蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

宗澤君のこと  (bon)

2020-05-13 | 日々雑感、散策、旅行

 まったく個人的なことですが、最近、宗澤君のことがやけに想い出されてきました
ので、その一端を記してみました。

  中学3年の時、同じクラスになって、彼の家は清水谷高校のすぐ裏手にあり、私の
家の
近くでもあったので急速に親しくなったのだと思います。 この頃10人くらいと
仲良しグループを作っていたようですが、宗澤君とは、家が近くなので学校が終わっ
てからも生活面にまでかなり入り込んだ密な付き合いだったようです。
 性格的には、頑固な、一本気で、間違いと気づくまで押し通すような真面目で強が
りな方で、どちらかといえば私には苦手なタイプでしたが、純粋で正直なスポーツマ
ンタイプで、どこか好感の持てる人でした。 黒いふちの丸メガネをかけて、大きな
丸い眼が印象的でした。

 近所にもう一人、一色君という同年生がいました。彼は金持ちの長男で私立の高校
に進みましたから、時々会う程度でしたが、離れが彼の部屋となっていたので、3人は
たまにその離れにこもってよからぬ本などを見たりすることもありました。
 宗澤君は、一人で過ごすことがどうも苦手だったようで、たびたび我が家に来ては
遊んでいた記憶があり、私の家族とも親しい間柄となっていました。

 高校へは、10人ほどのグループはほとんど高津高校に進みましたが、私だけ清水谷
高校を選んで、宗澤君とも離れ離れになってしまいました。 中学3年の担任の田中
先生は、私たちの卒業とともにご出身の広島の修道高校に移られました。
 高校1年の夏休みに、宗澤君と二人で、広島に田中先生を訪ねて先生の下宿で2泊ほ
ど過ごしたことがありました。宗澤君は、夏だからといって、広島まで下駄ばきスタ
イルで行ったのです。 先生とは、中学時代にも春休みに下宿先にお泊りしたことが
ありました。 広島では、一日中、厳島神社や比治山公園、原爆記念館などを案内い
ただいて、優れた教育者の姿でしたが、下宿で、我々を先に寝かせて、同僚先生とお
酒を飲んでいる風でした。

    平和公園で(右が宗澤君)   先生の下宿で(真ん中が田中先生)
           

 宗澤君とは、高校が別々でしたから、何かの機会に会うという程度になり、彼は
野球部に入っていたので、時間もかなり拘束されていたようでした。大学へは、初年
度はともに浪人組になりましたが、彼は農学部志望でしたから、志望、大学も違って、
通う予備校も違っていて会うことも時々という感じになっていました。

 彼は2浪して念願の農学部に進み、私は学年が1つ越してしまいましたが、当時、
60安保の盛りで、二人して安保デモに出陣していました。

      仲良しで磐梯山(柏崎からおけさ丸で佐渡をまわって)
       
         (左から、私、宗澤君、藤原君、一色君)

 彼の家では、20人の机のある書道教室を開いていて、彼が大学生になったので、
その机を活用して、夜に学習塾を二人でやることにしたのです。 模造紙に墨と朱の
筆書きでポスターを何枚か作って、夜のうちに何本かの電柱に糊付けしてその日を
どきどきしながら待ちました。

 果たして、若いお母さん方が、一人また一人来られて、2日目には20人がいっぱ
いとなりました。 小4から高3までバラバラな20人でしたので、全体に講義をす
ることはできませんから、各自の宿題は一人ひとり対応し、自分がキチっと認められ
ているという認識が良かったのか、そして、小学生は塾終了後は自宅まで送り届ける
方法をとっていたり、春、秋には遠足を企画したり、安保闘争デモの参加模様を話し
たりでしたが、塾生はすぐに成績が向上し、お母さんたちには大変喜ばれていました。

      塾の子たちと遠足
        
           (左から2人目が宗澤君。右端が私)

 彼は野球部、私はボート部で、ともに運動部で、塾のない秋の土日は、ダンスパー
ティーに明け暮れたものでした。 学生服のズボンの折り目をしっかりつけるために
自分でアイロンがけをしたりして、二人して大阪南の方に出かけたものでした。
 学校も専門コースも違っていましたが、3日にあけず夕方まだ明るいうちに銭湯で
長湯して、よくもまあ何を話していたのかと思います。

          (右が宗澤君)

 そんな生活も、私が大学を卒業して東京に就職がきまり、学習塾は惜しまれながら、
やめることになりました。高3だった子も大学生となり、お母さんたちもお別れに
来てくれたり一つの区切りを迎えたのでした。
 翌年、宗澤君は、大手の料理学校に就職し、お互いまったく別の道を進みそれぞれ
新しい世界に入り二人の間の音信は途絶えてしまうのでした。

 宗澤君は、30才くらいで、中学の同級生の人気女性と結婚し、順調に過ごしてい
るとどこからか聞こえてきていました。お互い、結婚のことや、その後の状況などは
皆目情報交換がなかったのでした。

 何年かが過ぎ、2005年に、中学3年(当時)の同窓会の案内が届きました。見れば
第2回とあり、第1回は2年前にあったと。 で、2回目に卒業後何年も離れていた同窓
生に会うこととなりました。もちろん、宗澤君(宝塚在住)は出席するだろうと期待
していたのでしたが、彼は欠席でした。
 消息通に聞いてみると、あの当時人気だった奥さんが、植物状態で入院中だとのこ
と。同窓会どころではないのでしょう。どうやら、彼は、世の中から見放されたよう
な感じを抱いてしまい、一人暗い気持ちの中を過ごしていたのでしょう。

 そんな状態の中、何か手を差し伸べようと思いながらついつい日が過ぎていた時に、
奥さんが逝去されたとの情報が入り、一瞬ドンと胸を打たれたような衝撃を感じたの
です。
 それまでの状況は、勿論何も知る由もなかったけれども、慰めの一助になればと長
い手紙を書いたのでした。 彼からの返事は、ありませんでしたが、翌年2月「寒中
見舞い」のハガキが届いたのです。 翌年から、私の方からは年賀状、彼からは寒中
見舞いの形で年に一度の状況報告を交わし、年を追うごとに、彼の文面から立ち直っ
てゆく様が感じられ、最近では、世界の動向を批評したり、自らの生活行動が広がっ
てきていることが読み取れていたのです。そのうち機会を見つけて一度、会ってみて
はどうかなどと思うようになっていました。

 中学の同窓会は、その後2~3年おきに開催されていましたので、必ず参加しまし
た。彼が出席することを期待していたのですが、ついに出席することはありませんで
した。しかし、近況欄に、「足が悪く外出が無理なため、欠席します。」の彼の言葉
を見つけました。

 そんなとき、昨年12月初め、宗澤君の息子さんから「父死亡」の欠礼の知らせが届
いたのです。一瞬驚きました。まさか彼が・・原因は何か? どんな状態で? しば
らくは、空白が続きました。

 今年はハガキのやり取りが無いまま、新緑の季節になりました。新型コロナで世界
中が大変な状況ですが、宗澤君はこんな状況は知らずにどこかで、安らかにグルメを
楽しんでいるかもしれないと思いながら、あれだけ密着して過ごした10年も、お互い
が独立して行動し成長したことを、膝を合わせて語り合うこともなく、彼がドン底に
いたであろうその時も、知らずに過ごしてしまっていたこと、立ち直り、回復してき
たと知った時も、会うことがなかったことを悔やまれるのか、60年も前の昔の断片的
な事柄が、やけに想い出されてくるのでした。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする