6時半、起床。
トースト、鶏の唐揚げ、サラダ(トマト、ベビーリーフ)、紅茶の朝食。
昨日の記事をブログにアップする。
昼食は冷やし中華(胡麻だれ)。
午後、母の友人のSさんが娘さんと一緒に焼香に来て下さる。
曇りがちだった空が夕方になって晴れる。
夕食はカレーライス。
ダーグ・ソールスター(村上春樹訳)『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』(中央公論新社)を読み終える。母の入院中に読み始め、途中で母が亡くなったため、しばらく中断していた。母のいた世界と母のいなくなった世界を架橋する読書となった。
とは言っても、小説のテーマは母の生死とは関係がない。風変わりな小説だった。最初は中年の男が妻子と安定した仕事を捨てて女のところに走るという(フィクションの世界ではわりとよくある)話かと思ったが、それは物語の序幕に過ぎなかった。訳者である村上春樹は「あとがき」で次のように語っている。
「とにかく不思議な小説だというのが、読み終えて本を閉じたあとの僕の偽らざる感想だった。タイトルだけではなく、中身もそれに負けず劣らずユニークだ。よくわけがわからない、と言ってもいいくらいだが。それでもとにかく面白い。「この話はいったいどうなるんだろう?」と思いながら最後まで息もつかずに読んでしまう。しかしなにしろけったいな話である。/何が変と言えば、まずその小説スタイルだ。いったい何が新しいのか古くさいのか、それすらうまく判断できない。文体や筋立ては一見してかなり保守的なのだが、全体的なたたずまいはむしろ前衛的ですらある。僕はこの本について「それはどんな小説ですか?」と誰かに訊かれるたびに、「そうですねえ、コンサバな衣をまとったポストモダンって言えばいいのか・・・」ととりあえず答えてきたのだが、それ以外の適当な表現はいまだに思いつけずにいる。」(249-250頁)
同感である。
主人公のある「企て」がこの小説の核心である。その「企て」の話は小説の途中、中間地点よりも少し手前の辺りで突然語られ始め、しかし、その後、大学生になった主人公の息子が彼の家にやってくるところで中断し、もしかしたらあの「企て」の話はたんなる通りすがりのエピソードだったのかと読者が諦めかけたあたりで、マラソンレースでいえば「35キロあたり」(ここからが勝負所!)で再浮上して、一気に実行に移される。
あの「企て」は一体何のために行われたのだろうか。小説の中では、主人公も自分の「企て」の意図をうまく説明できずにいる。しかし、私にはわかる気がする。主人公はそれまでも人生を演劇的に生きてきた。社会学的な目で見れば、人は誰でも役者なのだが(役割理論)、自分の生活の演技性を自覚している人はそれほど多くはない。アマチュアの劇団で俳優も経験している彼は生活=人生の演技性について普通の人よりも自覚的であったと思う。そもそも妻子と安定した地位を捨てて女のところに走るという行為もその演劇性(ドラマチック)に自ら酔っているところがあった。「企て」は生活=人生の演技性をより徹底化し、虚構性と呼ぶべきものへ昇華するためのものだったのではなかろうか。そして、その際、その「企て」に加担してくれる数人の他者と「秘密」を共有することで、宿命的な孤独から救済されることを期待したのだろう。