フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月20日(火) 晴れ

2010-07-21 09:03:42 | Weblog

  8時、起床。今日は一段と蒸し暑い。シャワーが心地よい。夏は朝と夜、1日に2度シャワーを浴びる(ジムに行った日はジムでも浴びるから3度になる)。シャワーは温水である。その方が疲れが取れるし、後から涼しい。研究室ではクーラーを使っているが、書斎では使っていない。元々クーラーがあまり好きでないということもあるが(部屋の外との温度差が気持ち悪い)、冷気が小雀のためによくないのではないかということもある。雀というものがどのくらい暑さに強いのかわからないが、クーラーというのは明らかに不自然な代物だから、動物にとってよいとは思えないのである。


挽肉のそぼろ煮、トースト、牛乳の朝食


「もう暑くてかないまへんわ」(なぜか関西弁)と言っているのかもしれない

  昼から大学へ。1時から大学院の社会学コースの会議。
  4時半から二文生のMさんの卒論指導。明後日が提出日であるが、その日の午前中に製本に出すそうなので、正味、今日と明日のラスト2日間である。途中から場所を研究室から「maruharu」へ移して(私が食事をとるため)、6時まで行う。
  6限は演習「現代社会とセラピー文化」。今日の方向は音楽班。音楽セラピーの話が中心だった。ユーチューブでミスチルの曲を聴かせてくれたが、もう少し長めに聴かせてほしかった(サビに入ったところで終った)。
  あゆみ書房で以下の本を購入。

  川西政明『新・日本文壇史3 昭和文壇の形成』(岩波書店)
  『大澤真幸THINKING「O」4号 特集:もうひとつの1Q84』(左右社)
  『考える人2010年夏号 特集:村上春樹ロングインタビュー』(新潮社)

  『天地明察』を読み終わる。直木賞を逃したが、審査委員の「もう一作みてみたい」という評は妥当と思う。面白い作品なのは確かだが、後半は前半に比べて筆の運びが粗いように感じた。扱う時間の幅が長いので、後半になるにつれて、同じ紙幅でより長い年月を描くことになり、結果として、録画したTVドラマを早送りで観ているような感じになった。こちらとしては最後までゆったりした時間の中で物語を楽しみたかった。


7月19日(月) 晴れ

2010-07-20 03:11:21 | Weblog

  8時、起床。世間は3連休の最終日であるが、うちの大学は授業日である。半期15回の授業を確保するために曜日によっては祝日でも授業をするのである。律儀である。もっとも私は月曜日の授業を担当していないので、大学には出ませんが。ハム&レタストースト、オレンジジュースの朝食。

  明日が締め切りの課題をすませ、昼食に冷やし中華を食べる。妻は初冷やし中華らしいが、私は今シーズン3度目である。最初は5月16日に蒲田の「石川家食堂」、2度目は6月17日に早稲田の「秀永」。「冷やし中華始めました」の宣伝にはすばやく反応する方である。我が家の冷やし中華の特徴は、ざるそばのように刻み海苔がのっていること。和洋折衷ならぬ和中折衷である。

  食後、録画しておいた『GM~踊れドクター』の初回を観る。大病院の総合診療科(GM)が舞台。東山紀之演じるスーパードクターのキャラが面白い。相手役の多部未華子もいい。彼女、役の中で、まぶたが腫れぼったいことをずいぶんといじられていたが、女優の顔をいじりのネタにするというのはある意味すごい。全体として期待はずれの目立つ今期の夏ドラマの中では楽しめそうな作品である。
  ジムへ。筋トレ2セットと有酸素運動(クロストレーナー)20分。高校の部活ではないのだから、ヘトヘトになる一、二歩手前でやめておくのがよい。。夏休みになったら、ラジオ体操代わりに朝(8時からやっている)に来るのもいいかもしれない。
  「緑のコーヒー豆」で一服。アイスカフェオレとお冷を2杯。100円でお替りのホットコーヒーが飲めるようだが、まだ頼んだことはない。私にとってはここは小休憩のためのカフェである。

  場所を「テラス・ドルチェ」に移して。本格的に読書。クリームソーダが普段より安かったので(今月のサービス)注文する。安いといっても480円は「シャノアール」のそれよりも100円高い。しかし100円高いだけのことはあり、メロンソーダが美味しい。近くの席の若者が「クリームソーダは、最初、アイスとメロンソーダを別々に楽しみ、後半、かき混ぜて飲むのが美味しいんだ」と言っているのが耳に入った。へえ、そうなのか、知らなかったな。私はクリームソーダをかき混ぜて飲むというのはしない。メロンソーダの透明な美しさが損なわれるから。でも、彼があんなに力説しているのだから、試してみる価値はあると思い(この辺が私の精神の柔軟なところである)、やってみたところ、うん、確かにこれはこれで美味しいと思った。前半は分離、後半は結合か。福本イズムみたいじゃないか。


7月18日(日) 晴れ

2010-07-19 09:23:33 | Weblog

  8時、起床。ハヤシライスのルー、トースト、牛乳の朝食。今日も夏らしいお天気。でも、まだ夏休みではない。むしろこれから試験やレポートの採点で忙しくなるのである。どう頑張っても8月までずれ込むのは必至だ。8月第一週でなんとか完結させたい。

  午前中、明後日が締め切りの日本社会学会大会のシンポジウム報告要旨の作成。A4用紙2枚なので昼までに終るかと思ったが、いざ取り掛かってみると、45字×45行の書式設定なので(普段は40字×36行)、けっこう分量があって、思ったより時間がかかる。いや、分量だけの問題ではなく、頭の中で思い描いて仕上げたつもりになっていたことも、いざ文字にしてみると、緻密さの要求水準がアップするので、そこで改めて考え直すことになるからである。
  コトコト作業を続けていると、本屋に出かけている妻から電話があって、東急プラザのお店で麻のジャケットで手頃なのをみつけたのだが、試着してみないとわからないから、いまから出てきませんかとのこと。髭をそり、着替えて、出かける。2着購入して、1着は包んでもらわずそのまま着て、散歩に出る。陽射しは強いが、風が適度にある。「甘味あらい」で宇治金時ミルク、「テラスドルチェ」で炒飯と珈琲。本と「ほぼ日手帳」(カズン)をショルダーバッグに入れておいたが、今日は読書ではなく、もっぱら書くことに専念。インプットとアウトプットでは後者の方がエネルギーを要する行為なので、アウトプットの気分のときはそちらを優先する。ゲルインクペンで、一文字一文字、白い紙の上に頭の中の思念を整理し可視化していく作業は、或る程度の気持ちのゆとりがないと出来ないことだが、それをすることで気持ちのゆとりが生まれてくるという面もある。文字の乱雑さ、丹念さはそのときの精神状態を反映するが、今日の文字はまずまずである。


池上


池上


「甘味あらい」


蒲田


「テラス・ドルチェ」


蒲田

  一二三堂で東海林さだお『いかめしの丸かじり』(朝日新聞社)、くまざわ書店で豊泉周治『若者のための社会学』(はるか書房)を購入。
  結局、報告要旨が完成したのは深夜だった。シンポジウムのコーディネーターの方にメールでファイルを送ってから、近所のコンビニに行って、ガリガリ君を一本買って、家までの帰り道で食べる。見上げると、そこには夏の星たちがいた。小学生の頃の私だったら、即座に星座を認識し、1つ1つの星の名前を言えたはずだが、いまはさっぱりわからない。


7月17日(土) 晴れ

2010-07-18 01:44:42 | Weblog

  9時、起床。昨日は私にしては早寝で(1時就寝)、8時間たっぷり寝た。梅雨が明けたようだと発表があったが、証文の出し遅れもいいところで、週の半ばには明けていたと思う。私が子どもの頃は、気象庁の梅雨明け宣言は間髪をいれずになされていた。その道のベテラン職員が、天気図をにらみ、しばし黙考、カッと目を開いて、「梅雨明け宣言出すぞ!」と裂帛の気合で叫んでいたに違いない(イメージ映像です)。それがある時期から腰が引けたようになった。「梅雨が明けたようにみられる」・・・梅雨明けらしからぬスッキリしない表現である。ハンバーグ、トースト、アイスカフェオレの朝食。

  昼食は妻がジム帰りに買ってきた調理パン。それを食べて、少し昼寝をしてから、ジムへ行く。筋トレ2セットと有酸素運動(クロストレーナー)20分。シャワーの後に体重を量ったら、4月以降の最小値を更新した。
  ジムを出て、近所のコンビニでガリガリ君を買って、路上でほうばる。さんまは目黒、ガリガリ君は路上が一番。「緑のコーヒー豆」で一服。アイスカフェオレを注文。外がまだ明るいときは地下の「シャノアール」よりも外光の入るこの店の方がよい。珈琲専門店であるにもかかわらずアイスカフェオレが300円と安いのも魅力である。セルフサービスのお冷のポットにはおそらく氷屋さんの氷が入っていて、ビンビンに冷えた水が美味しい。

  夕食はハヤシライス。NHKの土曜ドラマ『鉄の骨』を観る。初回と二回目を見逃して、今日から観たのだが、それでも面白い。いまや社会派のドラマはNHKの独壇場になっている。  


7月16日(金) 晴れ

2010-07-17 13:22:20 | Weblog

  8時、起床。太陽と青空と白い雲。あ、暑い。きっぱりと夏が来た。逃げも隠れもしない正真正銘の夏である。これで今日から夏休みだったらどんなにいいだろう。しかし自然の時間と社会の時間システムはそううまくは連動してはいないのである。
  シャワーを浴び、オムライスとグレープフルーツジュースの朝食。授業の準備をして、送り火をすませて、午後から大学へ。


蒲田駅のホームにて

  4限は講義「日常生活の社会学」。次週は試験なので講義としては今日が最終回。最終回らしく(?)「死」をテーマにとりあげて死の日常性と非日常性について「三人称の死(他人の死)」「二人称の死(身近な者の死)」「一人称の死(自分の死)」という角度から話をする。
  15日の読売新聞には4人の死が報じられていた。「西日本豪雨、2人死亡」(朝刊1面)、「1歳児、川に転落死か」(朝刊38面)、「増井光子さん死去 元上野動物園長、パンダ繁殖」(夕刊12面)である。3人は無名の人の死で、1人が有名の人の死である。無名の人の死が新聞に載るのは、災害や事故や事件と関連する場合に限られる。増井光子さんも私は面識はないので、他人の死という点では無名の3人と同じである。川崎洋の「存在」という詩に、「二人死亡と言うな。太郎と花子が死んだと言え。」という一節がある。「西日本豪雨、2人死亡」という見出しを見てその一節がよみがえる。記事の本文を読み、亡くなった2人の名前を確認する。77歳と72歳の女性であった。川で死んだ1歳児の名前も確認する。男の子でちょっと珍しい名前であった。4人のご冥福をお祈りする。
  人生で経験する悲しみの多くは身近な人の死である。私が以前、放送大学の学生を対象にして行った調査のデータによれば、最近5年間に経験した出来事のうち悲しさ辛さの強度の上位10は、「1.配偶者の死」「2.子どもの死」「3.母親の死」「4.子どもの非行」「5.中絶」「6.きょうだいの死」「7.失恋」「8.父親の死」「9.ペットの死」「10.子どもの病気・怪我」であった(11位に「友人の死」が来る)。大部分が家族の死によって占められている。もし昨日、小雀のチュンが死んでいたら、おそらく私は今日の授業の遂行が困難であったろう。
  他人の死はメディアなどを通して日常的に接しているものであり、身近な人の死はごくたまに日常の中に姿を現すが、これに対して「私」の死は非日常的な出来事である。人はだれも一生に一度だけをそれを経験するが(死の確実性)、いつ経験するかは定かではない(死の不確定性)。したがってわれわれは「私」の死については普段は考えないようにしてやりすごしている。ところが、現代人の死因で一番多いのはガンである(3人に1人はガンで死ぬ)。ガンは、心臓疾患や脳血管疾患と違って、数ヶ月、数年という長期にわたって人を「私」の死と対峙させるものである。つまり現代人は「私」の死をいやおうなく意識させられるのである。前近代から近代へかけて、性の脱タブー化が進んだのとは対称的に死のタブー化が進んだとされているが(病院への死の隔離、宗教の衰退)、現代では死についての語りが増えてきている(脱タブー化)といわれているのはこのためである。
  講義の終わりの方で、山崎章郎『病院で死ぬということ』の中の「野口さん」(仮名、40代男性、ガンで死亡)の手紙(息子さんにあてたもの)を朗読しようと思っていたが、時間がなくなったので、プリントを配って、黙読してもらった。久しぶりの朗読で、ちゃんと読めるか自信がなかったので(途中で声が詰まる可能性があった)、正直、時間がなくなってホッとした。

  5限の時間に会合が入る。6限ギリギリまでかかり、食事をとる時間のないまま、ゼミの時間が始まる。スイーツを当てにしていたら、3年生クラスは7限の自主ゼミの時間をコンパにあてるため、休憩時間のスイーツは今日はなしとのこと。ガックリする。7限の4年生クラスのスイーツはシュークリーム。ようやく食べ物を口にする。今日なら2個でも、3個でもOKだったが、1個だけだった。人生は思い通りにいかないものである。