☆ 旅は一枚の写真から始まる!!
☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!
世田谷区奥沢に増上寺末、浄土宗寺院の「九品山浄真寺」(九品山唯在念佛院)はある。延宝6年(1678)奥沢城跡に珂碩上人が創建。本尊は釈迦如来 。東寺の特色は山号の「九品仏」が示す通り広い境内の本堂の対面に3つの「三仏堂」があり「中央の堂」、「北の堂」、「南の堂」に各3体の計9品のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されその呼称がついた。九品仏駅より寺号標から長い参道を進むと「総門」(惣門)がある。それを抜けるとまだ紅葉残る境内=寺域となりすぐ右手に「閻魔堂」、更に進むと右手に「東門」と「開山堂」、「寺務所」がある。左折するといよいよ「紫雲楼」とも呼ばれる重厚荘重な山門「仁王門」が構えられている。仁王門を潜ると左手に「鐘楼」、右手に総欅造り銅茸の11間四面の堂「本堂」が存在感を示している。本堂前には大銀杏が聳え、石庭、池が巧みに配され風情を醸し出している。(1912)
大阪市浪速区元町に「難波下宮(下社)」と呼ばれ難波一帯の産土神「難波八阪神社」は鎮座する。創建は不詳。後三条天皇の延久(1069~1073)の頃から祇園牛頭天王を祀る古社として崇められ、神宮寺の他十二坊の塔頭が並んでいた。もとは神仏混淆、維新後は神仏分離により寺は廃絶、明治5年(1872)に郷社となる。祭神は素盞嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子命。大阪難波駅より26号線を右折した元町の一角に構えられた「大鳥居」を抜けると正面に昭和49年(1974)完成の「本殿」、左に昭和49年(1974)に完成した素盞嗚尊の荒魂を祀る大きな獅子の頭の形をした舞台、独特な形をした「獅子殿」(高さ12m、幅11m、奥行10m)は有名である。毎年1月第3日曜日に行われる「綱引神事」は祭神の素戔鳴尊が八岐大蛇を退治し、民の困苦を除いたという故事に基づいて始められ平成13年(2001)に大阪市初の無形民俗文化財に指定された。摂社・末社として篠山神社、稲荷神社、三宝荒神社、市杵島姫神社、皇大神社祀られている。(1912)
大阪市天王寺区逢坂に「骨仏の寺」、「源空庵」としてよく知られている浄土宗寺院「坂松山一心寺」(高岳院)はある。創建は文治元年(1185)。開山は法然上人。本尊は阿弥陀如来。文治元年(1185)四天王寺の別当であった慈円の要請から法然が四天王寺の西門の坂の辺りに草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」としたのが興りである。また慶長5年(1600)家康の8男仙千代夭折の際当寺で葬儀を行っている。家康は境内孤松の姿を讃え「坂松山」の山号と寺額、また仙千代の戒名「高岳院」の院号を贈ったことから「坂松山高岳院一心寺」と改称した。徳川家康の庇護を受け江戸末期には宗派を問わない納骨および施餓鬼法要の寺として有名となった。嘉永4年(1851)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、明治20年(1887)、それまでに納骨されたお骨を以て第一期のお骨佛を造立して以来、十年を一期として一体のお骨佛を造立し、合計13体のお骨佛を造立し今日に至る。現在は戦災で失われた6体を除く7体を納骨堂内に安置、「お骨佛の寺」として知られている。府道30号線沿い、天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち広い境内寺域を有し彫刻の仁王像2体を施した「山門」(仁王門)を抜けると正面に入り母屋づくりの「大本堂」、左に「お骨仏堂」と「納骨堂」、右に「日想堂」と「念仏堂」がある。境内南に八代目団十郎、歴代住職、北に初代2代目林家染丸の墓がある。当寺は法然上人二十五霊跡第7番、大阪新四十八願所第39番の札所でもある。(1911)