フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

8月24日(水) 晴れ

2011-08-25 02:47:36 | Weblog

  8時半、起床。焼きソーセージ、レタス、トースト、オレンジジュースの朝食。

  午前中、書斎で仕事をしていると、ケータイにMさんからのメールが届いた。本日退院とのこと。やっぱり午前中に届くメールはグッドニュースだ。7月14日の大手術から一月と10日目の退院である。本当によく頑張った。これからもまだ治療は続くのだが、室温が常時一定に保たれている病室を出て、季節の移ろいを肌で感じられる生活が待っている。 病院食ではなく自分の食べたいものをその都度食べることのできる生活が待っている。歩きたい道を好きなように歩くことの出来る生活が待っている。愛犬のトイプードルを思い切り抱きしめることのできる生活が待っている。退院おめでとう。今日はたまたまお母様の誕生日とか。二重におめでとう。

  昼から大学へ。青空に白い雲。積乱雲も育っている。
  研究室でゼミ4年生のTさんとU君のインタビュー調査のケース報告を聞く。 

 

  昼食は「ぷらんたん」のランチ(ナポリタンとコーヒー)。今日は二階に上がってみる。一階よりもこちらの方が広くて落ちつく。コーヒーをお替りして(無料)、日誌と読書。  

  帰りに飯田橋ギンレイホールで『英国王のスピーチ』を観る。実は一昨日観ようと思って、映画館の前まで行ったのだが、シネマクラブの会員証の入った財布を教務室の机の上に忘れてきてしまって、観られなかったのだ。平日ではあるが、流石にアカデミー賞(作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞)を受賞した作品だけあって、けっこう混んでいる。前から二列目の席に座る。
  兄エドワード8世が離婚歴のある女性との結婚を選び王位を退いたために急遽王位を継承することになったジョージ6世は子どもの頃からの吃音のためスピーチが苦手だった。いや、苦手どころか恐怖といった方がよいほどだった。その彼が、妻(エリザベス)の励ましとスピーチ矯正の専門家(ライオネル)のサポートによって困難に立ち向かっていく物語。
  英国王室という特殊な世界の物語であるが、周囲からの役割期待に応えられずに苦しむ主人公に観客は自分自身を投影することができる。 人見知りをする営業マン、料理が不得意な主婦、授業が下手な教師、子どもが嫌いな保母さん、楷書が苦手な書道家、銃を撃つのが怖い警察官、緊張すると指先が震える外科医・・・そういう人はたくさんいるのではないかと思う。個人は役割の複合体で、われわれは日々、何者かを演じているのだとすれば、役割期待に応えるための能力や資質にコンプレックスを感じているというのは、演技する動物としての人間の宿命だといってもいい。その意味で、国王の苦しみは庶民の苦しみでもある。だから応援してしまう。
  ラストは国王が国民に向かってラジオの生放送でナチスドイツとの戦いへ向けて国民の気持ちを一つにするためのスピーチを行うシーンである。感動的なシーンなのだが、私は少し醒めていた。だって、戦争を始めるスピーチなのである。われわれの天皇が戦争を終えるスピーチ(玉音放送)を行ったのとは実に対照的である。昭和天皇は吃音ではなかったが、かなり風変わりな口調でスピーチをされた。私たちは子どもの頃、その独特の口調をものまねした。世が世ながら不敬罪である。英国の子どもたちは国王の吃音をまねたのだろうか。それにしても、人々を戦争に向かわせるのも、戦争から手を引かせるのも、同じく言葉なのである。社会構築主義の考え方によれば、世界は言葉によって構成されている。言葉がすべてなのだ。スピーチとはその言葉を操ることであり、それに長けた者は、世界を思うままに操ることができる。すごいなと思う。怖いなと思う。不幸にして、あるいは幸いにして、日本の戦後の総理大臣の中にスピーチの名手は一人もいなかったのではないかと思う。    

  夜、敷いた蒲団の上で、チュンの飛行訓練。掌にのせて、そこから軽く空中へ放り出すと、羽ばたきながら落下する。少し前まではバランスを失ったヘリコプターのように落下したものだが、今日は、鳥人間コンテストの出来のいい機体のようにきれいなラインを描きながらソフトランディングをする。本人もまんざらではないようである。2年前の夏、初めて飛行訓練を一緒にしたときを思い出す。もしかしたら、もう一度、飛べる日が来るかもしれない。