King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

2011年03月23日 15時24分12秒 | 日々のこと
昨日の新聞はかなり強烈でシュールでした。

地震の被災者の埋葬が始まったというのですが、それが
火葬が間に合わず、土葬にされると言うのです。

その埋められる現場の写真が累々と積み重なる死体よりも
不気味なものをイメージさせました。

穴と穴をベニアの板で仕切った穴。

それは人がたどり着くところとしては余りに寒々しいもの
でした。

日本の新聞には祈っているとか祈りをささげたとかいう言葉が
載りますが、宗教的な意味とか目的となる神なりの存在を
ささないことが特長です。

じゃあ何のために祈ってるのか。

誰に訴えているのかとなるのですが、そういう話はしたがら
ないのが日本人です。

ですが、罰が当たったという表現は好きで、不誠実な事や
非道徳的な事をしたら現社会で不幸な事や悲劇的な出来事が
自身に襲うというのは信じているようです。

ですから、宗教的な事になっても地獄に行くとか末代まで
たたるというのもよく聞くことです。

キリスト教とかだともっと現実的で即物的なやりとりが
あります。

よく引き合いに出されるのは、詩篇の悪魔がキリストに
石をパンに変えろとかここから飛び降りてみろという話。

それと対極の話でカラマーゾフの兄弟の大審問官の話は
核心をつく話だと思います。

あいまいや馴れ合いではっきりと色分けすることなく人の顔色を
見つつ裁定して行く日本人社会にあっては、こうもはっきりと
した見方は誰しも導き出せないでしょう。

人間の血では罪は贖えないとしても。

なぜこうも災害で人が死んだり、飽きもせず戦争を始めたり
するのでしょうか。

結果はこの板じきりの穴でしかなく、生き残った人はそれでも
生きていただけで良いと言います。

私も再びキリストが現れても人々は捕らえまた殺してしまう
と思います。

人が悔い改めたり、苦しめられたりする事の正統な答えが
あるとしたら、それは宗教などのたどり着けないところだと
思います。

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