東京が最初にオリンピックに立候補した時は、はっきり言って反対でしたが、招致を決めた2回目の時は、いろんな意味で賛成の気持ちでした(「2020年、東京オリンピック決定!」)。高度成長期の上り坂の日本と違い、長いデフレや大震災や原発事故を経験し、人口減少に向かいつつある成熟した日本で、どのようなオリンピックを行うのかを考えることは、意味のあることだと思ったからです。
そして、5年後に向けての準備を進める現在、その「意味」が問われているように思います。オリンピックのシンボルともなる新国立競技場をめぐる問題です。
新国立競技場のコンペで決定したデザインが発表された時は、ちょっと違和感を感じたのは事実です。二本の巨大なアーチを持つ流線的デザインは、高度成長期の五輪の時なら、手塚治虫が描くような「近未来的な」と表現されたでしょうが、成熟した社会を目指すべき現在の日本の「近未来」とはちょっと思えないような感じです。
ただ、デザインの違和感だけなら、それは個人の好みの問題として片付けられますし、文句を言っても仕方がありません。しかし、問題はどんどん別な方向に拡大しています。
一番の問題は、やはり費用ですね。当初1,300億円だった計画が、試算をしてみると3,000億円以上になることが分かり、計画を一部変更し、1,600億円にしたものの、アーチ型の開閉式屋根などの工事費が膨大でとてもその金額には収まらないと問題になり、デザイン変更の議論が巻き起こりましたが、文科相は費用増大の最大の原因である二本の巨大アーチの根本的なデザイン変更ではなく、屋根の設置の先送り、可動式スタンドを仮設にするなどの対症療法と、確約がとれていない東京都の500億円の負担などを織り込み、2,500億円で建設すると発表しました。
こうした経緯を見ていると、一体、最初のコンペの段階で、誰がどのような責任をもって決定したのか、ということが大きな問題ではないかと思います。
こうしたそもそも論はなかなか報道されませんが、一部報道で、こうしたコンペの際は、最終的なコスト管理も含めて行うこともあると報じていましたが、今回の件では、まったくそうしたことも行われていませんし、かといって、1,300億円というのはどうみても少なく見積もりすぎのようですし、本当に誰が、どのような責任で決定したのか、ここをまずは明らかにし、責任の所在をはっきりさせてほしいものです。
いまだに東京でオリンピックを開催することの意味はあると思っていますが、こんなこと一つ解決できないようでは、本当の意味での中身を充実させることは到底できないと思います。最初の五輪が高度成長期の日本にさらにエネルギーを注ぎ込んだのとは逆に、せっかくの機会が、これまでの低迷に拍車をかける禍根とならないことを祈るばかりです。