蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

新島襄   (bon)

2013-01-17 | 日々雑感、散策、旅行
今年の大河ドラマ「八重の桜」から、八重が結婚した新島襄という人について、これまでも知ってはいましたが、
この際もう少し詳しく把握しておこうと思いました。

NHKのドラマでは、いきなりアメリカ南北戦争が出たり、黒船が来たりで始まりましたが、その時代なんですね。

山本八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八の子として誕生し、戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった
砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した・・とあり、
会津のジャンヌダルクとも呼ばれたとか。 
戊辰戦争が始まる前に、八重は結婚していたがその後離婚し、明治になって兄を頼って京都に来る。
それで、新島と結婚することになったのだが、男勝りの彼女の自由な生き方に新島は惚れたようだと・・。
妻のことを“ハンサムウーマン”と呼んでいたらしい。

たまたま、この月曜日の鶴瓶の“家族に乾杯”の番組で、主役“八重”役の女優綾瀬はるかが会津の街を回ったのでしたが、
その時であったお母さんは“ハンサムウーマン”の認定書を持っていましたね。


 本論の新島襄(1843~1890)は、同志社英学校(後の同志社大学)を立ち上げた人で教育者としても有名ですが、
22歳の時にいわゆる密航でアメリカにわたり、1865年ボストンに到着した後、船主の援助を受けてアカデミーに入学している。

(ウイキペディアより)


 渡航中の船長に“joe(ジョー)”と呼ばれていたところから、“襄”というようになったとか・・。
本名は、“七五三太”(しめた)というそうだ。

 明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、
自分付けの通訳として使節団に参加させたりして、ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、
ロシアを訪ねた。
その後使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集し、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えているそうです。

 教育者としては大隈重信とも親交があり、今日同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)制度が
あるのはそのためだそうだ。
 
 1880年(明治13年)以降、大学設立の準備のために、井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・
渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付けている・・というから、すごい人なんですね。
この、土倉氏は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとしたとか。
また、土倉は、奈良県吉野の山林王として有名であったが、「自由民権運動のパトロン」でもあった。
そういう訳で板垣退助と新島を取り結んだのも土倉であろうといわれている。


 ついでに、アメリカをちょっと追加しておきますと・・。
南北戦争が1861~1865で、時の第16代大統領リンカーンが、1865年劇場で暗殺されたのですね。

 彼の有名なゲティスバーグでの演説は、少し前の1863年11月なんですね。











コメント (1)
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