相模原緑区下九沢に平成3年に開園した「相模原北公園」の一角=東西南北側に「梅園」がある。当園は種類が多く100種、約100本の紅白、枝垂れの梅木が植栽されている。今年は寒い日が続き初旬に訪れた時はまだ全体的に蕾、咲き始めの段階でまだ2分~3分咲きくらいであった。早咲きの品種はほぼ満開となっていた。枝垂梅の蕾も膨らみかけ今にも咲きだしそうである。数日前からやっと暖かくなった陽気に開花も加速してきたようである。梅のほのかな甘酸っぱい香りが漂う園内では観梅、梅撮、旬撮を勤しむ数名のカメラマンが盛んに可愛らしい高貴な梅花にフォーカスしていた。百花に先駆けて咲く梅の花は春の訪れを感じさせてくれる「季節の道先案内人」である。(1802)
相模原市南区下溝にある県立都市公園のひとつで市民のオアシスとなっている「県立相模原公園」はある。イベント広場からグリーンタワーに移動する左側に紅梅&白梅が4本、また「紅葉の丘」周辺に紅&白梅が5~6本ある。今年は寒かったせいか開花が遅い感じであったが、ここ数日の暖かさでイベント広場前の「白梅」、紅葉の丘付近では「紅梅」が満開となり真赤な樹形となっていた。すぐそばの白梅も全てに花びらが開き甘い香りを漂わせて咲き始めている。百花に先駆けて春の訪れを知らせてくれる梅、その花の美しさ、可憐さ、高貴さにうっとりさせられてしまう。「梅花」は春の道先案内人、いよいよ春がもうすぐそこまで来ていることが実感できる。(1802)
「第48回 小田原梅まつり」が2/3から3/4まで開催中である。「小田原城」でも開催されているが小田原の中でメインはなんといっても「曽我の梅」である。曽我の里に位置する曽我梅林は「中河原」、「原」、「別所」の各梅林からなり、約35,000本の白梅が植えられている。その中でも「別所」が広さも大きく本数も多い。曽我の梅は食用梅の生産が主のため、その殆どが白い花の白梅である。ここ数日の暖かさと相俟って一気に開花が進んだ。曽我山裾の「十郎」は満開、園内の「十郎」も6~8分。 遅咲き「白加賀」、枝が下に垂れる「枝垂れ梅」も咲はじめ3分~4分咲きとなってやっと見頃となった。梅だけでなく寺社も多く歴史深い町のため「下曽我駅」に降りたつと日頃の人出とは比べ物にならないくらいの大勢の観梅客、観光客で溢れていた。その花の美しさ、可憐さ、高貴さもつ「梅花」を楽しみ眺め、「梅香」に酔いしれ、時折、梅林からみえる頂に雪を被った名峰「富士山」が春空に輝いている。(1802)
相模原市南区下溝に相模原公園に隣接した全天候型舗装トラックやサッカー・ラグビー等の試合も行える天然芝フィールド、15,300人収容可能なスタンド備える「相模原ギオンスタジアム=相模原麻溝公園競技場」はある。スタジアム外の駐車場と外周フェンスの間に10本ほどの「河津桜」が植栽されている。先週は訪れた時は今にも開花しそうなくらい濃いピンク色の可愛らしい蕾を膨らませていが、今年は寒さの影響で開花が遅れているようである。しかし今日訪れてみると暖かさが幸いしてか全ての木に数輪から10輪ほど濃いピンクの可愛らしい花びらを広げ開花していた。いよいよ桜シーズン到来である。(1802)
豊島区巣鴨、染井霊園を出た一角に法華宗陣門流の東京別院「徳栄山本妙寺」(総持院)はある。創建は元亀2年(1572)。本尊は十界勧請曼荼羅。徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡「長福寺」の檀家であった武将を開基として遠江国曳馬に興された寺院である。天正18年(1590)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移るも、慶長8年(1603)江戸の家康に征夷大将軍宣下が有り、その後寺地を転々とし元和2年(1616)小石川へ移った。寛永13年(1636)伽藍が全焼し、幕府からの替地(本郷丸山)へ移った。本郷時代には塔頭7院を有する大寺院であった。明暦3年(1657)には火元とも言われる「明暦の大火」に遭い、寛文年間(1667)には法華宗勝劣各派の触頭となり、明治43年(1910)現在地へ移転した。大きな高麗門「山門」(清水建設の菩提寺で手掛ける)を抜けるとすぐ右手に「鐘楼」があり正面に「本堂」、客殿、学寮がある。本堂右手の境内墓地には明暦の大火の「供養塔」、「遠山金四郎景元」、「千葉周作」、囲碁の「歴代本因坊」の墓がある。