6時半、起床。
パン、サラダ(ハム、トマト、レタス)、紅茶の朝食。
9時半に家を出て、郵便局で用事を済ませてから(1時間ほどかかる)、大学へ。
昼食はコンビニで購入したもり蕎麦(大盛り)と鶏肉のつくね。容器から出して、蕎麦は皿に盛り、汁は器に入れて、食べる。昔のコンビニ蕎麦と比べると大分進化している。昔は蕎麦をほぐすための水など付いていなかったと思う。
昼休みの時間にゼミ3年生の発表事前相談(KさんとSさん)。
3限も別のグループの発表前事前相談(NさんとMさん)。前のグループのKさんも引き続き参加。おしゃべりが楽しくてしかたないらしい。
4限は4年生のゼミ論個別指導(Sさん)。Sさん本人を含めて、みんなの就活状況を尋ねたら、案外、みんなのことは知らないようである。恋愛についてはあれほど互いに語り合う(恋バナ)彼らであるが、就活については話題にするのがタブーのようである。不思議といえば不思議である。なんでだろうととSさんに尋ねたら、曰く、「恋愛は、いま恋人がいない人も、来年はできる可能性がありますが、就活はそういうわけにいかない(追い詰められている)からではないでしょうか」。なるほどね。でも、みんなのことは気になるようである。コースナビに就活について語るBBSでも設置してみようかしら。
5限は3年・4年合同ゼミ。3年生3人が発表し、4年生がもっぱらコメントを述べる。
休憩時間のスイーツは4年生のNさんが用意してきてくれた。
6限は学年に分かれてのゼミ。私は3年ゼミに出る。机の配置を替えましょう。
ロの字型の配置がディスカッションには一番。
さあ、始めようか。
もっと元気出して!
30分ほど延長して終了。
研究室で雑用を片付けてから、8時半頃大学を出る。あゆみブックスで本を数冊購入してから地下鉄に乗り、神楽坂で途中下車して、「トンボロ」に寄る。
夕食をとりながら、買ったばかりの本に目を通す。
蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』下(講談社文芸文庫)
又吉直樹・堀本裕樹『芸人と俳人』(集英社)
岩本茂樹『自分を知るための社会学入門』(中央公論新社)
ピーター・バーガー(森下伸也訳)『退屈させずに世界を説明する方法ーバーガー社会学自伝』(新曜社)
池澤夏樹=個人選「日本文学全集」22『大江健三郎』(集英社)
たらこスープスープスパゲッティ。
クロックムッシュとコーヒー(Aブレンド)。
「大江健三郎の文学の根底には、人間は自分たちの叡智で安定した幸福な社会を作ることができるか、という大きな問いがある。」(池澤夏樹「解説」)。
いま手元に本がないので、記憶が頼りなのだが、庄司薫の小説『赤ずきんちゃん気をつけて』の中で、主人公の薫くんが東大生で丸山眞男(と思われる法学部の教授)ゼミで勉強している兄に「どんな勉強をしてるの」と尋ねた時に、兄が「みんなが幸福になるためにはどうしたらいいかを考えているんだ」と答える場面があった。「みんなの幸福」は当時の(意識の高い)東大生の共通の関心テーマだったのだろうか。
「社会学をネタにしたジョークはごくわずかしかないが、その一つがここでピッタリだ。ほぼ間違いなく余命わずか一年と医師に告げられた患者。このおそろしい宣告を受け容れたあと、どうすればいいかと医師に訊くと・・・「社会学者と結婚して、ノースダコタに引っ越しなさい。」「それで治るんですか。」「いや、治りはしないけど、一年をずっと長く感じるよ。」 この数十年、社会学は二つの病を患っているー方法論的フェティシズム、すなわち数量的手法になじむ現象だけに研究を限定する傾向と、昔ながらのお題目をただくり返すだけ(時にボキャブラリーだけ増える)のイデオロギー的プロパガンダである。」(『退屈せずに世界を説明する方法』、4頁)
「一度しかない人生です。できれば、与えられた生を深く意味あるものとして味わいたいと願う人間の姿は、欲張りでなく当然だと私は思います。社会学がそのことに寄与する学問であると自負する私としては、少しでもみなさんに社会学を知っていただきたいのです。その願いを込めて、社会学に魅了されていた私の感度をお伝えすることができればうれしい限りです。」(『自分を知るための社会学入門』、3頁)
「子供の頃から、俳句に対する憧れはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいた。なにが恐ろしいかというと、難しくて解らないことが恐ろしかった。自分なりに俳句を鑑賞し、感じたことを正直に、「この句はこうだ」と勇気を持って解釈を披露したとして、俳句に詳しい人から、「お前、なに言うてるん? お前の解釈めっちゃダサいやん!」などと言われるのではないかという恐怖である。これは、僕にとってあらゆる恐怖の中でもかなり上位に来るスペシャルな恐怖である。」
「だから、『凡庸な芸術家の肖像』は一種の突発事故のようなものとして始まり、それに対処する暇もないままに書き終えられた書物だといえるかもしれない。事実、あらかじめ素描されたプランもないまま、これといった方法意識も持たずに書き継がれていったという意味で、書くことと読むことが、ここでは同じ一つの身振りのようにかさなりあっていた。だが、おそらくは、一冊の書物の執筆を突発事故と呼ぶことそのものが、凡庸な心の動きというものなのだろう。とはいえ、凡庸さという概念そのものの生成をめぐっては、いささかの言葉を書きつらねることもできようかと思う。フローベル的な愚鈍さの対極に、相対的な聡明さに自足しうる精神と、その精神に一つの役割を演じさせることで社会を安定させる力学の支配とが浮き上がってきたのである。才能の欠如が凡庸さを作るのではなく、他を凡庸と断じうる判断の根拠のならざる根拠が、さしたる理由もないままに文学的創造を支えることになる時代にわれわれが暮らしており、そのことを歴史的現実ととらえる視点を文学が欠いているという思いが、発生時の凡庸さの分析と記述へと向かわしめたのだと思う。近代の発明品にほかならぬ凡庸さを、せめて消極的なイメージとしてでも浮かびあがらせてみたい。マキシム・デュ・カンという個体は、その試みを遂行するにあたってのとりあえずのモデルにほかならず、そうした役割に最後まで耐えてくれたデュ・カンに対しては、だから、感謝の気持ちを捧げることしかできない。」(『凡庸な芸術家の肖像』下、「あとがき」、426-427頁)
今日は昼から夜にかけて8時間ほどずっとしゃべっていた。その反動だろう、今夜の「トンボロ」は「おしゃべりカフェ」ではなくひたすら「もの思いカフェ」だった。読書はおそらく孤独の技法(孤独と付き合うための技法)の中で最上のものである。
11時、帰宅。