先日の“ビールの話から”の記事にある講演者の道州制論から、道州制についての動画やコメントで賑やかになった。
そんなことを言っている時に、知人(H氏)から送られてきたネットジャーナルに先の選挙で史上最多得票で
東京都知事になった猪瀬氏の記事も、少し視点は違うが興味を引いたのでここにご紹介します。
******ジャーナルより******
Voice 2013年02月号 p80-87
「『東京国』が霞が関の壁を壊す」
猪瀬 直樹(東京都知事/作家)
【要旨】2012年12月16日、衆議院選挙と同時に行われた東京都知事選挙の結果、前任の石原慎太郎氏の元で
副知事を務めていた猪瀬直樹氏が史上最多の得票数で当選を果たした。
総力特集「安倍長期政権の力量」に含まれる本記事は、新都知事自らがこれからの都政における「改革」の方向性を示すものである。
猪瀬氏は『ミカドの肖像』『日本国の研究』等の著作で知られる「作家」である。
本記事では、作家としての自己アイデンティティを再確認し、その「ファクト・ファインディング」の力や好奇心、
問題発見力を発揮し、近代日本の大きな特徴でもある官僚主導の体制に対決を挑む、その姿勢
と方針について
歴史的経緯も踏まえながら論じている。
------------------------------------------------------------
僕の原点は作家である。作家というものは、一つひとつの出来事を必ず頭のなかにインプットしていく。
僕の作家としての責任、都知事としての責任にはどんな関係があるのか。
もともと日本の文学は、森鴎外と夏目漱石から始まっている。劇作家の山崎正和さんは、森鴎外を「闘う家長」と評している。
そうか、作家には責任があるんだ、と思った。
「家父長制度」という言葉は、戦後、忌み嫌われるようになったが、それは制度としては欠陥もあったからで、
責任を取るという意味での家長の意識は必要である。家長の意識とは、自分も国家の構成要
素、
つまり一部分を担っていて、自分で責任を負うという意味である。体制にただ不満をぶつけているより、
どうやって解決できるか、道筋を示したほうがいい。
一方の夏目漱石のほうはどうか。『こゝろ』という小説がある。誤解を恐れずにいえば、あんなに内容がない小説はない。
いわば放蕩息子たちが自分の内面を語っているだけの小説である。
漱石のあと、芥川龍之介が出てきて、『藪の中』という小説を書いた。人物がそれぞれ内面を語っていて、
犯人が誰かわからない。しかし、謎が謎のまま終わってしまうのは、文学ではない。いちばん重要なのは「ファクト」である。
『藪の中』は、漱石の放蕩息子の系譜に連なる作品だ。家長の責任がない文学なのである。
日本の新聞も、放蕩息子の系譜の小説と同じようなところがある。いまの新聞はたんにダメだ、ダメだといっていれば、
商売が成り立つと思っていないだろうか。森鴎外のような「闘う家長」としての意識がない。
だから僕は、1997年に『日本国の研究』を書いた。この本では特殊法人、認可法人、公益法人など、
政府系の法人について書いたが、三者は複雑に絡み合い、地下茎のように自己増殖していた。
それだけでなく補助金漬けで、天下りの素地となっており、民業を圧迫していた。寄生虫のように国家財政を食い荒らしていた。
霞が関の官僚、虎ノ門の特殊法人、そして永田町の族議員。この秘密のトライアングルの構造を解き明かしたとき、
僕は道路公団の民営化をはじめ、あらゆる問題がゼロになる、解決できると思った。
僕の作家としての武器、それはファクト・ファインディングである。国民はもちろん、新聞記者も、政治家も、
官邸にいる総理大臣も知らない、そんなデータを官僚側に提出させるには技術がいる。
空欄の表まで全部用意して「こことここに書き込め」と具体的に要求しないと、官僚はデータを明らかにしないのだ。
ところが、現在のメディアの記者は結局、記者クラブで情報をいただいてきて「行政情報」を宣伝してしまう。
新聞社やテレビ局は必ずしも「われわれ側」の代弁者でないのだ。
一度、僕は新聞社やテレビ局の人間を前にはっきりいったことがある。あなた方と東京電力の社員はどこが違うのですか、と。
一本道のレールだけがすべてだと思っていて、それに疑問をもたない。リスクはけっして取らない。
これは財界にもいえる。本田宗一郎やソニーの盛田昭夫のような創業者精神をもつ人間はいなくなり、
長く無難に勤めてきたような人が社長になる時代になった。このままではきっと日本はダメになるだろう。
そんなことを、僕は都知事選の最中に考えていた。
以前、鳥居泰彦さん(元・慶應義塾塾長、財団法人交詢社理事長)の話を聞く機会があった。
日本近代の成り立ちについてである。次のような内容だ。
明治10(1877)年、伊藤博文はヨーロッパに行き、ウィーン大学のシュタインの講義を聞いた。
シュタインがいうには、日本がイギリスのような議会政治を採用したら、百家争鳴となって何も決まらなくなる。
だから、まず官僚機構をつくり、官僚がつくった政策を議会で承認するような憲法を採用す
べきだと。
こうして明治憲法ができた。近代日本は官僚が指導する国になったわけだ。
戦後の教育では、戦前の日本は天皇主権の国であり、戦後は国民主権の国になったと教えられた。
しかし、これはまったくのウソである。日本は戦前も戦後も、官僚主権の国である。官僚機構は価値観をもたない。
ひたすら先行モデルをコピーする。戦前の日本は欧米の帝国主義を学んだ。アメリカとの戦争に敗れると、今度はアメリカをコピーした。
日本の官僚は、アメリカのモデルをコピーしたが、地方自治の概念は学ぼうとはしなかった。アメリカが50州からなる「ユナイテッド・ステイツ」なら、日本は1府12省の「ユナイテッド・ミニストリーズ(省)」だ。
地方の末端まで中央の役人が権限を掌握している。復興予算一つ、地方が決められない。
しかも各省庁が縦割り行政を敷いている。
日本の官僚は秀才の集まりである。秀才は、隣の秀才の回答を真似して答えを出す。その隣の秀才は、
またその隣の秀才の答えをコピーする。そこに昨日と違う答えがあってはならない。昨日までを検証して歴史を認識し、
明後日に向かってビジョンを打ち出すことは、いまの官僚にはできない。
僕は東京都の知事になった。首都東京は特別な都市である。日本の人口の1割、GDP(国内総生産)の約2割をつくり出している。
GDPの額でいえば、「東京国」は韓国と同じ規模。永田町や霞が関に直接、影響力を行使できる
立場にある。
それは同時に、東京は東京のことだけ考えていればよいわけではない、ということを意味する。東京は日本の心臓である。つまり、全国に血液を循環させていく責任がある。
都知事になったのだが、目の前の課題は副知事時代にすでに手をつけてきたものばかりだ。
たとえば、東京電力の改革の問題。原発事故の影響で、福島原発、柏崎刈羽原発から電力がきていない。
合計1700万キロワット。脱原発を唱えているだけでは、何も解決しない。東京電力の老朽火力をリプレースしていくことで、
都民の電力を確保していく必要がある。新しい火力発電所の建設には、東京ガスや石油会社、あるいは中部電力など、
いろいろな会社が入ってきて、さらに民間の銀行やファンドからも資金を募る。電力会社の発電部門を自由化する。
官僚機構は縦割りで何も動かない。だから、まず東京都が提案して、国を動かす。
僕はいま66歳である。最近、歳を取るということは、ほんとうに素晴らしいと思うようになった。
頭のなかにいろいろなエピソードが蓄えられて、どんどん知識が深まっていく。その知識をベースに、
僕は作家としての好奇心、そして発想で、これは「おかしい」と思う問題を見つけていく。
もちろん、壁はあるだろう。東京発の日本国の改革は、官僚機構との戦いになる。僕はこの戦いに勝つつもりでいる。
勝算はある。ファクトを探し、それを自分なりの仕方で分析し、相手の言うことを「言葉の力」で一つひとつ論破していく。
東京都の知事になってみても、僕の“作家としての仕事”に変わりはない。
コメント: 冒頭の“文学論”に関しては、猪瀬氏は「芸術」としての文学のあり方を否定しているようなところがあり、
首肯はしかねるのだが、あくまで同氏が「ファクトと責任を明確にする」作家像を理想としている、と捉えればいいのだろう。
こうした姿勢は、どちらかというと「ジャーナリスト」に近いものなのではないだろうか。
問題を切り崩して事実を解明し、明確な回答を見出す、というジャーナリスティックな姿勢は、政治だけでなく
あらゆる「改革」に必要なものだと思う。
そんなことは百も承知と言われるかもしれないが、新都知事には、もう一つのジャーナリストに欠かせない姿勢である
「偏りのないバランス感覚」を堅持しながら改革に挑むことを期待したい。
Copyright:株式会社情報工場
そんなことを言っている時に、知人(H氏)から送られてきたネットジャーナルに先の選挙で史上最多得票で
東京都知事になった猪瀬氏の記事も、少し視点は違うが興味を引いたのでここにご紹介します。
******ジャーナルより******
Voice 2013年02月号 p80-87
「『東京国』が霞が関の壁を壊す」
猪瀬 直樹(東京都知事/作家)
【要旨】2012年12月16日、衆議院選挙と同時に行われた東京都知事選挙の結果、前任の石原慎太郎氏の元で
副知事を務めていた猪瀬直樹氏が史上最多の得票数で当選を果たした。
総力特集「安倍長期政権の力量」に含まれる本記事は、新都知事自らがこれからの都政における「改革」の方向性を示すものである。
猪瀬氏は『ミカドの肖像』『日本国の研究』等の著作で知られる「作家」である。
本記事では、作家としての自己アイデンティティを再確認し、その「ファクト・ファインディング」の力や好奇心、
問題発見力を発揮し、近代日本の大きな特徴でもある官僚主導の体制に対決を挑む、その姿勢
と方針について
歴史的経緯も踏まえながら論じている。
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僕の原点は作家である。作家というものは、一つひとつの出来事を必ず頭のなかにインプットしていく。
僕の作家としての責任、都知事としての責任にはどんな関係があるのか。
もともと日本の文学は、森鴎外と夏目漱石から始まっている。劇作家の山崎正和さんは、森鴎外を「闘う家長」と評している。
そうか、作家には責任があるんだ、と思った。
「家父長制度」という言葉は、戦後、忌み嫌われるようになったが、それは制度としては欠陥もあったからで、
責任を取るという意味での家長の意識は必要である。家長の意識とは、自分も国家の構成要
素、
つまり一部分を担っていて、自分で責任を負うという意味である。体制にただ不満をぶつけているより、
どうやって解決できるか、道筋を示したほうがいい。
一方の夏目漱石のほうはどうか。『こゝろ』という小説がある。誤解を恐れずにいえば、あんなに内容がない小説はない。
いわば放蕩息子たちが自分の内面を語っているだけの小説である。
漱石のあと、芥川龍之介が出てきて、『藪の中』という小説を書いた。人物がそれぞれ内面を語っていて、
犯人が誰かわからない。しかし、謎が謎のまま終わってしまうのは、文学ではない。いちばん重要なのは「ファクト」である。
『藪の中』は、漱石の放蕩息子の系譜に連なる作品だ。家長の責任がない文学なのである。
日本の新聞も、放蕩息子の系譜の小説と同じようなところがある。いまの新聞はたんにダメだ、ダメだといっていれば、
商売が成り立つと思っていないだろうか。森鴎外のような「闘う家長」としての意識がない。
だから僕は、1997年に『日本国の研究』を書いた。この本では特殊法人、認可法人、公益法人など、
政府系の法人について書いたが、三者は複雑に絡み合い、地下茎のように自己増殖していた。
それだけでなく補助金漬けで、天下りの素地となっており、民業を圧迫していた。寄生虫のように国家財政を食い荒らしていた。
霞が関の官僚、虎ノ門の特殊法人、そして永田町の族議員。この秘密のトライアングルの構造を解き明かしたとき、
僕は道路公団の民営化をはじめ、あらゆる問題がゼロになる、解決できると思った。
僕の作家としての武器、それはファクト・ファインディングである。国民はもちろん、新聞記者も、政治家も、
官邸にいる総理大臣も知らない、そんなデータを官僚側に提出させるには技術がいる。
空欄の表まで全部用意して「こことここに書き込め」と具体的に要求しないと、官僚はデータを明らかにしないのだ。
ところが、現在のメディアの記者は結局、記者クラブで情報をいただいてきて「行政情報」を宣伝してしまう。
新聞社やテレビ局は必ずしも「われわれ側」の代弁者でないのだ。
一度、僕は新聞社やテレビ局の人間を前にはっきりいったことがある。あなた方と東京電力の社員はどこが違うのですか、と。
一本道のレールだけがすべてだと思っていて、それに疑問をもたない。リスクはけっして取らない。
これは財界にもいえる。本田宗一郎やソニーの盛田昭夫のような創業者精神をもつ人間はいなくなり、
長く無難に勤めてきたような人が社長になる時代になった。このままではきっと日本はダメになるだろう。
そんなことを、僕は都知事選の最中に考えていた。
以前、鳥居泰彦さん(元・慶應義塾塾長、財団法人交詢社理事長)の話を聞く機会があった。
日本近代の成り立ちについてである。次のような内容だ。
明治10(1877)年、伊藤博文はヨーロッパに行き、ウィーン大学のシュタインの講義を聞いた。
シュタインがいうには、日本がイギリスのような議会政治を採用したら、百家争鳴となって何も決まらなくなる。
だから、まず官僚機構をつくり、官僚がつくった政策を議会で承認するような憲法を採用す
べきだと。
こうして明治憲法ができた。近代日本は官僚が指導する国になったわけだ。
戦後の教育では、戦前の日本は天皇主権の国であり、戦後は国民主権の国になったと教えられた。
しかし、これはまったくのウソである。日本は戦前も戦後も、官僚主権の国である。官僚機構は価値観をもたない。
ひたすら先行モデルをコピーする。戦前の日本は欧米の帝国主義を学んだ。アメリカとの戦争に敗れると、今度はアメリカをコピーした。
日本の官僚は、アメリカのモデルをコピーしたが、地方自治の概念は学ぼうとはしなかった。アメリカが50州からなる「ユナイテッド・ステイツ」なら、日本は1府12省の「ユナイテッド・ミニストリーズ(省)」だ。
地方の末端まで中央の役人が権限を掌握している。復興予算一つ、地方が決められない。
しかも各省庁が縦割り行政を敷いている。
日本の官僚は秀才の集まりである。秀才は、隣の秀才の回答を真似して答えを出す。その隣の秀才は、
またその隣の秀才の答えをコピーする。そこに昨日と違う答えがあってはならない。昨日までを検証して歴史を認識し、
明後日に向かってビジョンを打ち出すことは、いまの官僚にはできない。
僕は東京都の知事になった。首都東京は特別な都市である。日本の人口の1割、GDP(国内総生産)の約2割をつくり出している。
GDPの額でいえば、「東京国」は韓国と同じ規模。永田町や霞が関に直接、影響力を行使できる
立場にある。
それは同時に、東京は東京のことだけ考えていればよいわけではない、ということを意味する。東京は日本の心臓である。つまり、全国に血液を循環させていく責任がある。
都知事になったのだが、目の前の課題は副知事時代にすでに手をつけてきたものばかりだ。
たとえば、東京電力の改革の問題。原発事故の影響で、福島原発、柏崎刈羽原発から電力がきていない。
合計1700万キロワット。脱原発を唱えているだけでは、何も解決しない。東京電力の老朽火力をリプレースしていくことで、
都民の電力を確保していく必要がある。新しい火力発電所の建設には、東京ガスや石油会社、あるいは中部電力など、
いろいろな会社が入ってきて、さらに民間の銀行やファンドからも資金を募る。電力会社の発電部門を自由化する。
官僚機構は縦割りで何も動かない。だから、まず東京都が提案して、国を動かす。
僕はいま66歳である。最近、歳を取るということは、ほんとうに素晴らしいと思うようになった。
頭のなかにいろいろなエピソードが蓄えられて、どんどん知識が深まっていく。その知識をベースに、
僕は作家としての好奇心、そして発想で、これは「おかしい」と思う問題を見つけていく。
もちろん、壁はあるだろう。東京発の日本国の改革は、官僚機構との戦いになる。僕はこの戦いに勝つつもりでいる。
勝算はある。ファクトを探し、それを自分なりの仕方で分析し、相手の言うことを「言葉の力」で一つひとつ論破していく。
東京都の知事になってみても、僕の“作家としての仕事”に変わりはない。
コメント: 冒頭の“文学論”に関しては、猪瀬氏は「芸術」としての文学のあり方を否定しているようなところがあり、
首肯はしかねるのだが、あくまで同氏が「ファクトと責任を明確にする」作家像を理想としている、と捉えればいいのだろう。
こうした姿勢は、どちらかというと「ジャーナリスト」に近いものなのではないだろうか。
問題を切り崩して事実を解明し、明確な回答を見出す、というジャーナリスティックな姿勢は、政治だけでなく
あらゆる「改革」に必要なものだと思う。
そんなことは百も承知と言われるかもしれないが、新都知事には、もう一つのジャーナリストに欠かせない姿勢である
「偏りのないバランス感覚」を堅持しながら改革に挑むことを期待したい。
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