フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

4月7日(木) 晴れ

2011-04-08 03:08:40 | Weblog

  8時、起床。ハッシュドビーフとパンと牛乳の朝食。 

  10時に自宅を出て大学へ。11時から教務部の方たちと今後の授業のあり方について懇談。計画停電は当面なくなったようだが、問題は7月である。授業は8月4日までだから、7月の授業が計画停電によってどのような影響を受けるか、どのように対応するか、いまから考えておかなくてはならない。

  今日は暖かい。春爛漫の暖かさだ。昼食は「志乃原」の野菜天せいろ。

  食後の腹ごなしを兼ねて神田川の桜を見に行く。見事に満開だった。

  早稲田界隈を散歩しながら大学へ戻る。



  7時まで教務室で仕事をして帰る。

  夜半、居眠りをしていたら、大きめの余震があった。なかなか気を抜かせてくれない。
  清水幾太郎は中学生のときに関東大震災に遭った。当時、彼は本所に住んでいて、それこそ九死に一生を得たわけだが、彼にとって関東大震災は戦争よりも大きな人生上の出来事になった。その彼が自伝『わが人生の断片』の中でこんなことを書いている。

  「地震の恐ろしさは、火災や洪水などの恐ろしさとは全く性質が違う。・・・火災や洪水は、外部から私たちを襲うのに対し、地震は、内部から私たちを襲うように感じられる。人間というのは、大地から生まれ、大地に縛りつけられている存在であるためか、大地が揺れ始めると同時に、人間そのものの最も深い箇所が揺れ始める。」

  これまで不安は生活の中の不安であったが、いまは、生活をまるごと包み込むもの、不安の中の生活であるように思う。私がTwitterを始めた無意識の理由のひとつはおそらくそうした存在論的不安であるだろう。Twitterの、緩やかで、広がりのあるネットワークというのは、不安の時代に灯された希望のひとつであると思う。そこでは、つぶやきは祈りに似ている。