今日は5つの会議があった。最初の会議は欠席し、2つめの会議は大いに発言し(おかしなことを言い出す教員がいたからである)、3つめの会議は静かに拝聴し、4つめの会議は少しばかり意見を述べ、最後の会議は議長を務めた。最初の会議は10時40分開始で、最後の会議が終わったのは19時を回っていたから、フル出場をしていたら、途中で燃料が枯渇していたであろう。各会議体は他の会議体のことなど考えていないから、こうした会議のアナーキズムの世界の中に身をおいて生きていくためには、各会議体との距離のとり方を個人のレベルで調整しながらやっていくしかない。
いま、これを書いている時点で思い出したが、今日は社会学者清水幾太郎の誕生日である。101年前の1907年(明治40年)7月9日、清水は東京市日本橋区薬研堀町(現在の東京都中央区東日本橋)で生まれた。隅田川にかかる両国橋のたもと(両国国技館があるのとは反対の側)である。
清水はまず、社会学者としではなく、読書人・文筆家として私の前に現れた。最初に読んだ清水の本は『本はどう読むか』(講談社現代新書)であった。学部の3年生の頃であったろうか。知情意、三拍子揃った彼の文章に私は大いに魅了された。彼の書いた文章をもっと読みたくて、続いて『社会学入門』(潮文庫)を手に取ったことが、私のその後の人生のある部分を決定した。
「知情意、三拍子揃った」清水の文章の一例として、タウン誌『上野』(昭和39年8月号)に載った「上野の市民講座」という文章の一節を紹介しておこう。清水は旧制中学の3年生のときに関東大震災に遭い、それを一つの契機として、社会学の道に進むことを決心したのだが、そう決心した彼は、毎週水曜日の夜、新聞広告で知った市民講座(講師は社会学者で明治大学教授の赤神良譲)に通い始めた。
「中学の授業が終ると、徒歩で神楽坂から九段へ出て、それから神田の古本屋を一軒一軒覗いて時間を潰す。松住町の公衆食堂でカレーうどんなどを食べ、御成街道を歩いて、上野の山を上って行く。夏の夜もあったのだと思うが、私の記憶の中の会館は何時も寒く、その上、便所の臭気が会場を流れていた。講演が終るのは八時半か九時であったろう。いろいろの話を聞いたけれども、今でも覚えているのは、バース・コントロールの話くらいのもので、それはバース・コントロールという言葉自体が当時はひどくハイカラでモダンであったために違いない。
講演が終ると、私は暗い上野の山を下りて、広小路まで来る。そこを左に曲がって真直ぐに歩いて行けば、大きな暗闇の奥に私の小さなバラックがあるのだ。電車は私の横を走って行くが、私は歩く。御成町を過ぎて少し行くと、左側に、これも粗末なバラックのミルクホールがある。昭和の喫茶店ではなくて、明治から大正にかけてのミルクホールである。私はそこで一杯五銭のコーヒーを飲む。五銭というのは何も特に安いわけではない。私にとっては小さくない出費なのだ。コーヒーを飲み終ると、私は再び歩き出す。厩橋を渡って真直ぐに暗闇の中を歩いていく。まるで雑草のように焼跡のところどころに生えたバラックから電燈の弱い光が洩れている。
あの頃、勿論、中学は五年制であったが、四年修了でも高等学校の入学試験を受けることが出来た。(中略)私は是が非でも四年修了で東京の高等学校に入学したかったし、一日も早く東京帝国大学に入り、一日も早く立派な社会学者になりたかった。それなら、着実に受験勉強をすればよいに決まっているのだが、私は肝心の足元の仕事には一向に興味がなく、それを飛ばして、ただ遠い目標を見つめて昂奮していた。この癖は今日もそのまま残っている。
翌年の春、運よく高等学校に入学することが出来たが、今から考えると、電車に乗らないで、目白→神田→上野→本所と頑固に歩いたのも、必ず一杯五銭のコーヒーを飲んだのも、無事目標に到達したいという願いをこめた儀式のようなものであったと思われる。それと同時に、東京全体が大きな深い暗闇で、上野の竹の台と、御徒町のミルクホールと、本所のバラックだけに電燈がついていたように思われる。」
引用した文章のこの部分が「知」で、この部分が「情」で、この部分が「意」であるといった野暮な解剖はしないでおこう。
いま、これを書いている時点で思い出したが、今日は社会学者清水幾太郎の誕生日である。101年前の1907年(明治40年)7月9日、清水は東京市日本橋区薬研堀町(現在の東京都中央区東日本橋)で生まれた。隅田川にかかる両国橋のたもと(両国国技館があるのとは反対の側)である。
清水はまず、社会学者としではなく、読書人・文筆家として私の前に現れた。最初に読んだ清水の本は『本はどう読むか』(講談社現代新書)であった。学部の3年生の頃であったろうか。知情意、三拍子揃った彼の文章に私は大いに魅了された。彼の書いた文章をもっと読みたくて、続いて『社会学入門』(潮文庫)を手に取ったことが、私のその後の人生のある部分を決定した。
「知情意、三拍子揃った」清水の文章の一例として、タウン誌『上野』(昭和39年8月号)に載った「上野の市民講座」という文章の一節を紹介しておこう。清水は旧制中学の3年生のときに関東大震災に遭い、それを一つの契機として、社会学の道に進むことを決心したのだが、そう決心した彼は、毎週水曜日の夜、新聞広告で知った市民講座(講師は社会学者で明治大学教授の赤神良譲)に通い始めた。
「中学の授業が終ると、徒歩で神楽坂から九段へ出て、それから神田の古本屋を一軒一軒覗いて時間を潰す。松住町の公衆食堂でカレーうどんなどを食べ、御成街道を歩いて、上野の山を上って行く。夏の夜もあったのだと思うが、私の記憶の中の会館は何時も寒く、その上、便所の臭気が会場を流れていた。講演が終るのは八時半か九時であったろう。いろいろの話を聞いたけれども、今でも覚えているのは、バース・コントロールの話くらいのもので、それはバース・コントロールという言葉自体が当時はひどくハイカラでモダンであったために違いない。
講演が終ると、私は暗い上野の山を下りて、広小路まで来る。そこを左に曲がって真直ぐに歩いて行けば、大きな暗闇の奥に私の小さなバラックがあるのだ。電車は私の横を走って行くが、私は歩く。御成町を過ぎて少し行くと、左側に、これも粗末なバラックのミルクホールがある。昭和の喫茶店ではなくて、明治から大正にかけてのミルクホールである。私はそこで一杯五銭のコーヒーを飲む。五銭というのは何も特に安いわけではない。私にとっては小さくない出費なのだ。コーヒーを飲み終ると、私は再び歩き出す。厩橋を渡って真直ぐに暗闇の中を歩いていく。まるで雑草のように焼跡のところどころに生えたバラックから電燈の弱い光が洩れている。
あの頃、勿論、中学は五年制であったが、四年修了でも高等学校の入学試験を受けることが出来た。(中略)私は是が非でも四年修了で東京の高等学校に入学したかったし、一日も早く東京帝国大学に入り、一日も早く立派な社会学者になりたかった。それなら、着実に受験勉強をすればよいに決まっているのだが、私は肝心の足元の仕事には一向に興味がなく、それを飛ばして、ただ遠い目標を見つめて昂奮していた。この癖は今日もそのまま残っている。
翌年の春、運よく高等学校に入学することが出来たが、今から考えると、電車に乗らないで、目白→神田→上野→本所と頑固に歩いたのも、必ず一杯五銭のコーヒーを飲んだのも、無事目標に到達したいという願いをこめた儀式のようなものであったと思われる。それと同時に、東京全体が大きな深い暗闇で、上野の竹の台と、御徒町のミルクホールと、本所のバラックだけに電燈がついていたように思われる。」
引用した文章のこの部分が「知」で、この部分が「情」で、この部分が「意」であるといった野暮な解剖はしないでおこう。