7時、起床。メールをチェックしたら、武蔵村山さん(行きつけの歯科医院の歯科衛生士だった方)からメールが届いていた。3月31日が出産予定日だったが、どうしたかしらと気になっていた。さっそくメールを開けると、予定通り3月31日に男の子を無事出産したことが書かれていた。そうか、よかった。大変なときに生まれてきたわけだが、どうかたくましく育ってほしい。カレーライスの朝食。
8時半に娘と一緒に自宅を出て、阿佐ヶ谷へ。今日は娘が出演する劇団インハイスの公演がある。10時ちょっと前に会場である小劇場プロットに到着。30分ほど遅れて妻がやってくる。
地震のため、3月12・13日の公演が延期になったのだが、演目が変わった。いろいろな事情があるのだろうが、地震の後では地震の前に考えていたのと同じものはできないという気持ちがあったに違いない。今回の演目「Psyche」は11月の公演「愛の歌」に続いての朗読劇。舞台には3人の人間。手前の一人は立ち、他の二人は椅子に座っている。3人ともその場所を動かない。三角形の構図は最後まで変化しない。
わたしは
生きている
わたしは
鼓動している
ひとつ
ふたつ
みっつ、・・・
わたしは
呼吸している
ひとつ
ふたつ
みっつ、・・・
朗読劇は立っている女の、満を持しての、このような言葉で始まる。どこかしら震災後の世界を感じさせる言葉。どこかしらではなく、もっと直裁に、震災後の世界を感じさせる言葉がすぐその後に来る。
わたしたちが
わたしたちにより汚した空気を吸っても
わたしたちの吐く息が
きよくさえていることを
わたしたちが
わたしたちにより汚した水を飲んでも
わたしたちのこの声が
きよらかに
かなしみをそいでいくことを
わたしたちが
わたしたちにより汚した心にふれたとしても
わたしのあなたへの想いが
いつもうるわしくあるように
この一連の言葉は終盤で、再び、三度出てくる。鎮魂と祈り。
静かな劇である。その静けさは、役者の身体的な動きの少なさや、抑制された語り口、そして音楽や照明の効果によるところが大きいわけだが、それだけではなくて、物語の展開の仕方によることがあるだろうと思う。物語の展開の仕方、と今書いたけれども、正確に言えば、展開中の物語というものがここにはない。ここにあるのはすでに終ってしまった物語の回想と、これから始まるかもしれない物語への希求である。
ものがたり、?
それはなんなのか、
それはどこにあるのか、
わたしたちにはなにも見当がつきません
わたしたちはくるくると旋回しそらに舞い上がり
そしておりたったそこには
一ぽんの、朽ちかけた木が、
いと、ものうげに、立っていたのでした。
さあ、ものがたりを。
私たちは日々、物語を生きている。物語とは日々の生活に、人生に、意味を与えるものである。
しかし「Psyche」の語り手は物語を失ってしまった。物語が展開する場所を失ってしまった。
いま、降り立った新しい場所で、語り手はかつての物語を回想し、これからの始まるかもしれない物語を希求する。ひとつの物語がすでに終り、次の物語はいまだ始まっていない、そうした物語の不在の時間、物語の真空地帯で、「Psyche」は一本の木のように立っている。静かな風景だ。
技術的なことを言えば、「Psyche」にはいろいろと改良すべき余地がある。たとば、役者はもう少し多い方がいい。一人の役者が複数の声を兼ねるより、基本的には声と役者とは一対一の対応をした方がよい。その方が、観客に親切だからというだけでなく、朗読劇は言葉と声が主役だから、合唱、独唱、輪唱、フーガなど声楽的な技法をあれこれ駆使するために声の数はある程度多い方がいいと思う。今後も朗読劇という形式の可能性を追求していくのであれば、可能性が十分に展開するための人口学的要素を備えておく必要があるだろう。
昼食は「ミート屋」という地元では有名なスパゲッティ屋で食べた。メニューはミートスパゲティのみがだ、トッピングで変化をつけることができる。私は温泉卵、妻は揚げ茄子をトッピング。カウンターのとろこに食べ方が指南されている。とにかくよく混ぜること。そして早く食べること。
食後のコーヒーは帰宅してから、改めて散歩に出て、「テラス・ドルチェ」で。
さあ、ものがたりを。