フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月15日(火) 晴れたり曇ったり

2008-07-16 10:20:22 | Weblog
  昼から大学へ。電車の中で中勘助『銀の匙』を読む。

  「私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣(ひきだし)に昔からひとつの小箱がしまってある。それはコルク質の木で、板の合わせめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはってあるが、もとは舶来の粉煙草でもはいっていたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合いがくすんで手触りの柔らかいこと、蓋をするとき ぱん とふっくらした音のすることなどのために今でもお気に入りの物のひとつになっている。なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであったこまごました物がいっぱいつめてあるが、そのうちのひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分くらいの皿形の頭にわずかにそりをうった短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもってみうるとちょっと重いという感じがする。私はおりおり小箱のなかからそれをとりだして丁寧に曇りを拭ってあかず眺めてることがある。私がふとこの小さな匙を見つけたのは今からみればよほど旧い日のことであった。」(中央公論社版『日本の文学』16、377頁)

  引用したのは冒頭の部分だが、話はここから自分の生い立ちに入っていく。中勘助における銀の匙は、マルセル・プルーストにおけるマドレーヌである。違うのは『銀の匙』は『失われた時を求めて』ほどには長くないことである。『銀の匙』(前編)は漱石の後押しで東京朝日新聞に大正2年4月から53回にわたって連載され、読者の好評を得て(少なくとも漱石は大いに気に入り)、大正4年4月から6月まで後編が連載された。山本健吉は中勘助を評して、「事件やシーンの面白みではなく、人間の、いや自分の、第一義的に関心するものにしか興味を示さなかった」と述べ、『銀の匙』には「現在自分を形作っているものの遠い由来をたずねようという、リアリスティックな探究心が、裏にはある」と指摘している(『日本の文学』16、解説)。中勘助は明治18年の生まれだから、『銀の匙』前編の連載が始まったときは28歳である(プルーストが『失われた時を求めて』に着手したのは42歳のときであった)。中高年の作家が自分の幼年時代を振り返るのとは意味が違う。それは今風の言葉を使えば「自分探し」の一環であった。自殺と出家の願望の錯綜する中で、中勘助は『銀の匙』を書いたのである。しかし、その静謐な文章からはそうした動揺する彼の内面はうかがい知ることができない。文章を書くことは彼にとって一種の修行であっただろう。

  大学に着いて、3限の試験(現代人間論系総合講座1)の問題用紙を印刷し、解答用紙を準備する。試験には事務所から派遣された監督員の院生4名と、いつもTAをしてくれているI君、そして安藤先生も応援に来てくれた。基本的に監督員の方々に段取りはお任せしたが、決められたマニュアルに沿った進行で、入学試験並みの緊張感が漂っていた。受験者は262名(受講者は281名)。担当教員5名がそれぞれ1つの問題を作成し、学生はその中から1題を選択して解答するのだが、今年は大藪先生の出題した問題を選択した学生が多かった。私も安藤先生も教室を見回りながら、このことを確認して、安堵する(大藪先生、すみません)。試験終了後、各先生に採点をお願いするべく答案を研究室へ届け、自分の分についてはさっそく採点にとりかかった。18日に「日常生活の社会学」の試験があるので(受講生400名)、その前にこっちを片付けておかないとならない。夜、基礎講義のレポート(まだ提出が始まったばかり)にコメントを付ける作業にも着手した。さあ、箱根駅伝の往路第五区(山登り)のスタートである。