昨日の審判講習会では、元ヤクルト投手の黒田さんという方が指導してくれたと息子が興奮気味に言っていました。野球少年は、プロ野球選手には本当に弱いですねえ。故障でプロでは目立った成績は残せなかったようですが、崇徳のエースとしてセンバツで優勝し、日本ハムに一位指名された有望選手だったようです(日ハム指名は拒否)。
ということで、そのような野球の桧舞台に立った人と管理人自身のちょっとした(本当にちょっとしたなんですが…)接点を書いてみます。
以前、阪神で活躍した佐野仙好選手(通算安打1,316本)が中学の先輩と書きましたが、現役バリバリの頃のオフシーズンに帰郷した際に、私たちの中学に来てくれました。ユニフォームでなかったせいかそれほど大きくは見えなかったものの、きっと我々はぽわーとした顔で見ていたのだと思います(というのも、25年以上も前の話でよく憶えていないんですよね。確かサインももらったはずですが、どこにいったのでしょうか…)。
中学3年の時は、市大会で準優勝し県大会に出たのですが、その時に「新里中学に渡辺というスゴイピッチャーがいる」と噂になっていました。管理人たちは1回戦で敗れたので、渡辺という投手を見る機会はありませんでしたが、翌年その渡辺投手は一年生ながら前橋工から甲子園に出場し、二年後西武ライオンズにドラフト一位で指名されました。伊東監督のあと監督に就任するのではないかと言われている渡辺久信です。こんなことになるんだったら、もう少しガンバって対戦していたらよかったのにと思います(かすりもしなかったでしょうが)。
その頃の田舎は?気なもので、夏の大会が終わってから受験勉強です。管理人が合格した高校は春の選抜の出場を決めていました。野球強豪校でも何でもない公立高校ですから、創立以来の快挙でした。ウチの高校としては稀にみるレベルだったとは思いますが、世間的には決して甲子園に出場出来るレベルではなく、その様子は山際淳司の「スローカーブを、もう一球」という本にもなっています。OBに福田赳夫(福田康夫首相のお父さん)と中曽根康弘という大物政治家がおり、初出場ということもあって、かなり気合の入った寄付集めが行われました。しかし、結果は初戦で星稜に大敗、たくさんの寄付金が余ったおかげで柔道・剣道などのための第二体育館が建ちました(佐賀北と逆のケースですね…)。管理人も、夏休みまでその野球部に籍を置きましたが、甲子園に出ていなかったら(普通の公立校の普通のレベルだったら)、野球を続けていたかもしれません。甲子園出場はフロック気味でしたが、やはり甲子園に出た先輩たちはそれなりのレベルで、体重50キロそこそこの管理人とはまったく違ってました。そんなわけで、管理人は夏休みを区切りに退部しましたが、その夏に甲子園に出たのが、渡辺久信の前橋工でした。ちなみに、ウチの高校を甲子園で率いた監督は野球はまったく素人の世界史の先生で、他にやる人ががいないからというだけで監督をやっていたのでした。管理人の三年の時の担任でした。
大学での軟式野球のサークルでは、当然それほどのレベルの人がいるはずもなく、ちょっとした接点すらありませんでした。会社に入ってからは、先輩に何人か甲子園経験者がいましたが、ユニフォーム姿でないとまったくそんなことは分からないですね。ということで、最近はそんなちょっとした接点もないのですが、出来れば、散ドラ諸君の中からすごい選手が出てくれないかなあ。そうしたら、「アイツはオレが育てた」くらい言っちゃうのになあ。ガンバってくれ!ドラゴンズ!
ということで、そのような野球の桧舞台に立った人と管理人自身のちょっとした(本当にちょっとしたなんですが…)接点を書いてみます。
以前、阪神で活躍した佐野仙好選手(通算安打1,316本)が中学の先輩と書きましたが、現役バリバリの頃のオフシーズンに帰郷した際に、私たちの中学に来てくれました。ユニフォームでなかったせいかそれほど大きくは見えなかったものの、きっと我々はぽわーとした顔で見ていたのだと思います(というのも、25年以上も前の話でよく憶えていないんですよね。確かサインももらったはずですが、どこにいったのでしょうか…)。
中学3年の時は、市大会で準優勝し県大会に出たのですが、その時に「新里中学に渡辺というスゴイピッチャーがいる」と噂になっていました。管理人たちは1回戦で敗れたので、渡辺という投手を見る機会はありませんでしたが、翌年その渡辺投手は一年生ながら前橋工から甲子園に出場し、二年後西武ライオンズにドラフト一位で指名されました。伊東監督のあと監督に就任するのではないかと言われている渡辺久信です。こんなことになるんだったら、もう少しガンバって対戦していたらよかったのにと思います(かすりもしなかったでしょうが)。
その頃の田舎は?気なもので、夏の大会が終わってから受験勉強です。管理人が合格した高校は春の選抜の出場を決めていました。野球強豪校でも何でもない公立高校ですから、創立以来の快挙でした。ウチの高校としては稀にみるレベルだったとは思いますが、世間的には決して甲子園に出場出来るレベルではなく、その様子は山際淳司の「スローカーブを、もう一球」という本にもなっています。OBに福田赳夫(福田康夫首相のお父さん)と中曽根康弘という大物政治家がおり、初出場ということもあって、かなり気合の入った寄付集めが行われました。しかし、結果は初戦で星稜に大敗、たくさんの寄付金が余ったおかげで柔道・剣道などのための第二体育館が建ちました(佐賀北と逆のケースですね…)。管理人も、夏休みまでその野球部に籍を置きましたが、甲子園に出ていなかったら(普通の公立校の普通のレベルだったら)、野球を続けていたかもしれません。甲子園出場はフロック気味でしたが、やはり甲子園に出た先輩たちはそれなりのレベルで、体重50キロそこそこの管理人とはまったく違ってました。そんなわけで、管理人は夏休みを区切りに退部しましたが、その夏に甲子園に出たのが、渡辺久信の前橋工でした。ちなみに、ウチの高校を甲子園で率いた監督は野球はまったく素人の世界史の先生で、他にやる人ががいないからというだけで監督をやっていたのでした。管理人の三年の時の担任でした。
大学での軟式野球のサークルでは、当然それほどのレベルの人がいるはずもなく、ちょっとした接点すらありませんでした。会社に入ってからは、先輩に何人か甲子園経験者がいましたが、ユニフォーム姿でないとまったくそんなことは分からないですね。ということで、最近はそんなちょっとした接点もないのですが、出来れば、散ドラ諸君の中からすごい選手が出てくれないかなあ。そうしたら、「アイツはオレが育てた」くらい言っちゃうのになあ。ガンバってくれ!ドラゴンズ!