系室へ顔を出す。助手のAさんのほかにうちの論系の学生たちもいて、しばし雑談。去年、基礎講義のレポート全部に教員がコメントを付けて返したことへの感想を聞いてみたところ、「よかった」「すごくうれしかった」と言ってくれた。そうでしょう、そうでしょう。学生をレポート嫌いにする一番の方法は、暖簾に腕押し、レポートを受け取るだけで(最終的な評価以外に)何のリアクションもしないことである。
雑談の途中からみぞおちあたりにかすかな痛みを感じていた。それが帰りの電車の中でしだいに強いものになっていった。ストレス性の胃炎か、あるいは胆石の痛みかもしれない。痛みをこらえながら、大手町からJR東京駅への地下の通路を歩いていたら、地上へ出る階段から吹き込んでくる風が気持ちよい場所があった。「ああ、いい風だ」と思ったら、それまでの痛みがスーっと引いていくのがわかった。しばらくそこに立っていた。会社帰りの人の流れの中で、一人ポツンと立ち尽くしていることが、いささかはばかられて(いつもより多い警察官の目には不審者に映るかもしれない)、カモフラージュに何も聞こえない携帯電話を耳に当てた。5分ほどそうしていただろうか。痛みはすっかり消えた。
蒲田に着いて、ちょうどテアトル蒲田で上映中の「クライマーズ・ハイ」の6時からの回に間に合いそうだったので、観ることにした。主演は堤真一。1985年夏のあの日航機墜落事故のとき、地元の地方新聞で事故の取材の全権を任された遊軍記者悠木の役である。事故の報道をめぐっての新聞社内での喧々諤々が実にリアルである。いや、私は新聞社の内情など見聞したことがないから、それがリアルかどうかは本当は知らない。しかし、リアルに見える(いかにもありそう)ということが重要なのである。御巣鷹山の現場から帰ってきた記者佐山(堺雅人が好演)が、悠木に「八十行でも百行でも書きたいだけ書け。お前が見てきたものをちゃんと読ませろ」と言われ、3時間かけて書いた分厚い原稿。その前文。
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱えていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は空を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
鳥は囀(さえず)り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった―。
私はこれを映画を観ての記憶で書いているわけではない(それだったらすごいが)。映画を観終わってから、有隣堂へ行って(閉店の9時までにまだ30分あった)、原作である横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)を購入して、それを見ながら書いたのである。
「フェニックス」で昼食(サラミのピザと珈琲)をとってから、3限の「現代人間論系総合講座1」の最終回に出席。田島先生が最後の方で「天使のまなざし」の話をされた。私が初回の講義で現代社会における他者へのまなざしの弱まりについて論じたことを取り上げて、天使とは遍在するまなざしであることを指摘され、森永製菓のコマーシャルソング「エンゼルはいつでも」を流された。
誰もいないと思っていても
どこかで どこかで エンゼルは
いつでも いつでも ながめてる
ちゃんと ちゃんと ちゃんと ちゃんと
ちゃちゃんと ながめてる
子どもの頃から耳にしているコマーシャルソングだが、そうか、天使のまなざしの遍在がちゃんと歌われているではないか。まなざしの遍在はキリスト教に限らない。日本人も「ご先祖様はいつでも私たちを見守っていてくれる」という言い方をする。いつでも見られているという気持ちがあると、規則違反はしにくいだろう。現代社会におけるまなざしの不在(他者への関心の希薄化)は、伝統的宗教の機能低下が一因であることは間違いない。講義の初回と最終回がこれできちんとつながった。
いくつか雑用を片付けてから、明日の教室会議の資料の件で、現代人間論系室へ顔を出す。助手のAさんのほかにうちの論系の学生たちもいて、しばし雑談。去年、基礎講義のレポート全部に教員がコメントを付けて返したことへの感想を聞いてみたところ、「よかった」「すごくうれしかった」と言ってくれた。そうでしょう、そうでしょう。学生をレポート嫌いにする一番の方法は、暖簾に腕押し、レポートを受け取るだけで(最終的な評価以外に)何のリアクションもしないことである。
雑談の途中からみぞおちあたりにかすかな痛みを感じていた。それが帰りの電車の中でしだいに強いものになっていった。ストレス性の胃炎か、あるいは胆石の痛みかもしれない。痛みをこらえながら、大手町からJR東京駅への地下の通路を歩いていたら、地上へ出る階段から吹き込んでくる風が気持ちよい場所があった。「ああ、いい風だ」と思ったら、それまでの痛みがスーっと引いていくのがわかった。しばらくそこに立っていた。会社帰りの人の流れの中で、一人ポツンと立ち尽くしていることが、いささかはばかられて(いつもより多い警察官の目には不審者に映るかもしれない)、カモフラージュに何も聞こえない携帯電話を耳に当てた。5分ほどそうしていただろうか。痛みはすっかり消えた。
蒲田に着いて、ちょうどテアトル蒲田で上映中の「クライマーズ・ハイ」の6時からの回に間に合いそうだったので、観ることにした。主演は堤真一。1985年夏のあの日航機墜落事故のとき、地元の地方新聞で事故の取材の全権を任された遊軍記者悠木の役である。事故の報道をめぐっての新聞社内での喧々諤々が実にリアルである。いや、私は新聞社の内情など見聞したことがないから、それがリアルかどうかは本当は知らない。しかし、リアルに見える(いかにもありそう)ということが重要なのである。御巣鷹山の現場から帰ってきた記者佐山(堺雅人が好演)が、悠木に「八十行でも百行でも書きたいだけ書け。お前が見てきたものをちゃんと読ませろ」と言われ、3時間かけて書いた分厚い原稿。その前文。
若い自衛官は仁王立ちしていた。
両手でしっかりと、小さな女の子を抱えていた。赤い、トンボの髪飾り。青い、水玉のワンピース。小麦色の、細い右手が、だらりと垂れ下がっていた。
自衛官は空を仰いだ。
空はあんなに青いというのに。
雲はぽっかり浮かんでいるというのに。
鳥は囀(さえず)り、風は悠々と尾根を渡っていくというのに。
自衛官は地獄に目を落とした。
そのどこかにあるはずの、女の子の左手を探してあげねばならなかった―。
私はこれを映画を観ての記憶で書いているわけではない(それだったらすごいが)。映画を観終わってから、有隣堂へ行って(閉店の9時までにまだ30分あった)、原作である横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)を購入して、それを見ながら書いたのである。
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