今年のスキーと温泉の旅のお供です。
多くの人が新聞やラジオで推奨していて今更ながらに髙村薫がまた
新作を出したのだという思いで手に取った本です。実に読み出しは
昨年の九月です。これは読むのがつらいとかつまらないから進まないのでなく
もったいなくて大事に大事に自分の一番の時間に取っておいたものだから
スキーの温泉宿で一人でテレビもつけず読み継いだのです。
そして、物語はよいよ震災という未曽有の事件に遭遇し、主人公の脳細胞にも
病が襲うなど果たしてこの先の待ち受けるものはどんな結末になるのかという
これはドストエフスキーのカラマーゾフ的な話に感じられてきます。
日本に数多ある中山間地域に生きるお年寄りたちが何を考え何を思い、
生きているのか。それを綴るのに土を愛し、実験の様な農業をし、土と
ともに生き、そして最後はどこにでも起こりうることが起きると暗示して
いるかのような結末です。別にそれが起きても起きなくても終わりとは
こんなものだろうということで本当は終わりにしたくないのだけどという
作者のつぶやきが聞こえてきそうなペンの置き方でざわざわとした胸の
高鳴りがずっとこの山の中山間地の事を思い漂い日本人とはこういう
ものだなと思い出した時にはこれはやはりカラマーゾフ的だとまた
思います。
カラマーゾフのゾシマ長老の言葉と死が宗教と人の生と深く格調深く
物語をつつんだのと同じように別に仏教を真実のものとして深く信仰し
宗教に生きるでもなく、ただ生活としてお墓を守り、お盆の行事をし
死者を思うというありふれた日本人の宗教観がこの作品にはあり、
日本人のそういう宗教への思いとか祖先とかすべてが土とともに生きる
ということに結実しているさまをさりげなく描かれているもののこれは
正にカラマーゾフのゾシマ長老の語りと信仰の姿のように感じるのです。
今に生きるすべての日本人に大きな災害を経験し、未だ収まらない原発を
抱えながら、突如と襲う災害は各地に起きていつそれが身近なこととして
起こるかわからないそんな現状に平凡な日本人像を問えばこんな形という
ものがこの土の記となるのではないでしょうか。