8時、起床。
パンと昨夜のカレーの朝食。
11時に家を出て、大学へ。
12時15分から36号館AV教室で現代人間論系の進級ガイダンス。たくさんの1年生が来てくれたが、ガイダンスそのものは予定の時間を10分も残してあっさりと終わってしまった。時間がないだろうと抑制していたが、これなら自己紹介のときにもっとたくさん話をするのだった。
1時からカリキュラム委員会。
委員会が終わって(2時45分)、次の予定まで少し時間があったので、委員会で一緒だった武田先生と「フェニックスカフェ」でおしゃべりをする。武田先生はコーヒー、私は昼食がまだだったので、チキンライスとコーヒーを注文。
武田先生は文学部の映像演劇コースの所属であるが、私とは2年間一緒に教務をやった仲で、同い年だ。私のブログの読者でもあり、感想のメールをいただくこともある。
今日は拙著『日常生活の探究』の感想を語っていただいた。ご専門の立場からの物語論(ジェラール・ジュネットやウラジーミル・プロップや蓮見重彦)のお話もありがたかったが、『探究』で提言しているライフスタイル(それは私が日々の生活の中で実践しているものであるが)との比較の中で、武田先生ご自身のライフスタイルの非社交性について反省的に言及されていたのが興味深かった。
還暦間際の人間が長年のライフスタイルを変えるというのは簡単ではない。武田先生も非社交的生活からの脱却を志向されながらも、では、実際に何かそのための行動をされているかといえば、お話を聞く限りでは、そうでもないようである。非社交的生活にはそれなりの良さがあるし(たとえば「心の静けさ」といったもの)、なにより長年のライフスタイルは自身の身体にフィットしている。無理に着替えるには及ばないと思う。
私自身の生活が現在のように社交的にものになったのは、『探究』の中で書いたように、教務的な日常、震災、親しい人の死、この3つをたまたま同時期に経験したことがきっかけである。実際、それ以前の「フィールドノート」には、「食べ物」や「本」や「映画」や「美術展」や「散歩」の話題はいまと同じような頻度で登場するが、「他者」はそれほど登場しない。「他者」とのかかわりは自分からそれを求めずとも普通に生活していればある程度は自然発生的に生じるもので、当時のブログに登場する「他者」はそのレベルを超えるものではなかった。
4年前(2009)の11月の「フィールドノート」を読み返していたら、是枝監督の映画『空気人形』の中で吉野弘の「生命」という詩が使われているという話を書いていた。それは以下のような詩だったが、社交的生活への志向自体は、以前から私の内部に存在していたのだろう。
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私もあるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
研究室に戻って、3時半からAさんのゼミ論の個別相談。
6時に大学を出て、駅に向かう途中、あゆみブックスで以下の本を購入。
又吉直樹『東京百景』(ヨシモトブックス)
川上弘美『猫を拾いに』(マガジンハウス)
又吉の本を電車の中で読み始め、蒲田に着いて、「シャノアール」でもうしばらく読む。
又吉はお笑い芸人の中の読書家として知られている。本のタイトルも敬愛している太宰治の『東京八景』と『富嶽百景』を合成したものである。内容は、彼のお笑い芸人としての修業時代の話で、それを東京の具体的な街の記憶とともに語っている。佐多稲子の『私の東京地図』を彷彿とさせる。
7時半、帰宅。今夜の献立は秋刀魚の干物、卵焼き、混ぜご飯、大根の味噌汁。