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千葉市美術館、無縁寺心澄(むえんじ しんちょう)展

2023年03月28日 | アート・文化
 20日(月),千葉市美術館で開かれていた無縁寺心澄の展覧会に行ってきた。無縁寺心澄の本名は、藤井茂樹。1905年に千葉市で生まれ、1945年に亡くなっている。戦前の千葉市の原風景を描き続けた画家だった。1926(大正15/昭和元)年に川端画学校を卒業し、主に水彩やテンペラ画を制作、第9回帝国美術院展覧会第2部(洋画)に初入選、画学校卒業後三年ばかりの間は東京の図案会社に勤務し、退職後は制作に取り組む他、36年に千葉県美術協会の設立に参加、運営に尽力した、という。学校教育にも講師として助力し、言わば、千葉市の美術界全体の向上に寄与した人物だったようだ。戦前の軍国教育の中で美術家が活動する上で、あるいは、かなり困難をともなったのではないか、と想像される。


 わたしは戦後12年ほどしての生まれなので、戦火にあう前の千葉市については知らないが、子どもの頃の町並みには戦前の面影が残っていたように感じる。今回の展覧会では、陰の濃い作品が多く、人々が寄り添って暮らしていたころのことが偲ばれた。無名の作家のためか、入場は無料だった。有名無名にかかわらず、良いものを観る目を持ちたい。


 「妙見様のサーカス」1937-40年頃。「妙見様」とは、今の千葉神社のことだろう。戦前は、千葉神社の境内でサーカスがかかったのだろうか。ちなみに、「妙見」は北極星のことで、コンパスなどない時代には北極星が進路を決める指標となっていたので信仰の対象になっている。北極星は別名「北辰」ともいわれ、千葉氏も崇拝した。剣道の「北辰一刀流」は千葉周作によるが、そこに由来するらしい。


 「医大尖煙突」1931-35年頃。今の千葉大学医学部附属病院だろう。戦前は、千葉医大だった。


 「機関庫の昼」1930年。実は、この作品が観たいがために足を運んだ。機関庫は現在の千葉駅付近にあった蒸気機関車の車両基地で、主に機関車の切り換えや整備などをする為の施設だった。わたしの家は戦後この近くにあり、駅の移転にともない我が家も移転したのだった。この絵の建物などは戦災で焼けているだろうが、「昼」という時間にもかかわらず陰の多い暗い絵になっている。現在では照明が多く、この様な暗さを感じる場は少なくなっている。陰と陽、そのバランスが崩れた時、人の心も崩壊してゆくような気がする。

 余談だが、同時期には、南画の田中一村が千葉市内に暮らしていた。千葉にいた頃の一村の作品も個人的には好きだが、後に奄美大島に移り住み評価の高い多くの作品を残している。

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