King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

文化費用

2012年07月12日 11時05分17秒 | 日々のこと
増税の話で一番気になるのは、その使われ方
です。

いくらあげてもそれが無駄なものに使われていると
思えば増税なんてしてほしくないと思うのは誰しもで
それが、福祉だとか困っている人のためなどといえば
しょうがないと思います。

高齢化で年々増加する年金などの社会福祉費を賄うと
よく言われますが、やはり絞るべきものがまだあると
誰もが思っていることでしょう。

それを阻んでいるのが行政を握っている官僚だと
いわれ、現政権などはそれにこび取り込まれている
から増税してしまうんだと思われています。

実際、民主党の政権公約など天下り廃止や国家公務員
削減や議員削減などもできていないので、そうみられて
しかたないでしょう。

公共事業の削減や無駄なダムや道路などは作らないと
いいつつ、実際多くの公共事業は継続になり、さらに
新幹線などもさらに整備することになりました。

これらの目立つばらまきを全くやめず、世間にもあまり
見とがめられないばらまきも依然放置のままです。

文化財の保存や遺跡発掘など文化事業費などかなりの
ばらまきが行われていますがこれには全くマスコミに
取り上げられることもありませんし、どれだけ地方に
ばらまかれているかという議論もされません。

皆さんの地域の神社やお祭りの施設が新しくなったり
したことはありませんか。

最近、秩父地方でも神社がきれいになったり、祭りの
屋台やら笠鉾の改装が続いています。

こんな地方の一地域でもこれだけの金額が補助されて
いるとことを考えると国家規模でどれだけの金が
ばらまかれているかを思うと今抱えるエネルギー問題
やら原発問題など国家的に取り組めばどうにかなる
問題は結構どうにかなるのではと思わせます。

確かに今動かせる状況の原発を使えないのは企業に
とっては大きなマイナスで企業経営上稼働は必須と
なるのはわかります。

しかし、だからエネルギーの根幹が核でありつづける
とはまるで違う問題です。それは政府が国の政策と
して決断し規制する問題です。

それが今までのしがらみやら癒着やらと決別すること
になるとしても、ここ20年の経済の停滞をみればやる
べきことははっきりしています。

震災後やたらと地震予知やら津波の予想がにぎやかに
なりましたが、原因究明などの研究は必要ですが、今回
予知で大規模地震や津波の予測は出ていたし、それらの
研究や核物質の飛散シュミレーションなど全く活かされ
ていないことを見れば、こんな研究に時間と金を費やす
意味を考え直さねばなりません。

まず、色々な政府系の会議などで意思決定される際の議事録
さえ残さないとか何をやるにも誰も責任を取らず、事故調査会
の報告書に人災だと指摘されても誰も刑事告発もされず、
交通事故では毎年3万人も死んでるのに原発事故ではひとり
も死んでいないなどという不毛の議論に終始しています。

このばらまき体質のもとにあるものと行政の在り方と
根本から正していかないとこの肥大した体制ではいくら
増税しても足りないことにならないでしょうか。

議員削減にしても行政のスリム化も当の当事者が自らの
身を削る案を作っているわけで思い切った案ができるはずも
なく、それならそれができる第三者委員会とか仕組みを明確に
つくればいいのにそれすらできていません。

今までも賢人会議とか色々な調査会とか改革案とかはでては
消え、結局、政府にたかる人々は消えないのです。

それが、文化芸術の分野も例外でないという点は注目すべき
で学術的なものも例外ではありません。

御用学者などとはよく言ったものです。

芸術など文化的なものこそそういうものからは一線を引いて
存在していなくてはならないものではと思います。
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1 コメント

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no discussion (noga)
2012-08-06 04:02:28
日本人は、実況放送・現状報告の内容しか頭の中にない人間であるから、自己の世界観がない。
’諭され、言うなり、自主性のなさ’を特徴とする。
意思のない指導者は、既成事実の追認にばかり追われていて忙しい。
夢は見るもの、触ることのできないもの。幻は不確かなもの。
夢の世界と幻の世界に挟まれた、ごく狭い刹那を生きている。
日本人は、未来に向かった方向性はなく、現実の世界を迷走する。

無哲学・能天気の人びとには議論ができない。
自己の確たる進むべき方向を持っていない。相手の主張には消去法で応じる達人たちである。
ああでもなければ、こうでないと力説する。
不毛の議論になることは、目に見えているのだが、止めることができない。どこを見ても、お互い様だからである。
筋道立った考えが脳裏にたまるのではなくて、混沌とした思いが腹の底にたまってゆく。

混沌とした世界からでは、建設的なものは起こらない。筋がなく、理解が存在しない世界である。
しかたがないので、腹をくくる。理性的なものは何も残らない。世界観も示せず、説明責任も果たせない。ああ、むなしい。




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