King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

ボーリング必勝法に思う

2016年08月17日 11時49分24秒 | 日々のこと
如何にもまともなようなことを言われると
ひねくれた性格なのかそんなことあるかと思ってしまいます。

先日聞いた話で、ボーリングの必勝法を例えに物事を考え、
物事をよく観察して最善な道をえらぶという話でした。
それ自体は正当な話なのでしょう。

にしても、そもそもたとえに出されたボーリングの必勝法に
正統性と正攻法である証明がないため話にどうも乗れないと
思いました。

そのボーリングの必勝法とは連続してストライクを取ること
ですが、そのためには所謂ポケットを狙うことであり、それには
ストレートボールよりフックボールを投げることであり、フックボール
なら数センチ狙いがずれてもポケットをとらえる確率が上がるので
ボーリングの練習にフックボールを投げる練習をするのが勝利の
近道になるというのです。

一見至極まともな話に聞こえるのですが、これでそれならフックボール
を練習しようという気になれないのです。

まずは上級者ぶってフックボールを投げるやつが嫌いだという
こととボーリング場に通い詰めるやつがダサいやつという刷り込みが
あり、納得できないのです。

私は今まで通りボーリングは極希に気晴らしに連れ出される
ところで行けば素人ぽくトップピンにまっすぐ球をぶつけて勝負する
だけでいいと思えるのです。

何も勝つ方法を知ったからそれを習得するために足を運びたいと
思わないし、そうするだけの価値も見いだせないのです。

とすると何も正しい道を見つけてもそれを行くかどうかが自分に
選ぶ自由を持っているということを自覚できる健全性が自分にあると
思いたいし、みんながそうしているからそうしなさい的なものに
嫌悪感とかすかな危険を感じることも大事なんではないかと
言いたいのです。

民主主義とか社会とかでは特に。
コメント
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