フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月29日(日) 晴れのち雨

2014-06-30 11:29:51 | Weblog

     8時半、起床。

     コンビニに食パンを買いに出たが、気が変わって、「phono kafe」に食べに行く。

     11時半開店で、12時前に行ったのだが、すでに先客が2人いて、3つあるテーブルの残りの1つに私が座り、続いて2人連れの客が来て、奥の和室を使い。さらに1人客が来て、カウンターに座った。これで満席。

     ご飯セットを注文。惣菜三品は・・・

     ネギポテトの油揚げ包み

     ベジミートと夏野菜のトマト煮

     つるむらさき、なめこ、大根葉のわさび醤油

     満席なので、そそくさと食べて、次の客が入ってきたら席を立とうと思ったが、次の客は来ず、そのうち先客が店を出て行ったので、しばらくのんびりすることにした。

     食後にリンゴジュース。大原さんとしばらくおしゃべり。

     次の客が入ってきたところで店を出ると、ずいぶんと日差しが強くなっていた。

     昼寝をしてから、ジムへ行く前に、お八つ代わりにちょっとパンでもお腹に入れておこうと。 

     ところがこの直後から激しく雷雨が降り出して、ジムへ出かけるのは断念。

     こんなことならお八つはやめておけばよかった。

     夕食は鰹のたたきのニンニクポン酢がけ。たくさん食べる。明日は絶対にジムに行かねば。

     深夜、角田光代の短篇小説「もうひとつ」を読む(『平凡』所収)。

     4人の男女がギリシャ旅行に出かける。男女の一組は夫婦だが、もう一組は夫婦の友人で、それぞれ夫と妻がいるが、親しい関係にある。グループでの旅行という名目で、不倫旅行をカムフラージュしている。その二人がギリシャの島の教会で結婚式(のまねごと)をしたいと言い始める。夫婦はやめておけと忠告するが、二人は本気である。女は語る。

     「もうひとつの人生ってのがあるって、信じてみたいんだよ。・・・(中略)・・・私は今ここにいて、私の人生らしきものを生きていて、ここからはもう出られないと思ってる。出てしまったらもう自分の人生ではないと思っている。でもそうじゃない。今いるところから出れば、きちんともうひとつ、私の人生がある。そう思いたいの。この旅行でそんなふうに思ったの。それを忘れないための何かがほしいと思ったの。」

     その「何か」が結婚式(のまねごと)であるというわけだ。

     大学の同級生である夫から彼女は暴力を日々受けている。周囲は離婚を勧めるが、そのつもりはない。自分がいなければこの人は駄目になるし、けっこうやさしいところもあるのだという。いわゆる共依存である。そういうリアルな人生を生きながら、同時に、彼女はもうひとつの人生を生きたいと思うのである。これは、まさに多元的自己の自己物語ではないだろうか。

     私たちは人生の岐路に何度も立って、その度に、何かを選択し、何かを断念するという生き方をしている。選択されたものの集積としてリアルな人生は構成されている。断念されたものは、ときおり空想の中で、「もしあのときああしていたら」という形で繰り返し生きられることになる。私たちの自己物語はリアルな世界と空想の世界の中では多元的なのであるが、この小説の登場人物は、リアルな世界と空想の世界という区別をあいまいにして、リアルな世界の中での多元的な自己物語を生きようとしているのである。

     小説「もうひとつ」はさらに思わぬ展開をするのだが、それはここでは触れずにおく。短篇小説集『平凡』に収められた他の作品も、「もうひとつの人生」をテーマにしているようである。面白い。