King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

furyに感じる世田谷ベース感

2018年07月18日 12時50分14秒 | 珈琲

先日テレビで見た『fury』

今まで軍曹の言うことを聞いてきたから生き延びてこられたと

いう隊員たち。

なぜ最後に逃げないで十字路に留まったのか。

戦車の性能としたら相手のティガーの方が格段に強く、この映画でも

4台の仲間があっという間にやられてしまう。

それでも最後の勝つのはシャーマンの訳で圧倒的な物量が勝因となる

のは致し方ないところ。

それにしても映画では動く戦車が使われたという、現在でも当時の物が動く形で

現存するというすばらしさに世田谷ベース的な趣向が働いてしまいます。

つまり、自分も所ジョージみたいにfuryを作ってみようかと考えてしまうのです。

もちろんティーガーも込みで。

 

しばし検索してそれらのモデルを作る自分を想像してみるとクーラー利かして

プラモづくりにふける自分はそんな不可能な贅沢ではないものの、いままでの

例でいうとプラモデルを注文した時点ですべて満足して積んでおかれるのがおちだと

解ってしまいます。

 

多くの試みがギター上達法の本やピアノや絵画の教本だけ積み重なり止まって

いるのです。

 

時間がないというより想像して本を買いもうそれでやった気になってしまうという

結局は現状を抜け出せないことに何かしらの理由をつけているだけです。

 

昔サラリーマン金太郎の中で暴走族が一般の人たちと一緒に走るイベントをやり

走る喜びを共有したといシーンがありますが、すごい違和感がありました。

そんなきれいごとではないのです。それと同じことで世田谷ベース的趣味の世界を実現

させたい人は多いのですが、それはまねしてやればよいのかということがもう失敗を

重ねすぎていると趣味でさえただやればいいという問題ではないことが解ってしまう

のです。

 

何かを極めようとすれば同じような道を通らざるを得ず、何かをなすことの困難さも

やがて来た道と思えてくるのでしょうか。

 

私にはいくつもの灼熱の記憶があります。

 

今でも毎日走りますので、汗まみれになって暑さにあえぐことは常にあることです。

 

肝心なのは自由なこころです。

 

珈琲でも何かにとらわれてしまっては正しいところは見えてこないのです。

 

今でも新しい釜を用意することを考えますが、電気のジェット焙煎や手編み焙煎など

はまたやりたいとは思いません。

 

それが正しいと思えれば、おいしい豆になるなら別ですが、そんなことから行けば

ピザ釜の方が簡単かもしれません。

 

薪釜ピザとわざわざ看板にしている店がありますが、それは炭火焼きコーヒーと

同じでしょうか。

 

店によっては薪焼きコーヒーもあります。

 

珈琲については火力が簡単に調節できない火は採用できません。

それに排気もできない手編みやテストロースターも使い続ける気にならないのです。

 

ピザのように機能や性能より情緒的に採用されているケースで店に

行く気にさせる戦略はあるでしょうが、オーブントースター程度の

火力があれば焼けてしまうものにどんな幻想を抱けというのでしょう。

 

先日角上本店に行かなくてもよかった話を書きましたが、実は地元のスーパーでも

時に生食のカキは並ぶことはあり、食べることもあります。最近ではホンビノス貝も

生きたものが並ぶのですが、カキの生食の場合、やはり食べる直前にさばいてもらわないと

やはり海の近くで食べたのでないとだめだとなってしまいます。しかし、スーパー

ではもうむいてきれいパックされレモンも添えられていたりします。

 

珈琲についてもどのように焼かれているかに気づかれる方が増えたらと

思わずにはいられません。鮮魚店がなくなってしまう町では無理なことのなのでしょうか。


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