国分寺市西元町・東元町に古代寺院跡の「武蔵国分寺跡」はある。奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国(60余国)の国分寺に国分寺・国分尼寺の建立を命じた中の一つがこの武蔵国分寺跡(史跡)である。現地案内板によると国分寺、国分尼寺は「天平13年」(741)の聖武天皇の詔により仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。「国分寺」が金光明四天王護国之寺、「国分尼寺」が法華滅罪之寺。昭和31年以来の発掘調査によって東西720m、南北(中軸線上)550mの寺地と、寺地中央北寄りの僧寺寺域(360~420m四方)及び寺地南西隅の尼寺寺域(推定160m四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判明した。更にこの中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されている。また、僧寺では諸国国分寺中最大規模の「金堂」をはじめ「講堂」、「七重塔」、「鐘楼」、「東僧坊」、「中門」、「塀」、「北方建物」が、また尼寺では「金堂」、「尼坊」、「中門」などが調査されている。武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明であるが元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと推察される。史跡指定地域約10万m2は現在「史跡公園」の整備に向けて土地の公有化が推進されている。「武蔵国分寺跡」は全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性が認められ大正11年に「国指定史跡」に指定された。なにしろ東大寺の東西南北とも8町に匹敵する大きさであり、かつての武蔵国の面影に触れることができる古代寺院跡地であった。全国に50ヶ所近くの国分寺が現存しているが、その殆どが国の指定を受けている。総国分寺、総国分尼寺は「東大寺」である。(2411)
ビナウォーク広場に建つ七重塔
ビナウォーク広場に建つ七重塔
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