フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月3日(水) 雨のち晴れ

2015-06-04 02:35:16 | Weblog

葬儀社の担当者との打ち合わせ。葬儀の日程を町内会の組長さんに連絡。ご近所の母がとくに親しかった方々に直接出向いて挨拶。銀行へ行って当面必要なお金の引き下ろし。親戚や母の友人に電話で連絡。焼香に訪れてくださったご近所の方の応接。今週の残りの授業の休講と補講の課題ついて電話とメールで連絡。・・・そうやって一日が過ぎた。

自宅に焼香に訪れてくださった方は、ほとんどが女性であり、彼女たちはみな涙を流してくださった。私もあんな風に涙を流せたらよいのだが・・・・母が亡くなって30時間ほどが経過したけれど、私はまだ一滴の涙も流していない。忙しくて悲しみに浸る時間がないのではなく、たぶん、それほど悲しくないのだと思う。自分の胸の中をのぞいてみるに、悲しみという感情はそこにはないように思う。切なさはある。それは悲しみに類似しているが、悲しみとは別のもの、あるいは悲しみの一種だとしても軽度のものである。

いま、一番大きな感情は、安堵感であるように思う。仔細にみると、その安堵感は複合的なもので、第一に、母が病んだ身体から解放されたことの安堵感であり、第二に、「親を看取る」という子としての役割を遂行できたことの安堵感であり、第三に、母の看病から、あるいは母という存在から(身体的に)解放されたことの安堵感である。村上春樹的用語法ではなく、普通の意味で、「やれやれ」という気分である。

9年前に父が亡くなったときと同じだ。

メールや電報でお悔やみを言って下さった方々にこの場を借りて御礼申し上げます。わざわざありがとうございました。